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悪役令嬢は「味方ゼロ」から一人ずつ寝返らせたい  作者: 月雅


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第5話「密偵の報告書」

任務に不要な情報を、なぜ書き留めているのだ。


ナハルは安宿の狭い部屋で、報告書の羊皮紙を前に手を止めた。


夜半を過ぎている。蝋燭の灯りが揺れるたびに、壁に映った自分の影が歪む。机の上には墨壺と細い筆、そして書きかけの報告書が広がっていた。


任務は明確だった。レグランディア内政の混乱情報の収集。王太子による断罪事件の詳細、公爵家の動向、辺境の商会対立構造。これらを整理し、本国サルヴェインに送る。それだけのはずだった。


報告書を読み返す。


王太子リオネルの政務に停滞が見られる。特に通商条約改定交渉が完全に中断しており、サルヴェイン側にとって旧条約延長は短期的に有利だが、中長期的にはレグランディアの不安定化リスクを高める。


ここまではいい。任務の範囲内だ。


問題はその次だった。


断罪された元公爵令嬢ヴィオレッタは、辺境の町エルデンにて銀枝商会の調停顧問に就任。農家との契約紛争を調停し、双方の利害を損なわない合意を設計した。手法は、争点の再定義による利害構造の転換。具体的には品質基準の明文化、改善猶予期間の設定、優先仕入れ権の付与をパッケージとして提示し、感情的対立を構造的利益に変換する手法を用いた。


ナハルは筆を置いた。


これは何だ。


調停の手法を専門的に記述する必要が、任務上あるのか。断罪された令嬢が辺境で商会顧問になった、という事実だけで報告としては足りる。手法の詳細を書く理由がない。


だが書いた。手が勝手に動いた。


あの調停を見ていた時の記憶が、正確に蘇る。


農家の老人の怒りを受け止め、反論せず、問いを一つ挟んだだけで相手の本音を引き出した。商会側に対しては感情論を一切使わず、数字だけで構造を示した。そして双方が「損をしない」と判断する着地点を、あらかじめ設計してあった。


あの場にいた全員が、最後に「これでいい」と思った。勝ち負けではなく、合意。


半日で町の権力構造を読み切る観察眼。帳簿の数字の不自然さを一瞥で見抜く分析力。怒り狂った老人から本音を引き出す対話の技術。


ただの没落令嬢ではない。そんなことは、街道の二日目にはわかっていた。


だが、あの調停を見て、わかっていたはずの認識が更新された。


この女の頭の中は、どうなっている。


ナハルは報告書のヴィオレッタに関する記述に目を落とした。


消すべきだ。任務に不要な私的記録だ。


筆を取り上げた。墨壺に先端を浸した。


消さなかった。


この女の能力はサルヴェインにとって戦略的価値がある。そう判断すれば、記述を残す理由になる。任務上の理由だ。私情ではない。


ナハルは報告書に一行を追加した。


当該人物は、サルヴェインにとって勧誘価値のある人材と判断する。


これで、ヴィオレッタに接近し続ける正当な理由ができた。任務としての理由が。


筆を置いた時、自分の中の苛立ちが消えていないことに気づいた。


任務の口実を自分で作っている。それが何を意味するのか、半分はわかっていた。残りの半分を認めるつもりはなかった。


報告書の別の箇所に目を移す。


ジーク・ヘルダーの項目。エルデンの自警団長。元騎士団所属の疑いあり。戦闘経験者特有の挙動を確認。俺の行動パターンに対する警戒の兆候あり。


ジークの勘は鋭い。


昨夜の巡回中、ナハルが安宿を抜け出したことに気づいているはずだ。商人が夜中に宿を出る理由は限られている。女か、密会か、あるいは別の何かか。


報告書の送付方法を変えなければならない。これまでは町外れの林で伝書鳩を放していたが、ジークの監視範囲を考慮すると、送付の頻度を落とし、場所を分散させる必要がある。


送付の頻度を月に二度に変更。場所は町から離れた街道沿いの三箇所を巡回使用。


この一文を書き足した。


報告書に追記すべき事項がもう一つあった。


本国からの追加指令。


有用な人材がいれば確保せよ。


確保、とは勧誘のことだ。サルヴェインにとって有益な能力を持つ人物がレグランディアにいるなら、引き抜け。金でも地位でも、使えるものは使え。


ヴィオレッタの名前が、当然のようにそこに当てはまる。


追加指令への回答として、ナハルは一行を書き加えた。


対象人物への接触を継続中。勧誘の可能性を含め、引き続き能力と動向を評価する。


任務として正しい文面だった。上官が読めば、有能な密偵が冷静に評価を進めていると判断するだろう。


だが、ナハルは自分の文面に苛立ちを覚えた。


「能力と動向を評価する」。その言葉が、自分の中の何かと噛み合わない。


苛立ちの正体を突き止めようとして、やめた。突き止めたところで、任務に支障をきたすだけだ。


報告書の末尾に、いくつかの付随情報を書き加えた。


王都で断罪された元公爵令嬢に仕えていた使用人たちが、再就職先で冷遇されているとの情報あり。断罪された主人のもとにいた経歴が前歴として不利に作用している模様。


この情報は王都の密偵網から流れてきたものだった。任務に直接は関係ないが、レグランディア内政の空気感を伝える付随情報として有用だ。


報告書を巻き、封蝋で閉じた。


蝋燭の灯りを吹き消し、窓際に立った。


夜のエルデンは静かだった。通りに人影はなく、遠くで犬の声が聞こえるだけだ。


視線が、自然にある方向に向いた。


銀枝商会の二階。ヴィオレッタに与えられた部屋の窓に、まだ灯りが点いている。


まだ起きているのか。


あの女はいつもこうだ。夜遅くまで帳簿を読み、関税の記録を調べ、翌日の調停の構造を組み立てている。休むということを知らないのか。


窓に向かって一歩を踏み出しかけた。


足が止まった。


行って、どうする。


任務対象の行動確認。そう自分に言い訳しようとした。だが、今回は言い訳が出てこなかった。


行動確認なら、この距離から灯りの有無を確認すれば十分だ。近づく理由がない。


近づきたいだけだ。


その自覚が、一瞬だけ鮮明に浮かんで、消えた。


ナハルは窓から離れ、寝台に背を預けた。


封蝋を押した報告書が、机の上にある。明日の夜、町外れの林から伝書鳩で送る。


報告書に書けないことが、また一つ増えた。


任務に不要な情報を書き留め、任務に必要な情報を削り始めている。密偵として、これは欠陥だ。


だが、自分の中のその欠陥を、修正する気が起きなかった。


天井を見上げたまま、ナハルは目を閉じた。


銀枝商会の窓の灯りが、まぶたの裏に残っていた。

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