Be My Baby
嘘だろう、と思った。
お前そんなん詐欺だろうがふざけんな、とも思った。
しかし何故だか、今目の前にいる、自分より数十センチも背が低く、華奢な女に向かっては「嘘だろう」の『う』の字も発することができずに、はぁはぁ、と息を喘がせるしかなく、俺はくしゃりとくず折れるように座り込んだのだった。
* * *
こんな格好した俺が言うのもなんだが、この年まで俺が童貞なのは別に俺が見れない顔だからとかそんなんではなくて、単に香水くさいケバい女が苦手だからなのだろうと思う。
あと、あの茶色くてやたらくるくるしてる髪も好きじゃねえ。
だがしかし。
「お前、ばっかじゃねーの。この辺のガッコのやつで髪黒い女なんかいるかよ」
そりゃーまー、おっしゃるとおり。
「自分はそんなんなくせに、よくゆーよ」
それもまー、おっしゃるとおり。
金髪に脱色して痛み切った髪をばさりとかきあげて、馬鹿にしたような笑いを浮かべる悪友に蹴りをかます。
左右の耳にはこの数年間でいくつも開けた穴。その穴のどれもシルバーのピアスがぶら下がっている。
短くなった煙草を踏み消す。
俺らが今いるのは屋上だ。
職員室からは死角になっていること、教師たちも関わりあいになりたくないような連中がたむろしていることで、ここでの喫煙は半ば黙認された状態だった。
「あ、エージ。うちのガッコにひとりいるんじゃん?清楚な黒髪美人」
「はあ?知んねーよ」
「D組の『すだれ眼鏡』」
周囲の友人たちから一斉に下卑た笑い声が上がった。
意識せずとも自分の顔が険しくなる。
「ざけんな。ありゃーもう攻略不可キャラだろが。どーみても」
そこで再び下品な笑いが辺りを包んだ。
* * *
D組の『すだれ眼鏡』。
それはこの高校の同級生なら誰もが知っている。
本名まで知っているかどうかはともかく、一度はこの姿を目にしたことがあるはずだった。
そのあだ名の通り、肩まで伸ばした髪はその顔をカーテンのように覆い隠しており(いつもうつむきがちなせいだろうと思う)、たまに顔を上げたと思っても、その瞳を覆う分厚いレンズとぴくりとも上がらない口端のせいで、何を考えているのかは全く分からない。
スカートはもちろん膝下。靴下なんか今時どこに売ってあるのか見当もつかない三つ折りソックスだ。
それはもう『あんたは女というものをいったいどこに捨ててきたのか』というほどの酷さだ。
この女に関しては様々な噂(というかもうほとんど怪談の域)が飛び交っていたが、その中でも一番の謎は、なぜこの女がわざわざうちのガッコに来たのか、ということだった。
うちのガッコはこの学区内でも中の下くらいのガラの悪いヤンキー連中ばかりで、自己主張皆無なすだれ眼鏡がこんなところへ自ら望んでくるとはだれも思えない。
今のところ、『あまりの勉強のしすぎでノイローゼになって高校受験に失敗したどころか頭までイカレてしまった』というのが一番有力な説なのだが。
3限目の始まりから俺は屋上でサボっていた。
給水塔の上であぐらをかいて煙草をふかす。
ちょうど3限終わりのチャイムが鳴ったところだから、今から昼休みだ。
その数分後にがちゃりとドアが開いた。明るい茶髪をツンツンに立てたそいつは俺のクラスメイトだ。
この間「黒髪なら『すだれ眼鏡』がいるじゃん」とか話を振ってきた軽い男だ。
よお、と声をかけようとした寸前で、俺は口をつぐんだ。
そのドアから続いて、例の『すだれ眼鏡』が屋上にやってきたからだ。
クラスメイトは人影を確認するように二、三度周囲を見回した。俺に気づいている様子はない。
思わぬ展開に声をかけようとして半分身を乗り出したままの状態の俺に、二人の会話が風に乗って聞こえてきた。
「あの、さ、…前から言おう言おうと思ってたんだけど、…―― さんに俺と付き合ってほしいんだよね」
「………」
「……聞いてた?」
「ごめんなさい、無理です」
「え?なんで?……彼氏とか、いないよな?」
はあああああ????
てっめえ、頭おかしくなったんか!ヤクなんかに手ぇ出すのは大馬鹿だって言ったろ!!と俺が怒鳴る前に、ぐるり、と恐ろしいほど滑らかな動きで、『すだれ眼鏡』は俺を見上げた。まるでそこに俺がいるのを知っていたみたいに。
ひくり、と俺の喉が働きを止める。
ビビった。
それはもう、テレビ画面から貞子が出てくる時並みにビビった。
「私、あの人と付き合ってますから」
はい??
「ね、エージ」
『すだれ眼鏡』は相変わらず表情のよく分からない顔を、でしょ?とばかりに小さく傾けて見せた。
『ね、エージ』じゃねーんだよ、ざけんなクソアマ!
* * *
意気消沈して去っていくクラスメイトを、これまた状況がよくつかめないまま見送った。
とりあえず目の前の『すだれ眼鏡』を問いただそうと思い、給水塔の梯子に足を掛ける。
ふみ消そうとした煙草は口にくわえたまま。あの二人が来る前に火を点けたばかりだったし、ただでさえ最近の煙草値上がりが、俺らの財布へ直にダメージを与えていた。もったいないことはできない。
「園田英嗣くんでしょ?」
初めて『すだれ眼鏡』の声をまともに聞いた。
フルネームに「くん」付けなんかされたの小学生の時以来で、なんだか背筋が寒くなった。
てっきり俺のような強面のヤツがやってきたらこいつはビビって逃げていくかと思っていたのだが、そんなことはなかった。
近くに寄ると、ずいぶんと背が低い。190近くある俺とじゃ40センチは違うんじゃないかってほどだ。
ポケットに手を突っ込んで、物珍しいものをこの機会によく見ておこうとわずかに足を前に踏み出した瞬間、首に引っかかっているだけの状態になっているだらしないネクタイを、グイッと驚くほどの力で引っ張られた。
一瞬何が起きたのか分からない。
くわえていた煙草はかすめ取られて、何か柔らかいものが押し当てられた。
べろり、とそこから現れたものが俺の唇の表面を、見せつけるかのようにゆっくりと動き、最後に唇の端に歯を立てられた。
「…ヒッ」
途端に、今自分が女にキスされていたのだちうこと、更にそれをあの女を捨てきった妖怪みたいな『すだれ眼鏡』にされているのだということが、怒涛のような勢いで脳に伝わってきて、悲鳴みたいな声が漏れた。
彼女が自分で俺から離れるのと、俺が思い出したように慌てて『すだれ眼鏡』を突き飛ばそうとするのでは、『すだれ眼鏡』の方がいくらか早かった。
俺から取った煙草を一口吸い、軽く紫煙をくゆらせると、『すだれ眼鏡』は容赦なくその煙草を踏み消した。
「この煙草はもうやめたほうがいいよ。キスするときにマズイって女の子から文句言われない?」
『すだれ眼鏡』からキスなんて言葉が出た。
その時あっけにとられてただ口を押さえている俺を見て、あいつは確かに「笑った」。
あの、『すだれ眼鏡』が!
「前々からカワイイなあとは思ってたけど……、ずいぶんそそる反応するね?」
「カワイイ」…?「そそる」……?
ああ、俺の理解が追い付かない。けれど、これは断じて俺のせいなんかじゃない。絶対に。
『すだれ眼鏡』はと言えば、もう俯いてなんかいなかった。
頭を軽く振ると、顔を覆う長い髪がその輪郭を露わになりだす。
とどめにばさりと『すだれ眼鏡』の右手が前髪を上げた。
そこに現れる彼女の素顔。
「な、おま…」
よくできた人形のような。
長いまつげに赤い唇。目はくっきりとした二重。その上にマッチ乗るんじゃねえの、ってぐらい睫毛は長いし。
『すだれ眼鏡』の素顔は驚くぐらいかわいかった。
けれども、何故だか彼女には俺が目を瞠るほど迫力がある。
その瞳の中にはある種の獣が浮かべるような愉悦が確かに浮かんでいて。
今にも舌なめずりしそうだった。
無意識に後ずさり、しかしそのすぐ後ろは給水塔があった。ああ、俺、万事休す。
なんでこんなチビな女にビビってんだ、とか、いくらこいつがキスしてきたからってそんなのなんでもねーだろ、とか、とにかくごくごく当り前のツッコミが頭の中をぐるぐるぐるぐるしていたけれど、そのくせ何も行動には移せずに、俺がしていたことと言えば迫ってくる『すだれ眼鏡』の姿を、目を見開いてじっと見ていたことだけだった。
俺のそんなぐるぐるに気づいたのか、彼女は再び笑った。
『にこり』というよりもずっと『にやり』に近いやり方で。
「園田君は昔何か習い事とかしてた?私はね、合気道とか空手とかやってたんだけど」
そうかよ。頭の悪い俺にも分かる牽制ってか。
一度されたことなんだから、注意しろって話だけど、俺は再びネクタイを掴まれ、無理矢理身をかがませられた。
かぷり、と耳朶を食まれ、やがてその奥でぴちゃりと音を立てていた舌が俺の耳を犯す。
耳殻の形を確かめるようにフチをなぞると、その舌は耳の中まで舐めた。
その瞬間、ぞわりと俺の背筋が何かを走って、小さく跳ねた。腹の下が熱く、もやもやする。
「ぁ」
やっべえ。これ絶対やばいって!!
その間にも舌は俺の耳を執拗に舐め続けていた。
その水音がまるでAVで聞くようなやつで、余計に身体の中に熱が集まった。
かがめたままの腰が痛い、と思いだした頃には彼女の左手はがしりと俺の頭を固定していて、俺の唾液にまみれた彼女の白い指が、俺の歯並びをひとつずつ確かめるように口の中で動いていた。
「ぅ、あ…」
「耳、弱いんだ?」
ああ、この女の割に低い艶のあるハスキーボイスは何なんだ!ズクリと下半身にクるような。
さっきまでこんな声じゃなかったくせに…。
分かってやってる。こいつ、ぜったい、分かってやってる!
「ぅ、…ちっげえ……!」
口から指が引き抜かれるまでろくにしゃべることができなかったので反論が遅れた。
「な、で…こんな」
ようやく彼女はネクタイを手放した。
なぜか息は乱れ、へなへなと座り込む羽目になった。ああ、ズクンズクンと脈打つリズムがリアルに感じ取れる。
「かわいいから」
かわいいって、誰がだ。お前がか。
まあ確かに『すだれ眼鏡』の素顔がかわいいことは認める。でも…、
「園田君がかわいいから、つい」
やっぱり『すだれ眼鏡』が勉強のしすぎで頭イカレちまったていうのは、本当らしい。
俺が呆れかえっているというのに、『すだれ眼鏡』はしゃがみこんで俺の顔を覗き込んできた。真剣な面持ちで。
「彼氏になってくれるでしょ?」
てめえここにきてなんでいきなり確認系なんだよ。どういう脈略だ。
いくら俺がバカだからって話飛びすぎにも程があんだろが。
ああ、でも俺もどうやらおかしくなりはじめてる。
さっきあんな意味不明な目にあったくせに、こいつの低くて甘ったるい声はホントイイな、とか、さっきは信じらんねーぐらい気持ちよかったよな、とか、こうやって真面目な顔してじっと見てくるの、なんかかわいいよな、とか、そんなばかばかしいこと思い始めてる。
やばいやばい。
この調子じゃぜったい『すだれ眼鏡』にうまいこと持ってかれる。
やばいやばい。
誰かいますぐここにきて俺を正気に戻してくれ。
そう俺は願っているというのに。
「………ん」
ふてくされたような声で返事をするのだ。俺の口は。ああ、くそったれ。
「私もエージって呼んでもいい?」
「……勝手にすればいいだろ」
「で、もちろん私の名前は知ってるよね?『すだれ眼鏡』じゃなくて本名の方」
「……」
頑なに彼女の方を向かずに顔をそむけていたら、ガリ、と鎖骨に噛みつかれた。
「いっつ……!」
「真咲。私の名前、白谷真咲」
そう言って初めて穏やかに笑った彼女に思わず見惚れてしまったというのは、ここだけの話。
- The end…?-
「ねえ、それズボンの前キツくない?抜いたげよっか?」
「バッカお前こんなところでふざけんな!!」
「でもどうせ4限もサボるでしょ?出れないもんね、それじゃ」
「お前のせいだろうが!ばかしね!」
「…。じゃあ男子トイレの個室は?それかここのすぐ下の学習資料室にする?」
「………」
「やっぱりここで……」
「あーもう黙れ!お前ちょっと黙れ!」