第16話:深淵の糸、血に染まる3秒(後編)
扇町公園ダンジョンの地下3階層。コンクリートに囲まれた無機質な訓練用エリアの最奥で、俺たちは足を止めていた。ここから本来なら移動不可能なはずの、生駒山ダンジョンのさらに奥――人跡未踏の『未踏エリア』へ直接突入するためだ。あの土蜘蛛の変異種は、ギルドの探索範囲を遥かに超えたその漆黒の深淵に潜んでいる。
「頼む、ケイ」という俺の呼びかけに応え、肩の上の相棒が鋭く鳴いて大きく羽ばたいた。
ケイの瞳が妖しく発光し、【星の導き】の真価が発揮される。このスキルが見せる「道標」は、単なる弱点の視認だけに留まらない。隠しエリアへの道も手繰り寄せ、繋ぎ合わせるのだ。
俺たちの足元から銀色の光粒子が爆発的に舞い上がり、視界が星屑の濁流で埋め尽くされる。次の瞬間、コンクリートの景色は完全に掻き消え、鼻を突く猛烈な湿気と死肉の腐敗臭が漂う、生駒山未踏エリアの閉鎖された巨大な坑道へと、俺たちは一瞬で転移していた。天井からは何千本もの強靭な蜘蛛の糸がカーテンのように垂れ下がり、その奥に、奴がいた。
Lv.25の変異種、土蜘蛛。
前回とは比べ物にならない威圧感が、肌を刺す。八本の脚は闇の中で鈍い光を放ち、その中心にある無数の複眼が、俺という「不快な侵入者」を捉えて歪んだ。
「ケイ、合図だ」
俺の低い声に応え、ケイが坑道の天井近くまで急上昇する。銀色の光粒子が舞い、空気が凍りついた。
「今だ、やれッ!」
ケイの【星の欺瞞】が放たれる。
空間に星屑が散り、土蜘蛛の五感が、俺のいる位置から数メートル左側へと強引にねじ曲げられた。
土蜘蛛が鎌のような脚を大きく振り上げ、何もない空間を切り裂く。
その瞬間だった。影の中から、コハクが弾丸のように飛び出した。
「きゅぅぅッ!!」
コハクの身体から、どす黒い霧のような魔力が噴き出す。それは周囲の環境魔力だけでは到底足りず、自身の血を、命そのものを強引に燃焼させて生み出した執念の出力だった。
先ほどまで淡い炎のようだった毛並みが、急速に色を失い、透き通っていく。
彼女は土蜘蛛の八本の脚の付け根へと滑り込み、文字通り肉体を千切りながら【足絡め】を展開した。
ドッ、と嫌な音がして、コハクの鼻や口から鮮血が噴き出す。
土蜘蛛の八本の脚が、粘着質を帯びた幻影の炎によって地面に縫い付けられ、ガチリと動きを止めた。
Lv.1の脆弱な身体に、格上のCランクモンスターを縛り付けるという殺人的な拘束負荷。コハクの視界が痛みで白濁し、小さな身体が激しく痙攣を始める。
(……っ、コハク!)
その光景を見た瞬間、俺の胸に、肺を抉られるような凄まじい罪悪感が突き刺さった。
俺の、俺の作戦のせいで。さっきまで扇町の安全な訓練所にいたばかりの、まだ戦い方も知らない、たったLv.1のままの彼女を、こんな前人未踏の地獄の最前線に放り込んだ。
俺がもっと強い魔力を持っていれば。
俺がもっと、通常の魔獣を二体同時に維持できる真っ当なテイマーであれば。
コハクにこんな、自傷行為に等しい戦い方をさせずに済んだのだ。もしここでコハクの命の灯火が消えれば、それは土蜘蛛ではなく、俺がこの手で彼女を殺したも同然だった。
胸が潰れそうなほどの自己嫌悪と、それ以上に煮えたぎる「絶対にこの隙を無駄にできない」という強迫観念が、俺の心臓を鷲掴みにする。
「あぁぁぁあああッ!!」
怒りと、後悔と、確実に仕留めなければ全員死ぬという恐怖を、全てタングステン刀の柄に込める。
無防備になった土蜘蛛の核――うなじの部分に、【星の導き】が照らし出した赤い光の線が走った。
今、コハクの命が削れている。一瞬遅れるごとに、彼女の寿命が消えていく。
その過酷な現実が、俺の肉体のリミッターを強引に解除し、筋肉を限界以上に収縮させた。
俺は地を蹴り、空を切るようにして土蜘蛛の懐へ飛び込む。
【剛力・初級】を乗せた黒刀の刃が、硬固な外骨格を破り、核を捉えた。
ズパッ、という鈍い手応え。
だが、変異種の核はあまりにも強固だった。一撃では砕け切らない。土蜘蛛が怒狂し、影の縛りを引きちぎろうと巨体を悶えさせる。
「まだだ……まだ終わらせねえッ!!」
横でコハクが、断末魔のような悲痛な声を上げる。彼女の身体はもう限界だ。毛並みは灰のように白く脆くなり、意識は消失寸前。
俺はコハクの口から飛び散った血を自分の顔に浴びながら、さらに深く、さらに強く、魂を削るような思いで黒刀を両手で押し込んだ。
頼む。生きてくれ。
死ぬな。俺の復讐のために、お前の命を終わらせてたまるか!
ゴリリ、と世界の理が砕けるような音が響き、魔石が完全にひび割れる感触が手に伝わる。
土蜘蛛の無数の複眼から光が消え、その巨躯が地響きを立てて崩れ落ちた。
俺はその場に倒れ込み、意識の糸が切れかかっているコハクを、血に濡れた手で力任せに抱き寄せた。
「コハク、コハク……! 目を開けてくれ!」
震える手で、消滅していく土蜘蛛の肉体の中心から、まだ脈打つように温かい、禍々しい紫色の『Cランク変異魔石』を抉り出す。
その巨大な魔石を、俺はボロボロになったコハクの口元へと押し当てた。
/「食え……お願いだ、食ってくれッ!!」
俺が殺しかけた。俺がこの子を道具にした。
それでも、お前だけは生きてくれ。俺の身勝手な地獄に、お前を巻き込んだ責任を俺に取らせてくれ。
コハクの弱々しい喉が、魔石を飲み込むために上下した。変異魔石がパキリと音を立てて砕け、その濃厚なエネルギーが、コハクの枯れ果てた肉体へと流れ込み始める。
ケイの【星の導き】が手繰り寄せた未踏エリアの暗い坑道の中、俺はただ、白く変色した小さな相棒を狂ったように抱きしめ、自分の過ちと罪悪感の深さに、静かに涙を流すことしかできなかった。




