第8話「二つの提案」
「単刀直入に聞く。お前は何者だ、ナハル」
夜の通りに、ジークの声が落ちた。
町外れの林に続く道。月明かりの下で、ジークは剣の柄に手をかけたまま立っていた。
その前に、ナハルがいた。
右手に小さな籠を持っている。籠の中で、伝書鳩が静かに身じろぎしていた。
「夜回りで見かけてな。商人が夜中に宿を抜け出して、鳩を放す。何度目だと思ってる」
ナハルは籠を下ろした。逃げる素振りは見せなかった。
「ヘルダー団長。勘がいいな」
「勘じゃない。お前の動きは最初からおかしかった。商人にしちゃ目が鋭すぎる。盗賊を片づけた時の動き、あれは訓練を受けた人間のものだ」
ナハルは黙った。
ジークが一歩、距離を詰めた。
「密偵だな。どこの国だ」
沈黙が続いた。夜風が林の木々を揺らしている。
「サルヴェイン連邦」
ナハルの声は、いつもの軽さが消えていた。低く、簡潔だった。
「任務は情報収集だ。この町に危害を加える指令は受けていない」
「信じると思うか」
「思わない。だが、事実だ」
ジークの目が細くなった。
「追い出すか、拘束するか。二択だ。町の安全に関わる」
「それを決めるのは、あんたか」
「俺と、もう一人だ」
ジークの視線が、町の方角に向いた。銀枝商会の二階の窓に、灯りが見えた。
翌朝、銀枝商会の空き部屋に三人がいた。
ヴィオレッタが机の前に座り、ジークが壁際に立ち、ナハルが入口近くの椅子に腰を下ろしている。
「昨夜、ナハルが伝書鳩を放つ現場を押さえた。本人はサルヴェインの密偵だと認めた」
ジークの報告は短かった。
ヴィオレッタはナハルを見た。ナハルは視線を逸らさなかった。
「追い出すべきだ。こいつがここにいる限り、町の情報が隣国に流れ続ける」
ジークの声には感情がなかった。元騎士としての判断だった。
ヴィオレッタは椅子に座ったまま、少しの間、黙った。
「ジークさん。一つ聞かせてください。彼を追い出したとして、サルヴェインは次の密偵を送らないと思いますか」
ジークの眉が動いた。
「送るだろう。国境の町だ」
「次に来る人間は、私たちの顔を知りません。ナハルさんなら、動きが見えます。見えている脅威と、見えない脅威と、どちらが危険ですか」
ジークは腕を組んだ。返事はしなかった。
「ナハルさんの情報収集力は、裏を返せば、この町の外の脅威を早い段階で察知できるということです。排除するより、管理する方が合理的です」
ジークの目がナハルに向いた。
「お前はどう思う」
ナハルは椅子の背にもたれたまま、ジークを見上げた。
「俺は密偵だ。嘘はつかない、とは言わない。だが、この町を害する任務は受けていない。それだけは事実だ」
ジークは長い沈黙の後、壁から背を離した。
「お前の判断に賭ける」
その言葉は、ヴィオレッタに向けられていた。
「だが、裏切ったら俺が斬る」
最後の一言は、ナハルに向けられていた。
ナハルは肩をすくめた。ただし、その目は笑っていなかった。
ジークは部屋を出ていった。足音が階段を降り、商会の扉が開閉する音がした。
二人きりになった部屋で、沈黙が落ちた。
ナハルが先に口を開いた。
「もう一つ、話がある」
ヴィオレッタは姿勢を正して待った。
「サルヴェインに来ないか」
ナハルの声は低く、穏やかだった。いつもの軽い調子ではなかった。
「お前の能力を正当に評価する国がある。調停の技術、交渉の手腕、構造を設計する力。サルヴェインなら、それに見合った地位と報酬を用意できる」
ヴィオレッタは即座に断らなかった。
「条件を聞かせてください」
ナハルの目が、わずかに見開かれた。
「……条件?」
「はい。正式な勧誘であれば、条件があるはずです。地位、報酬、活動の範囲、帰属する組織。それを聞いた上で判断します」
ナハルは黙った。それから、低い声で言った。
「最初から知っていたのか」
「何をですか」
「俺が密偵だということを」
ヴィオレッタは机の上の書類に視線を落とした。
「街道の二日目、盗賊の時からです」
ナハルの呼吸が、一瞬止まった。
「左手で短剣を抜いた時点で、商人ではないと確信しました。帳簿の仕入れ値の不自然さは初日で気づいていましたが、戦闘の練度を見て、密偵か軍属のどちらかだと判断しました」
ナハルは椅子の背から体を起こし、前かがみになった。
「知っていて、泳がせていた」
「はい」
「なぜだ」
「敵であっても、利用価値があるなら関係を維持する方が合理的です。正体を暴いて敵対するより、知っていて知らないふりをする方が、情報の非対称性で有利に立てます」
ナハルは両手を膝の上に置いたまま、ヴィオレッタの顔を見た。
その目に、畏怖と呼べるものがあった。
「お前は……」
言葉を切った。何かを飲み込んだ。
ヴィオレッタは書類から顔を上げ、ナハルの目を見た。
「サルヴェインへの勧誘は、今はお断りします。ただし、将来の選択肢としては閉じません」
ナハルは動かなかった。
「あなたは私にとって、最初の取引相手です」
ヴィオレッタの声は、いつもの丁寧語だった。簡潔で、感情を排した口調。だが、その一文だけが、少しだけ柔らかかった。
「それを壊したくありません」
ナハルの言葉が、遅くなった。
「……俺は、お前にとって危険じゃないのか」
ヴィオレッタは小さく笑った。
「さあ。それはこれから確かめます」
ナハルは黙って椅子から立ち上がった。窓際に歩き、外を見た。背中をヴィオレッタに向けたまま、しばらく動かなかった。
「もう一つ、伝えておく」
「はい」
「隣町の領主同士が揉めている。国境の川の流路が変わって、領地の境界が曖昧になったらしい。小競り合いが起きていると、商人の間で噂が出ている」
密偵ルートの情報だった。町の商人の耳にはまだ届いていない段階の話だ。
「調停の依頼が来るかもしれない。いや、お前なら自分から動くか」
ヴィオレッタは頭の中で構造を組み立て始めた。国境の河川。流路変更による領地境界の曖昧化。子爵級の領主同士の対立。
エルデンの外の案件だ。この町の中で積み上げてきた実績を、外に広げる機会になる。
「情報をありがとうございます」
「礼はいい。取引だろう。お前が強くなれば、俺の報告書の価値も上がる」
軽い口調が戻っていた。だが、窓の外を見つめるナハルの横顔には、さっきまでの軽さはなかった。
ナハルが部屋を出る前に、足を止めた。
「最初から知っていて、なぜ一緒にいた」
振り返らずに聞いた。
「あなたが危険な人間なら、初日で離れていました」
ナハルの背中が、わずかに揺れた。
扉が閉まった。
ヴィオレッタは机の前に座ったまま、閉じた扉を見ていた。
最初の取引相手。そう言った自分の言葉が、正確ではないことに気づいていた。
取引相手なら、正体を知った時点で条件を見直す。泳がせたのは合理的だった。だが、正体が明かされた後も、この関係を壊したくないと思ったのは、合理性とは別の場所にある判断だった。
その判断の名前を、ヴィオレッタはまだつけられなかった。
机の上に視線を戻した。隣町の領主間の紛争。国境河川の流路変更。調停の設計を始めなければならない。
ヴィオレッタは新しい紙を広げ、筆を取った。
感情の整理は後でいい。今は、次の仕事がある。




