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宰相女公と刺客王子の花序曲

作者: 早匂 素花

「それ以上動いたら、叩き斬るぞ」

 凛と響いた声に、刺客と化した青年は思わず足を止めた。

 顔の前に突き付けられた白刃。薄い刃越しに向けられる瞳の青色。

 その深い青に意識が吸い込まれた気がした。

「女王陛下っ!」

「何の真似だ! ハイラントの王子!」

 不測の事態に慌ただしくざわめく周囲の音は、彼の耳には入ってこなかった。

 唯一はっきりと聞こえるのは、目の前の女性の口から発せられる、冴えた声だけ。

「どうした? 私を狙っていたのだろう、ハイラント王子アシュクロフト」

 謁見中の他国の王子が、唐突に自分を襲う刺客となったというのに、その口調は動揺したところがなく、女王の威厳を備えたままだ。

 そして、たおやかなその容姿にそぐわない剣を構える細い腕にも、震えや怯えはない。

 女性のその潔さに、青年——アシュクロフトは息を飲んだ。彼女の胸に突き刺すつもりだった剣を握る手が、わずかに緩む。

 女王は、それを見逃さなかった。

 彼女の剣が翻って、アシュクロフトの剣を撥ね飛ばす。

 床に転がった金属音に、主人に刃を突き付けられて身動き取れなかった衛兵たちが我に返った。弾かれた剣を回収する。控えていた青年の随員たちを拘束する。そしてアシュクロフト本人も後ろ手に捕縛しようとする。

 難なく衛兵たちから逃れかけたアシュクロフトは、しかし新しく謁見室に響いた声に足を止めた。

「あらあら、何の騒ぎかしら?」

 部屋の入り口から聞こえたのは、場の緊張感とは不釣り合いな柔らかい女性の声。

「へ、陛下! 今、ここにお越しいただくのは……!」

「……エスタ。状況を考えて出てきてくれ」

「貴女が立っているのだから、危険はないでしょう、シアナ」

 狼狽する家臣たちには構わず、言葉を交わした二人の女性の姿に、アシュクロフトは目を見張った。

 その二人は、鏡を立て掛けてあるのかと思うくらいに、そっくりだったのだ。

 まじまじと二人を見比べてしまって、ひとつだけ差違に気が付く。シアナと呼ばれた女性、アシュクロフトの剣を防ぎ、刃越しに彼を睨み据えた方の瞳が深い青だったのに対して、エスタと呼ばれた方は緑の瞳をしていた。

 だがそれ以外は、艶やかな黒髪も、整った顔立ちも、すらりとした身体つきも、すべて同じだ。

「女王が二人……?」

 口からこぼれた疑問に、シアナの方が笑う。

「残念だったな、ハイラントの王子。お前が狙ったのは、五古王国連合ガルシア国の女王エスティラーダではない」

 先ほどまで腰掛けていた女王の玉座の前に立ちながら、彼女はそう言い放つ。そして、重く豪奢な女王のドレスをばさり、と脱ぎ落とした。

 現れたのは、簡素な男物の服を着た、細い肢体。長く垂らしていた艶やかな黒髪を掻き上げて、無造作にひとつに束ねる。持っていた剣を鞘に収めて、彼女は冷ややかな青い瞳をアシュクロフトに向ける。

「私はガルシア国宰相、バシリオ公爵フェリシアーナだ」

 はっきりと名乗った彼女の瞳の深い青に、再び意識を奪われた。

 その隙に衛兵たちに身を拘束されるが、アシュクロフトはフェリシアーナの瞳の魅了から目を反らせない。

「北の塔に連れて行け。後で尋問する」

 冷淡に告げて踵を返そうとしたフェリシアーナに、アシュクロフトは反射的に叫んでいた。

「決めた! 標的を女王から貴女に変更する!」

「ほう。私を殺してもこの国に影響はないぞ」

「でも、わたくしは分身がいなくなったら困るわね」

「……口を出さないでくれ、エスタ」

 そんな会話をする二人の女性に、アシュクロフトは不適な笑みを浮かべた。

「暗殺の相手じゃない。俺は貴女の心をもらう。宰相女公フェリシアーナ」

 その宣言に対する瓜二つな女性の反応は、対極的だった。

「……は?」

「あらあら、愉しそうなお話ね」



 †



 感情を面に表さないことから『鉄壁の宰相女公』と言われるほどのフェリシアーナだが、この数日はその名を返上できるくらいに不機嫌さが滲んでいた。

 その日、女王執務室でエスティラーダと二人きりになると、臣下ではなく友人としての気安い態度になって、ソファにぐったりと身を預ける。

「まったく。何なんだ、あの男は。尋問を誤魔化す方便にしても、もう少しマトモなことを言えんのか」

「あら、方便のつもりはないのじゃない?」

「本気だとしたら、もっと問題だ。表敬訪問に来た一国の王子が、女王の命を狙った上に、宰相に懸想するなど」

「貴女に魅力があるということでしょう?」

「冗談だろう。肩書き以外の目的で私に近付く男はいない。そして王族であるあの男には、私の身分など無意味だ」

「そんなことないのに……」

 エスティラーダの嘆息を、フェリシアーナは鼻で笑って否定した。

 日頃、男装と無愛想な口調で、宰相として雄々しく振る舞う自分を、色恋沙汰の対象にする物好きがいるとは思えないからだ。

 歴史と伝統を誇る五古王国連合のひとつ、ガルシア国の年若き女王エスティラーダと、宰相バシリオ女公フェリシアーナは、同い年の従姉妹である。たおやかな美女である女王と、男装の麗人である宰相は、若いながらも卓越した手腕で周辺国に名を馳せていた。

 だが、実は二人が瞳の色を除いて瓜二つの容姿をしており、時折フェリシアーナがエスティラーダの身代わりを勤めていること——その間、エスティラーダは“視察”と称する街歩きを楽しんでいること——は、近しい一部の者にしか知られていない。

 そして今回の事件も、いつものように女王の代役をしている時に起きたのだった。

「相変わらず尋問の成果はないの?」

「もう三日になるというのに、未だに世迷いごとしか言わん」

 フェリシアーナは疲労を感じさせる溜め息を吐き出した。

 女王に危害を加えようとしたアシュクロフトをひとまず塔に幽閉したものの、一国の王子をそう簡単に処罰するわけにもいかない。彼の母国に事情を糾す使者を早馬で送り出した一方で、フェリシアーナも自ら彼の尋問に当たった。だが、アシュクロフトの弁明は、とても受け入れられるものではなかった。

 いわく、『女王を弑してガルシア国を乗っとり、母国での地位を上げるつもりだったけど、気が変わった。貴女が手に入れば満足だ。だから俺のものになってくれ』

 女王襲撃を悪びれることなく、飄々とそんなことを言ってのけるアシュクロフトに、フェリシアーナは呆然とするしかなかった。

『ふざけるな! そんな戯言をぬかしても、処罰は軽くならんぞ!』

『ふざけてない。俺は、貴女のその瞳に魅了されたんだ』

『私はそんな冗談を受け入れられるほど寛容ではない』

『だから本気だって』

 そんな実りのない会話を繰り返して三日。尋問に立ち会っている兵士や書記官たちも既に呆れ顔である。そして彼らから話が広まったのか、城内ではこの風変わりな異国の王子と我が国自慢の宰相女公様の行く末を案じる(賭けのネタにする)気配が満ちていた。

「ハイラントに出した使者が早く戻ってこんと、あの男だけでは話にならん」

「でも、実際のところ、特に被害はなかったわけで。いっそのこと、彼の求愛を受け入れるのも、ひとつのテではないかしら」

「どこをどうすれば、そういう話になるんだ?」

「シアナの結婚話で盛り上がれば、わたくしを狙った件はなかったことにできるでしょう?」

「なぜ、私が他国の王子の罪を軽くするために結婚せねばならない」

「ああいう突飛な人がシアナの旦那様になったら愉しいかな、と思って。それに、あの王子、顔貌はなかなかだったじゃない」

「エスタ……」

 片手で顔を被って項垂れたフェリシアーナの向かいで、エスティラーダはにこにこと罪の無さそうな笑顔を浮かべていた。

 実は、城内の密かな賭けの最多賭け主がこの女王だということを、フェリシアーナが知らないのはせめてもの幸いである。



 †



 一国の宰相として忙しいフェリシアーナだが、僅かな空き時間には、城内の奥にある小さな中庭で過ごすことが多かった。

 その中庭では、一本のヒトツバタゴの樹が大きく枝を伸ばし、周囲には山野草が植えられて、緑を誇っている。小さな花から漂う微かな芳香が心地よい。

 その花を愛でながら木漏れ日を浴びていたフェリシアーナに背後から掛かる声があった。

「フェリシアーナ!」

「っなぜ、お前がここにいる!? ハイラント王子!」

 この数日ですっかり聞き慣れた、だが北の塔以外で聞くはずのない青年の声に、フェリシアーナは訝しげに振り返り、そしているはずのない姿を見て、青い瞳を見開いた。

 陽を弾いて輝く銀髪の下、彫りの深い顔に嵌まる灰の瞳は、常に何かを面白がる色を浮かべている。女性にしては長身のフェリシアーナより更に高い位置から見下ろしてくるその瞳に、フェリシアーナの気分は波立った。

「誰が塔の外に出ることを許した!」

「誰も。俺が勝手に出てきただけだから」

「出てきた、って」

 北の塔は、身分が高い者用の牢獄だ。そう易々と脱出できる造りではないはずだ。

「刺客になれるくらいだから、あそこから出る程度のことは簡単だ」

 あっさりとそんなことを言うアシュクロフトに、フェリシアーナは形良い眉をしかめた。

 ハイラント国はガルシアから北にいくつも国を隔てている。かの国では暗殺や粛正が横行しているという噂は、遠い異国への偏見から発生したのだと思っていた。だが、いくら王位継承順序が低いとはいえ、王子自らがそんなことを口にするとは、あながち流言も聞き過ごすことはできないのだろうか。

「そんなことより、フェリシアーナに渡したいものがあって」

「何が“そんなこと”だ! だいたい、お前に名を呼ばれる覚えはない!」

「だって、『宰相』は地位だし、『バシリオ公爵』は身分だし、『宰相女公』は両方合わせただけで、どれも貴女自身を表すものじゃないだろう? 貴女自身を呼ぶには『フェリシアーナ』しかない」

「……それは、確かにそうだが。……いや、そもそも、お前に私を呼ぶ必要性は……」

「ある。俺が惚れたのは、貴女の地位でも身分でもない。貴女自身の、その瞳なんだから」

 真っ正面から瞳を覗き込まれ、そんな台詞を囁かれて、フェリシアーナは思わず息を止める。けぶるような灰色の目に、吸い込まれる気がした。

 それに抗うために、発した声は硬くなった。

「とにかく、なぜ塔を出てきたんだ!」

「だから、渡したいものがあるんだって。言葉では俺の気持ちをなかなか分かってくれないから、贈り物で攻めてみようかなと思って」

「贈り物?」

 フェリシアーナの目線が、すっと冷たく細まった。

「あいにくだが、装飾品や武具なんかで私の気を変えることはできないぞ」

 フェリシアーナの肩書きに目が眩んで、夫の立場を得ようと贈り物をしてくる人物はそれなりにいる。だが、所詮は女性だからと贈られる豪奢なドレスや宝飾や花束にも、あるいは男装に合わせて贈られる高価な剣や馬具にも、心惹かれることはなかった。

「そんなもの、フェリシアーナは興味ないだろ。それより、こういうのの方が好きなはずだ。ちょっと手を貸して」

 拒否する隙もなく手首を掴まれた。その手は意外と大きく硬く、剣を握り慣れているのだろう、と思われた。

「何をす……っ」

「はい、これ。フェリシアーナの瞳に似てるだろ」

 掌に一方的に置かれたのは、粗い麻布の感触とひんやりした重み。視線を向けると、そこには可憐な青色の花を付けた株が、根に土を付けた状態で乗せられていた。

「ツユクサ……? 何故……?」

「派手な花束は好きじゃなさそうだったけど、私室の露台には、いくつか植木鉢を置いてるから、花自体は好きだろうと思って」

「どうやってこれを?」

「城の裏手の丘にたくさん咲いてた」

 てっきりどこかで買ってきたのだと思ったが、そう言うアシュクロフトの手をよく見ると、指先や袖口に土が残っていた。わざわざ自分で掘り起こしてきたのだろうか。

「これも一緒に植えてやって」

「あ、ああ……というか、なぜお前は、私の部屋の露台まで知っているんだ!? それに城の外まで抜け出しているのか!」

「フェリシアーナが俺に靡いてくれるまでは、この国から逃げたりしないから安心して」

「そんな日はこない! お前、自分が虜囚だという自覚はあるのか!?」

「近いうちに、きっとくるって。それまで堅いこと言わない」

 アシュクロフトは軽やかな笑い声をあげ、ひらりと手を振った。

「今は大人しく塔に戻る。また来るから」

「もう勝手に出てくるな!」

 去っていく大きな背中に厳しい声を掛けながらも、フェリシアーナは手の中に残されたツユクサを無下に扱うことはできない。

 しばらく小さな花弁を見つめ、やがて渋々、といった様子をしながらも、そっと包み込むように持ち直す。そして私室に向かって歩きだしたのだった。



 †



 鼻唄を歌いながらアシュクロフトは野草の株を掘り起こしていた。今日は、城の右手の林に咲く薄紅の花が可愛らしいカノコソウだ。

 フェリシアーナに贈った花は、既に両手で数えられないくらいになった。レンゲ、アザミ、野スミレ……強引に渡される花々に迷惑顔のフェリシアーナだが、受け取った株は大切に持ち帰って植え直していることを、アシュクロフトは知っている。すっかり賑やかになった露台の鉢を見て、フェリシアーナの目許が緩んでいたり、早朝に自ら花々に水を与えていたりする様子を、こっそり眺めるのも愉しいものだ。

 それを思い出して笑みを浮かべていたアシュクロフトの灰色の瞳が、ふと冷ややかになった。掘り出した根を包む作業は続けながら、何気ない調子で低く小さい声を背後に投げる。

「……戻ったのなら『ただいま』くらい言ったらどうだ」

「失礼しました。愉しそうなところをお邪魔するのもどうかと思いまして」

 アシュクロフトの後方に立つ樹の陰から、落ち着いた声が返ってきたが、声の主は姿を現さなかった。

「フェリシアーナといる時に邪魔したら、消してやる」

「心に留めておきます……本気なんですねぇ。今の貴方様の行動は、母国にいた頃には想像がつかないくらいですが」

「もちろん、俺は本気でフェリシアーナに惚れてる。それより、報告は?」

「ひとまず手短に。ハイラント王——父君は、ガルシアと事を構える気はないようです。全て貴方様単独の行動だから、処遇は如何様にもしろ、とガルシア使者に回答されました」

 淡々と告げる声の主は、アシュクロフトに従う密偵だった。

「しかし第一王子は、国王の判断は甘いとご立腹で、勝手な行動を取った貴方様を処罰すべきだ、と主張されています」

「兄上もしつこいな。第五王子のことなんか放っておけばいいのに」

「放っておいたら脅威になるとお思いなのでしょう。今回の件は、貴方様と宰相女公がハイラントを陥れるための狂言に違いない、とも仰っていました」

「なんだ、そりゃ」

「策に乗らないために、貴方様と宰相女公に刺客を差し向けるとも」

「はあ? なんでそんな面倒なことを」

 アシュクロフトは、さすがに作業の手を止めて眉をしかめた。

「私がハイラントを出てくる時には、刺客の手配をされていましたので、近々こちらに到着するかと」

「俺には何を仕掛けてきても痛くも痒くもないが、フェリシアーナに手を出そうとするのは許せないな……仕方ない、対処するか」

 億劫そうに首を回して、アシュクロフトは立ち上がった。



 †



 どうにも寝付けなくて、寝台に横になったままフェリシアーナは目を開いた。カーテンを閉め忘れた窓から、微かな月明かりが入ってくる。その向こうに、いつの間にか賑やかになった鉢植えの数々を見て、よけいに目が冴えてしまった。

 野菊、花タデ、マツヨイグサ……小さく可憐な山野草は、園芸用の大輪の花よりも自分の好みに合っている。問題は、その草花を贈ってきた相手だ。

 アシュクロフトがフェリシアーナに花を渡し始めて、既に半月ほど過ぎた。そのことは城の者たちにも知れ渡り、最近ではかの型破りな王子に珍しい花が咲く場所を案内する輩までいるらしい(と、女王自ら愉しそうに教えてくれた)。フェリシアーナ自身も、毎度、文句は言いつつも、花を受け取ることには馴れつつある。

 このように自分の好みを理解した贈り物を、しかもわざわざ手を土で汚してまで続けられれば、いくらなりとも心は揺れていた。

 だが『油断するな』と理性は訴える。

 何しろ相手は、刺客だった男なのだ。もう害意はない、と言うのを、そう簡単に信じられるだろうか。耳に心地よいことを並べてこちらを油断させて、実は女王と宰相の二人ともを狙っているとも限らない。

(だが、あの王子、口調は軽薄だが、瞳は真摯なのだ……)

 幾度となく思い浮かぶのは、けぶるような灰色の瞳と、大きく硬い手の熱さ。その二つが、フェリシアーナの理性を越えて、心の裡を震わせている。

 制御しきれない感情の揺らぎを持て余して、息を大きく吐き出した。

 その時、きしり、と小さく床が鳴った。

 はっ、として、神経を研ぎ澄ますと、息を殺した誰かの気配が室内に感じられた。

 侍女や従者だったら、こんな潜むような動きはしない。——曲者、と判断する。

 いつの間に入り込んだのか。フェリシアーナは、気付いたことを悟られないように、寝返りを装って枕の下に手を伸ばした。そこには護身用の短剣を隠してある。

 気配が寝台に近付いてくる。

 短剣の柄を握り、身動ぎせずに待つ。

 気配が、フェリシアーナの様子を窺うように寝台の傍に立つ。

 その瞬間に、フェリシアーナは起き上がって短剣を突き付けた。

「何者だっ!?」

 だが、相手の方が動作が早かった。

 大きな手に口を覆われ、その勢いのまま強い力で寝台に押し戻される。短剣を持っていた手首は、膝で押さえ付けられる。

 反撃の失敗にフェリシアーナは唇を噛んだ。

 暗がりで相手の姿は見えないが、身体の大きな男のようだ。口を塞いでいる手の大きさと硬さに、ふと灰色の瞳が脳裏を過る。

(……やはり、騙し討ちするつもりだったのか……?)

 胸の奥に、引き攣れるような痛みが走った。

 視界に相手が構えた剣先が光る。だが、その剣に対する恐れよりも、自分の胸の痛みの方が、フェリシアーナには大きかった。

 自分の理性の方が正しかった。それだけのはずなのに、それがこんなに苦しいなんて——

 相手の腕に力が入り、いよいよ剣が振り下ろされる、そう覚悟して、目を閉じかけ。

「フェリシアーナ!!」

 窓際から飛び込んできた、聞き慣れた声に瞳を見開く。

 突然の侵入者に、フェリシアーナを押さえていた男の力が緩んだ。

 直後、男の身体が寝台から跳ね飛ぶ。

「フェリシアーナに何しやがる!」

 男を蹴り飛ばしたアシュクロフトは、そのまま男の元まで走り、腰の剣を抜き放つ。

「殺すな! 背後関係を聞きたい!」

「誰が差し向けたかはわかってる。フェリシアーナを傷付けようとした奴を許すわけにはいかない」

 返ってきた声は、とても冷たかった。それは、女王に扮していたフェリシアーナを狙った時に見せた冷徹な刺客の表情と同じだ。

 アシュクロフトはそれ以上は何も言わず、剣を振り下ろした。

 曲者は無言のまま頽れる。

 フェリシアーナとアシュクロフトの呼吸の音だけが寝室に響いた。

 しばらくして、寝台に座り込んだままだったフェリシアーナの元に、アシュクロフトが歩み寄ってきた。

「ごめん、助けにくるのが遅くなった」

「……私が襲われるのがわかっていたのか?」

「ああ……詳しくは、後で話す。それよりも、良かった、フェリシアーナが無事で」

 そう言って、アシュクロフトはがくん、と膝をついた。そして。

「っ!! っおい! おまっ、放せっ!」

「ほんとに、間に合って良かった……」

 気付いた時には、アシュクロフトに抱き締められていた。

 逃れようともがいても、がっしりした腕は動きもしない。

 伝わってくるアシュクロフトの熱に、フェリシアーナは自分が薄い夜着しか纏っていないことを思い出して、いっそう焦る。だが、じたばたするフェリシアーナを、アシュクロフトはしっかり抱き締めたままだ。

 やがて抜け出ることを諦めたフェリシアーナは、頭に回された手に気が付いた。

 先ほどは曲者の手をアシュクロフトの手と思いかけた。だが、彼の手の方が指が長く、少し柔らかく、そして、優しい。大きさと硬さだけで勘違いした自分が恥ずかしい。

「曲者が、お前でなくて、良かった……」

 そんな言葉が、ぽろりとこぼれ落ちた。

「何? フェリシアーナは、まだ俺が刺客のままだと思っていたの?」

 アシュクロフトが少し腕を緩めて、不満そうに見下ろしてくる。

「少しは」

「そんな……でも、俺じゃなくて良かった、ってことは、俺のことを好きになってくれてた、ってことだよな?」

「……! なっ、そんなことはな……っ」

「ある。そっか、嬉しいなぁ。ようやくフェリシアーナも、俺を受け入れてくれたかぁ」

「待て! 勝手に解釈するな!」

「まあまあ、照れなくていいって」

「照れてない!」

 その頃に、ようやく物音を聞き付けた衛兵たちが部屋に駆け込んできた。彼らが目にしたのは、部屋の隅で事切れている不審者と、そんなことは気にせず、寝台の上で真っ赤になって自分を抱き締める王子に声を荒げている宰相女公の姿だった。



 †



「つまり、すべては貴方の国ハイラントのお家騒動というわけね?」

「まあ、そうですね」

 女王エスティラーダの確認に、アシュクロフトはあっさり頷いた。

「こっちの国に迷惑を掛けたのは、俺が第一王子の煩い干渉を黙らせようと女王陛下の首を狙ったせいではあるんで、そこは謝ります」

「確かに、とばっちりを受けたわね。……でも、わたくしの大切な従妹の命を守ってくれたことには礼を言います。ありがとう、アシュクロフト王子」

 そう言って女王は謙虚に頭を下げた。二人の会話を黙って聞いていたフェリシアーナも従う。それに、アシュクロフトは決まり悪そうに頭を掻いた。

「で、エスタ。こいつの処遇はどうする? ハイラントに送り返せば、第一王子が彼をまた狙う可能性が高いが……」

「あら。彼のことが心配?」

「そういうわけじゃないっ。ただ、私は、わざわざ敵の元に返すのも寝覚めが悪いと思っただけで……っ」

 頬をわずかに紅潮させて弁解するフェリシアーナを微笑ましげに見やって、エスティラーダはアシュクロフトに向き直った。

「貴方はどうされたい? 祖国に戻るというなら、罪人の送還という形で送り届けることも可能よ」

「もう国のゴタゴタに巻き込まれるのは面倒なんで、できれば戻りたくないんだが」

「それなら、わたくしの案が使えるわ」

 エスティラーダのにっこり優雅な笑みに、フェリシアーナは嫌な予感を覚える。

「待て、エスタ」

(エスタがこういう顔をする時は、たいていロクなことを考えていない!)

 だが、フェリシアーナの制止は無視された。

「ハイラント王子アシュクロフト、貴方をバシリオ公爵家当主フェリシアーナの婚約者として、当ガルシア国に迎え入れます」

「それはありがたい」

「待て、と言っただろう! なぜそういう話になるんだ!?」

 正反対の反応を見せた二人に、エスティラーダはにこやかな笑顔のまま続ける。

「この際だから、第一王子には悪役になってもらいましょう——第一王子がわたくしの暗殺を企んでいたのを知って、アシュクロフト王子は大使として来国して、阻止してくれた。その際にシアナと知り合って、想い合うようになった。命の恩人なので、わたくしも婚約を認めた——というように諸外国に説明すればいいのではないかしら」

「いいですね」

「だから待ってくれ!」

「あら、シアナ。それなりに筋は通っていると思うのだけど」

「いや、筋が通る通らない、ではなく! 私の意思はどうなるんだ」

「だって、貴女もアシュクロフト王子を受け入れているでしょ? 昨夜は一緒の寝台にいたって聞いたわよ」

「それはっ、たまたま寝台にいて襲われたところを助けられただけでっ! ……感謝はしているが、それ以外はまったく何もないっ!」

「そう? 何にしろ、王子の身柄が守られるんだから、いいじゃないの。ね?」

 首を軽く傾げて目を細めた時のエスティラーダは、もう誰の意見も聞かずに自分の考えを推し進める。それををしみじみわかっているフェリシアーナは、がっくりと項垂れ。

 楽しげに様子を伺っていたアシュクロフトは、嬉しそうに笑った。

「それじゃ、改めてよろしく。フェリシアーナ、俺の未来の奥さん」

「……っ! 私は、けっして、よろしくなどされんからなっ!!」

 宰相女公の悲鳴のような声は、女王執務室の外にまで響いたのだった。




 五古王国連合ガルシア国の史書において、『安寧の昼下がり』と称えられる女王エスティラーダの治世。

 それを支えた人物として、宰相女公フェリシアーナとその夫アシュクロフトの名も記されている。

 これはその二人の、史書には残らない、出逢いの物語である——



【了】

 

 


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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