猫と一両と、売れっ子絵師
「なんでぇ、ちきしょうめ!」
やり場のない怒りをぶつけるように足元の小石を蹴り飛ばし、ぐっと拳を握りしめた。
「あのクソ親父、よくも言いやがったな!」
脳裏に浮かぶのは、実の父親ではない。師匠である初代・歌川豊国の、あの忌々しい顔だ。
「芳、お前さん、大した手土産も持たずに仕事を回せとは、いい度胸をしてるじゃないか」
届け物のつつましさを鼻で笑い、嫌味たっぷりに追い返した男。あのひょろ長く青黒い面に拳を叩き込んでやりたい衝動を、どれほどの思いで抑え込んだか。
そもそも仕事を回してもらえないから、金もない。金がないから碌な付け届けも買えないのである。
もしあの場で殴りかかっていれば――想像するだけで背筋が凍る。破門は免れず、江戸の街で二度と「絵師」を名乗ることは叶わなかったはずだ。
よくぞ堪えた、と自分を褒めてやりたい。だが、胸の奥で燻る怒りの炎は、一向に消え去る気配がなかった。
「あら嫌だわ、うふふ。お戯れが過ぎますこと」
ふいに、川面を渡る風に乗って、艶っぽい笑い声が耳に届いた。
ハッとして大川に目をやると、一艘の屋形船が浮かんでいる。
そこには、芸者を侍らせて鼻の下を伸ばしている男の姿があった。
兄弟子の国貞だ。今や美人画で飛ぶ鳥を落とす勢いの、売れっ子浮世絵師である。
いつもは自分の前で兄弟子らしく澄まし返しているくせに、今は見たこともないほど相好を崩し、だらしなくニヤけて芸者をからかっている。
「ちきしょう、今に見てろよ。わっちだって近いうちに、そっち側の絵師になってやる……!」
羨望と嫉妬が混ざった眼差しで贅沢な船を睨みつけていると、額にぽつりと冷たいものが当たった。
「ちっ、雨かよ。ついてねえな」
ぽつぽつと波紋を広げ始める川面に背を向け、芳は足早に己の小汚い長屋へと駆け出した。
*
「にゃあ」
懐から小さな頭を覗かせ、愛猫が飯の催促に鳴いた。
「ちょっと待ってろ、今用意してやるからな」
芳は、朝飯の残りに汁の残りをぶっかけ、小皿に盛ってやった。猫は待ってましたとばかりに猛烈な勢いでむさぼり食う。
だが、それを眺める芳の胸中は穏やかではない。米櫃はとうに底を突き、懐の財布も心許なくなっていた。
世話になった兄弟子・歌川国直の長屋を飛び出して、わずか三月。まさかこれほど早く路頭に迷う寸前まで追い詰められるとは、夢にも思わなかった。
(……もう一度、国直の兄貴に頭を下げて、置いてくれと頼みに行くか?)
脳裏をよぎった甘えを、芳は激しく頭を振って打ち消した。あそこは居心地が良すぎたのだ。ぬるま湯に浸かったままでは、いつまでも一人前の絵師にはなれない。自分を極限まで追い詰めるために退路を断ったのではなかったか。
「いや、まだやれる。なんとかなるさ」
猫が這い出て、少し寒くなった懐に腕組みをして、考える。
「……やっぱり、今売れるのはこれしかねえか」
芳は意を決して、使い古した筆にたっぷりと墨を含ませた。
和紙の上を筆が滑る。目をカッと大きく見開き、濃いあごひげを蓄え、黒い冠を戴いた、右手に鋭い剣を持つ恐ろしげな姿。
疫病除けの神、鍾馗様だ。これなら幼い子の病を恐れる親たちに飛ぶように売れる。あるいは竹を組んで凧に仕立てれば、子供たちの格好のおもちゃになる。
(あとは、双六でもこしらえて吉原に売りに行くか)
昼間、手持ち無沙汰にしている遊女たちが、暇つぶしに面白がって買ってくれるかもしれない。
「ちょいとごめんよ。にわか雨だ、雨宿りをさせとくれ」
開け放たれた戸口から、遠慮がちに滑り込んできたのは商人風の男だった。芳がちょうど鍾馗を描き終え、その威圧感に恐れおののいて逃げ惑う鬼の姿を描き始めたときである。
いつの間にか外は、バチバチと屋根を叩くほどの本降りになっていた。
「ああ、好きにしな」
芳は手元から一切目を離さず、素っ気なく返事をした。
男は濡れた着物の裾を払いながら、芳の手元を覗き込んできた。
「おや……あんた、絵師かい?」
「ああ」
「ちょっと、そこの描き溜めたのを見せてもらってもいいかい?」
「ああ、勝手にしな」
男は部屋の隅に積まれていた絵を一枚一枚、じっくりと品定めするようにめくり、やがて低く呟いた。
「……面白いね、これは」
その言葉に、芳は初めて筆を止め、顔を上げて男の顔をまじまじと見た。
「そうかい」
「ああ、実に面白い。あんた、女絵(美人画)なんかじゃないね。武者絵を描くといい。腹の底から湧き出るような、威勢の良い奴をね。……良いのが描けたらうちに持ってきておくれ。いや、あたしがまた立ち寄ろう。二、三日のうちに、うんと腹に力を入れて描いておくんだよ」
言葉を失った芳は、ただ「……はあ」と気の抜けた返事をするのが精一杯だった。
「おや、雨が上がったようだね。じゃあ、あたしはこれで。――っと、他の雑作には目もくれず、しっかりと描き出すんだよ」
男はそう言い残すと、芳の前に「ことり」と何かを置いて、足早に去っていった。
差し込む日の光に照らされたそれを見て、芳は息を呑んだ。
(い、一両……!?)
滅多にお目にかかれない黄金の輝きに、目を丸くする。一両といえば、長屋の家賃が何ヶ月も払える大金だ。
(この一両は、まだ見ぬ絵の前払いってことか? おいおい、一両分の価値がある絵なんて、一体どうやって描きゃあいいんだ!)
芳はたまらず立ち上がった。雨上がりのむっとした湿気の中で、長屋独特の小便臭さがいつもより余計に鼻を突く。
一度井戸端へ飛び出し、冷たい水を汲んで顔をびしゃびしゃと洗い流した。手拭いで顔をごしごしと力任せに拭き、部屋へ駆け戻ってストンと腰を据える。
(武者絵だ。さあ、誰を描く……?)
芳の脳内で、歴史に名を残した豪傑たちの姿が激しく交錯する。
足元では、先ほど満腹になった猫が再び膝の上へと這い上がり、居心地よさそうに丸くなった。
*
男は、約束通り三日経って長屋へ現れた。
「おや、たんと描き溜めたねえ」
男は嬉しそうに目を細め、芳が不眠不休で積み上げた絵の束を一枚ずつ検分していく。
「うん、思った通りだ。実にいい、凄まじい気迫だ。これと、これ、それからこれも……」
男は鋭い眼光の武者たちが描かれた三枚を選び出し、満足げに頷いた。
「いい出来だ。この三枚貰っていくよ」
そう言って、男は再び懐から追加の金を差し出そうとした。芳は慌ててその手を遮った。
「いや、滅相もねえ! 金ならもう、こないだ一両も貰ってますんで!」
男は愉快そうに声を上げて笑った。
「ははは! 心配ないさね、これは、次の絵を描いてもらうための手付金さ」
*
その男――版元の仕掛けによって売り出された芳の武者絵は、江戸中の評判を呼び、爆発的な売り上げを記録した。芳はまたたく間に、飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子絵師へと上り詰めたのだ。
かつては国貞の華やかな姿を遠くから睨みつけていた男が、今や江戸の流行の最先端にいる。
そんな芳のもとへ、「弟子にしてくれ」と志願する者が次から次へと押し寄せるようになった。
「よし、こうしちゃいられねえな」
芳はもう少し広い長屋へと居を移し、本格的に弟子を取り始めた。
ただ手習いとして絵を学びたい近所の大人の子供から、本気で命を懸けて絵師の道を志す血気盛んな若者まで。
かつては猫一匹と静まり返っていた芳の周囲は、いつしか墨の匂いと、若い熱気で四六時中賑わうようになっていた。
これこそが、のちに江戸の浮世絵界を席巻する、「歌川国芳一門」の始まりであった。




