第9話「調停人の矜持」
国境の川は、二つの領地を分けるように音を立てて流れていた。
エルデンから馬車で半日。国境沿いの小さな村の外れで、ヴィオレッタは川岸に立っていた。
川幅は広くない。だが、春先の洪水で流路が変わり、かつて東岸にあった耕地の一部が今は西岸に取り込まれている。水が削った跡が、土の色の違いではっきりと見えた。
この土地を、二人の子爵が自領だと主張している。
ナハルが隣に立ち、対岸を眺めていた。
ジークが「監視を兼ねて行け」と命じ、ナハル自身も同行を望んだ。ヴィオレッタはそのどちらの理由も承知した上で、ナハルの同行を受け入れた。密偵の情報網は、調停の場でも役に立つ。
「双方とも兵を出してるな。川の東西に、それぞれ十人ほどか」
ナハルの目は、村の周囲に散っている武装した人影を捉えていた。
「小競り合いが起きている、という噂は本当のようですね」
ヴィオレッタは川から目を離し、村の中央に建つ集会所に向かって歩き出した。
双方の領主の代理人が、そこで待っているはずだった。
集会所は石造りの小さな建物だった。
中に入ると、長机を挟んで二組の人間が座っていた。
東側の席にはグレーの上着を着た中年の男。西側には赤い縁取りの外套をまとった若い男。それぞれの子爵家の代理人だった。
ヴィオレッタが入口で足を止めると、双方の視線が集まった。
「エルデンの調停人か」
東側の代理人が、値踏みするように言った。
「ヴィオレッタと申します。本日はお時間をいただき、感謝いたします」
一礼した。深く、丁寧に。平民の礼だった。
西側の代理人が口を開いた。
「こちらの領主は、調停人の素性について懸念を示しておられる。断罪された公爵令嬢が仲立ちをするというのは、いささか異例ではないか」
ヴィオレッタは姿勢を正したまま答えた。
「ご懸念はもっともです。ただ、本日の調停は私の身分ではなく、提案の内容で判断していただければ幸いです」
「王家に断罪された者の仲立ちなど受けられない、というのが領主の立場だ」
東側の代理人も続いた。腕を組み、椅子の背にもたれている。
「うちの領主も同じ意見だ。辺境伯に訴えて中央裁定を求めることを検討している」
ヴィオレッタは黙った。
身分の壁だった。この世界では、断罪された者の言葉は、どれほど正しくても軽い。
だが、退く気はなかった。
「中央裁定について、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
東側の代理人が顎で先を促した。
「辺境伯への訴えから中央裁定の結審まで、最短で半年を要します。その間、川の利用は双方とも制限されます。漁業、灌漑、通行。いずれも停止です」
代理人たちの表情が動いた。
ヴィオレッタは懐から紙を取り出し、机の上に広げた。
「半年間の利用停止による税収の損失を試算しました。東側の領地で年間税収の約二割。西側で約一割五分。これは土地の帰属が確定するまでの損失であり、裁定が長引けばさらに増えます」
数字を指で示した。代理人たちの目が、紙の上に落ちた。
「一方、私が提案する河川共同管理協定であれば、双方の領地面積は変わりません。争点となっている土地の帰属を棚上げし、川そのものの利用権を分割して配分します」
「利用権の分割とは」
東側の代理人が身を乗り出した。
「漁業権は季節ごとに東西交互に行使。灌漑用水の取水権は流量に応じて比率配分。川を渡る通行権は双方の住民に開放。いずれも数字で配分しますので、曖昧さが残りません」
紙をもう一枚広げた。利用権の配分表だった。
「土地の帰属を争えば、必ずどちらかが負けます。ですが、利用権の分割であれば、双方が川から得る利益は維持できます。中央裁定より速く、損失が少ない」
沈黙が落ちた。
東側の代理人が西側を見た。西側の代理人は腕を組んだまま、紙の数字を睨んでいた。
「……領主に持ち帰って確認する必要がある」
東側が言った。
「うちも同様だ」
西側が続けた。
「もちろんです。ただ、小競り合いが続けば住民に被害が出ます。回答は早い方が、双方にとって有利です」
ヴィオレッタは一礼し、集会所を出た。
二日後、回答が届いた。
双方の領主が、河川共同管理協定への調印に同意した。
調印の場には代理人だけでなく、東側の子爵本人が姿を見せた。白髪の老人だった。ヴィオレッタの前に立ち、しばらく顔を見てから口を開いた。
「断罪された令嬢だと聞いていたが、提案は筋が通っていた。礼を言う」
一言だけだった。だが、子爵がわざわざ足を運び、調停人に直接礼を述べるのは、この身分制度の中では異例のことだった。
ヴィオレッタは深く頭を下げた。
調印が終わり、集会所を出ると、ナハルが建物の外壁にもたれて待っていた。
「全部見てた。あの老人、最初は断罪された公爵令嬢を門前払いする気だったらしい。代理人から数字を見せられて、考えが変わったんだと」
「数字は嘘をつきませんから」
「お前も大概嘘をつかない部類だな。少なくとも、数字では」
ヴィオレッタは答えず、馬車に向かって歩いた。
調印の場で、東側の子爵がもう一つ、言葉を漏らしていた。
「王都の調停機能が麻痺している。宰相府に案件を持ち込んでも、処理が追いつかないと聞く。辺境のことは辺境で片づけるしかないのか」
その嘆きを、ヴィオレッタは黙って聞いていた。
王都の外交・行政が停滞している。その原因の一端が、自分の不在にあることを、ヴィオレッタは知っていた。だが、それを口にする理由はなかった。
帰路の馬車は、ナハルが御者台に座り、ヴィオレッタは荷台の席に座った。最初にエルデンに向かった時と同じ配置だった。だが、あの時と同じものは何一つなかった。
「密偵ルートで一つ、情報がある」
ナハルが前を向いたまま言った。
「王都でお前の噂が変わり始めている。断罪された令嬢が辺境で成功しているらしい、とな」
ヴィオレッタは黙って聞いた。
「辺境伯のところにも報告が上がっている。断罪された公爵令嬢が領内で複数の調停実績を上げている、と。代官後任からの報告だそうだ」
王都がヴィオレッタの所在を把握し始めている。それは時間の問題だった。噂が先か、公式の報告が先か。いずれにしても、もう隠れていられる時期は過ぎた。
「ナハルさん」
「ん」
「情報をありがとうございます」
「取引だ。気にするな」
馬車は街道を西に向かって走った。夕暮れの光が長い影を引いている。
しばらくして、ヴィオレッタの目が閉じかけた。長時間の交渉の疲れが、馬車の揺れの中で一気に押し寄せてきた。
座ったまま、首が傾いだ。
何かが肩にかかった。
軽い布の感触。外套だった。ナハルが御者台から身を伸ばし、自分の外套をヴィオレッタの肩にかけていた。
ヴィオレッタは薄く目を覚ましていた。
外套の重みと、かすかに残る旅の匂い。ナハルの手が肩に触れ、すぐに離れた。
目を閉じたままでいることを、選んだ。
開ければ、ナハルは手を引く。何でもないふりをする。いつもの軽口で誤魔化す。
だから、閉じたままでいた。
この沈黙が、今は心地よかった。
信頼を、言葉ではなく行動で示す人間がいる。そのことを、ヴィオレッタは外套の温もりの中で静かに受け取った。
馬車はエルデンに向かって、夕暮れの街道を走り続けた。




