第7話「名前の重さ」
ヴィオレッタ・リドヴァールという名は、二ヶ月前まで王妃候補の名だった。
その名が、エルデンに届いた。
朝、商会の一階に降りると、空気が違っていた。
いつもなら挨拶を返す店員が、目を合わせずに通り過ぎた。帳簿を届けに来た若い商人が、ヴィオレッタの姿を見て足早に去った。
広場に出ると、井戸端で話し込んでいた女たちが声を落とした。視線だけがこちらに向けられ、すぐに逸らされる。
知っている。この空気を、知っている。
断罪の夜、夜会の広間で列席した貴族たちが見せた目と同じだ。距離を置く目。関わりたくないという目。
ヴィオレッタは歩調を変えなかった。広場を横切り、商会に戻った。
マルグリットの執務室の扉を叩くと、すぐに声がかかった。
「入りな」
中に入ると、マルグリットは帳簿を閉じ、机に両手を置いた。いつもの値踏みの目ではなかった。もっと実務的な、問題を処理する時の目だった。
「聞いてるだろうね」
「町の空気が変わっています」
「噂が来た。王都方面から南下してきた商人が持ち込んだ話だ。断罪された公爵令嬢がこの町にいる、とね」
ヴィオレッタは黙って聞いた。
「噂を広めて回ってるのは、鉄環商会の前幹部連中だ。代官が飛ばされて行き場のなくなった奴らが、あんたへの恨みを噂に乗せて町中にばらまいてる。『王家に断罪された犯罪者を町に置くのは辺境伯への不敬だ』と、町長にまで圧力をかけてるよ」
マルグリットは腕を組んだ。
「あんたの過去に興味はない。あたしが見てきたのは結果だ。だがね、町が割れるなら話は別だ」
ヴィオレッタは姿勢を正したまま、マルグリットの次の言葉を待った。
「あたしが庇う理由を、あんた自身が町に示しな。それができなきゃ、あたしも商会を守る側に回る。わかるね」
「はい」
ヴィオレッタは一礼して執務室を出た。
廊下で足を止めた。
断罪されたのは事実だ。罪状が冤罪であることを証明する手段は、今の自分にはない。王太子の公式宣告を覆せるのは国王の裁可だけであり、公爵家の上奏権を持つ父はそれを行使しなかった。
弁解は意味がない。否定しても証拠がない。
使えるのは、この町で積み上げてきたものだけだ。
その日の午後、自室の前にジークが立っていた。
腕を組み、壁にもたれている。ヴィオレッタの姿を見ると、体を起こした。
「話がある」
「どうぞ」
「お前、公爵令嬢だったのか」
ジークの声は低く、平坦だった。だが、その目にはこれまでにない複雑な色があった。
「断罪された、元公爵令嬢です」
「罪状は」
「聖女への嫌がらせ、虚偽の噂の流布、王太子の寵愛の独占。いずれも事実ではありませんが、それを証明する手段がありません」
ジークは黙った。
しばらくの沈黙の後、低い声が落ちた。
「俺も覚えがある」
ヴィオレッタはジークを見た。
「上官の不正を告発して、逆に罪を着せられた。横領の共犯だとな。証拠は握り潰された。弁明の機会はなかった」
ジークの声には怒りがなかった。とうに怒りの季節は過ぎたのだろう。残っているのは、硬い事実だけだった。
「中央ってのは、そういう場所だ」
それだけ言って、ジークは背を向けた。
「有力者会議がある。町長とハーゼン会長と俺とで、あんたの扱いを決める。お前は来なくていい。結果は後で伝える」
ジークの足音が廊下に消えた。
ヴィオレッタは自室に入り、窓際に立った。
来なくていい。
自分の処遇が決まる場に、自分はいない。断罪の夜と同じだ。あの時も、反論の機会は与えられなかった。
だが、あの夜と一つだけ違うことがある。
あの広間には、味方が一人もいなかった。
夕刻、ジークが戻ってきた。
「決まった。残っていい」
ヴィオレッタは息を一つ、吐いた。
「マルグリットが言った。『この女はうちの商会の調停顧問だ。関税問題を解決して、この町の全商人が恩恵を受けている。王都の噂ごときで追い出すのか』とな」
ジークは腕を組んだまま続けた。
「俺も言った。俺も王都に追われた身だ。だが、この町の治安はこの手で守ってきた。やったことで判断しろ、とな」
ヴィオレッタはジークの顔を見た。
この男が自分の過去を人前で明かした。騎士団を追われた経歴を、町長の前で口にした。それがどれほどの重さを持つか、ヴィオレッタにはわかった。
「ヘルダー団長」
「ジークでいい」
「ジークさん。ありがとうございます」
言葉が、喉の奥で詰まった。
ありがとうございます。それだけの言葉が、こんなに出しにくいとは思わなかった。
前世でも今世でも、一人でやることに慣れすぎていた。助けを求めず、借りを作らず、自分の力だけで道を開く。それが最も安全な方法だと信じてきた。
誰かが自分のために声を上げる。その経験が、ヴィオレッタにはほとんどなかった。
「ただし、全員が納得したわけじゃない。町長は渋っていた。鉄環の連中の圧力もまだ続くだろう」
「承知しています」
「お前の素性が割れた以上、これまで通りとはいかない。だが、この町にはお前の仕事が必要だ。それはあたしが保証する」
ジークの背後から、マルグリットの声がした。廊下を歩いてきたらしい。
「感謝は結果で返しな。あんたにはまだ片づけてもらいたい案件がある」
「はい」
マルグリットは鼻で笑い、執務室に戻っていった。ジークも踵を返した。
一人になった廊下で、ヴィオレッタは目を伏せた。
視界が一瞬、にじんだ。
すぐに瞬きで消した。誰にも見られていない。そう思った。
「お前が泣くところは初めて見た」
声は、階段の下から聞こえた。
ナハルが階段の手すりにもたれ、こちらを見上げていた。いつからそこにいたのか。
「泣いていません」
即座に返した。声は揺れなかった。
ナハルは階段を上がってきた。ヴィオレッタの前で足を止め、少しだけ顔を覗き込むようにした。
「ああ、泣いてないな。目が赤いだけだ」
「赤くもありません」
「暗いから確認できないな」
夕暮れの光が廊下に差し込んでいた。十分に明るかった。
ナハルはそれ以上言わなかった。壁にもたれ、ヴィオレッタと並んで廊下の窓から外を見た。
「あの罪状は冤罪だろう」
ヴィオレッタは横を向いた。
ナハルの顔は、いつもの軽い笑みではなかった。前を向いたまま、静かな声だった。
「お前を見てれば、わかる。人を陥れる人間の動き方じゃない」
密偵としてではなく、そう言っているのだと、ヴィオレッタは感じた。根拠ではなく、この男が自分の目で見てきたものから出た言葉だった。
答えなかった。答えれば、何かが溢れそうだった。
ナハルも、答えを待たなかった。
しばらく二人で、夕暮れの町を眺めていた。
やがてナハルが壁から背を離した。
「報告書に書かない情報がまた増えた」
独り言のように呟いて、階段を降りていった。
ヴィオレッタは窓枠に指を置いたまま、動かなかった。
この人の前では隙を見せてしまう。
その自覚が、初めて、はっきりと胸の中に落ちた。
窓の外で、エルデンの町に灯りが一つ、また一つと点いていく。
噂は広まった。だが、ヴィオレッタの足元は崩れなかった。
鉄環商会の前幹部たちが噂を広めたことで、有力者会議はむしろヴィオレッタの実績を改めて確認する場になった。噂を武器にしたはずの者たちの影響力が、さらに薄れていく皮肉を、ヴィオレッタは静かに認識していた。
自室に戻り、机に向かった。
断罪された公爵令嬢。その名前は、もう隠せない。
ならば、名前の重さを、自分で決める。
与えられた名前ではなく、この町で積み上げた仕事で。
ヴィオレッタは新しい紙を広げ、明日の仕事の準備を始めた。




