第4話「最初の味方」
相手が怒っているうちは、まだ交渉の余地がある。
ヴィオレッタは銀枝商会の空き部屋で、契約書の写しを机の上に広げていた。エルデンに着いて三日目の朝。マルグリットから与えられた案件の全容を、ようやく掴みかけている。
農家のハンスと銀枝商会の間で交わされた麦の取引契約。昨季の収穫分について、商会側は「品質基準を満たしていない」として受け取りを拒否した。ハンスは「数量は約束通り納めた」と主張し、話し合いを拒否している。
契約書を三度読み返した。
見えた。
品質基準の文言が曖昧だった。「良質な麦」としか書かれておらず、水分含有量や粒の大きさといった具体的な数値がない。商会は独自の基準で「不合格」と判断し、ハンスは「例年通りの品質だ」と反発している。
どちらが悪いかという問題ではない。契約書の設計が甘いのだ。
東の集落まで、徒歩で半刻ほどだった。
畑に囲まれた小さな家の前で、白髪の老人が薪を割っていた。日焼けした腕は太く、斧を振る動作に迷いがない。
「ハンスさんですね。銀枝商会からの依頼で参りました。お話を伺いたいのですが」
ハンスは振り返りもしなかった。斧が薪に食い込む音だけが返ってきた。
「商会の犬か。帰れ」
「犬ではありません。調停の者です」
「同じことだ。あいつらは約束を破った。話すことはない」
ヴィオレッタは動かなかった。
怒っている。感情が前に出ている。これは拒絶ではない。聞いてほしいことがあるのに、聞いてくれる相手がいなかったのだ。
「ハンスさん。一つだけ確認させてください。あなたが求めているのは、商会からの謝罪ですか」
斧が止まった。
ハンスが振り返った。しわだらけの顔に、怒りと困惑が混ざっている。
「当たり前だ。こっちは約束通りの麦を納めたんだ。品質がどうだなんて、今まで一度も言われたことはない」
「では、もう一つ伺います。謝罪があれば、来年も商会に麦を売りますか」
ハンスは口を開きかけて、止まった。
沈黙が落ちた。
ヴィオレッタは待った。答えを急がせない。相手が自分の本音にたどり着くまでの時間は、交渉において最も価値のある投資だ。
「……来年も買ってくれるなら、な」
ハンスの声は、さっきより低かった。怒りの奥にある本音が、初めて外に出た瞬間だった。
「お話を聞かせてください。中でお茶をいただいてもよろしいですか」
ハンスは黙って斧を薪に突き刺し、家の中を指で示した。
銀枝商会に戻ったのは昼過ぎだった。
マルグリットの執務室の前で、見知らぬ男が腕を組んで立っていた。
大柄な男だった。日焼けした肌、短く刈り込んだ髪、鋭い目。腰に剣を佩いている。その立ち方は、戦い慣れた人間のものだった。
「あんたが商会に来てる調停人か」
低い声だった。敵意はないが、歓迎でもない。
「はい。ヴィオレッタと申します」
「ジーク・ヘルダー。自警団長だ」
名乗りは短かった。ジークはヴィオレッタを見下ろし、眉をひそめた。
「揉め事の監視で来た。よそ者が町の問題に口を出すのは筋が違う。そう思ってな」
ヴィオレッタは姿勢を正したまま、ジークの目を見た。
「ご懸念はもっともです。ただ、私は銀枝商会から依頼を受けて調停を行っています。町の外から来た人間だからこそ、双方に利害関係がありません」
ジークは無言で腕を組んだまま、返事をしなかった。
マルグリットの執務室の扉が内側から開いた。
「入りな。ジークも、見てるなら最後まで見な」
マルグリットの声に、ジークは黙って従った。
執務室に、四人がいた。
マルグリットが机の向こうに座り、商会の担当者が隣に控えている。ジークは壁際に立ち、腕を組んだまま全体を見渡していた。
ヴィオレッタは机の前に立った。
「ハンスさんから話を伺ってきました。双方の主張を整理します」
マルグリットが顎で先を促した。
「ハンスさんの主張は、例年通りの品質で約束の数量を納品した、というものです。商会側の主張は、品質基準を満たしていなかった。どちらも嘘をついてはいません」
商会の担当者が口を開きかけた。ヴィオレッタは手のひらを軽く示して制した。
「問題は契約書にあります。品質基準が具体的な数値で定義されていません。商会側は独自の基準で判断し、ハンスさんは従来の慣行で判断した。基準が異なれば、結論も異なります。どちらが正しいかを争っても、来年また同じことが起きます」
マルグリットの目が細くなった。聞いている。
「提案は三つです。一つ目、品質基準を具体的な数値で明文化する。水分量と粒の大きさの下限を決めて、契約書に記載します。二つ目、基準に達しなかった場合、即座に不合格にするのではなく、改善のための猶予期間を設ける。三つ目、基準を達成した場合、ハンスさんに優先仕入れ権を与える」
沈黙が落ちた。
ヴィオレッタは机の上に紙を広げた。ハンスの畑での聞き取りと、商会の帳簿から算出した数字が書かれている。
「数字で示します。ハンスさんの麦は例年、この町の平均品質を上回っています。今回の不合格は、商会側の基準が去年より厳しくなったことが原因です。ただし、基準を厳しくすること自体は商会の権利です。問題は、その変更がハンスさんに事前に伝えられていなかったことにあります」
商会の担当者が息を呑んだ。
「事前通告と、明確な基準。この二つがあれば、ハンスさんは来年も基準を満たす麦を作れます。商会は安定した仕入れ先を維持できます。双方にとって損のない構造です」
マルグリットは紙の数字を見下ろしていた。長い沈黙の後、鼻で笑った。
「ハンスのじいさんは納得したのかい」
「はい。来年も安定して買い取ってもらえるなら、基準を守ると」
「謝罪は?」
「ハンスさんが本当に求めていたのは、謝罪ではなく保証でした。来年も取引が続くという確約です」
マルグリットは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「担当者」
「はい」
「基準の明文化と事前通告の件、すぐに契約書を作り直しな。ハンスへの優先仕入れ権も入れろ」
「承知しました」
担当者が退出した後、マルグリットはヴィオレッタに目を戻した。
「使えるね、あんた」
その声には値踏みの色がまだ残っていたが、昨日までとは違う重みがあった。
「調停顧問。非公式だが、うちの商会でそう呼ばせてもらうよ。部屋と食事は継続。成果が出る限り、ね」
ヴィオレッタは一礼した。
取引関係が一つ、成立した。味方ができたのではない。利害の一致する協力者を、実力で得た。それだけのことだ。
壁際に立っていたジークが、腕を解いた。
何も言わずに執務室を出ていく。だが、入ってきた時の険しさは薄れていた。結果を見た目だった。
廊下に出ると、商会の入口の脇に、見慣れた姿があった。
ナハルが壁にもたれ、通りを眺めている。調停の間、外からずっと見ていたのだろう。
ジークがナハルの前で足を止めた。
「お前、あの女の何だ」
ナハルの表情が、一瞬だけ止まった。
「……旅の同行者、だな」
間があった。ほんのわずかだが、ナハルの言葉が遅れた。
ジークは鼻を鳴らして歩き去った。
ナハルは壁にもたれたまま、商会の建物を見上げた。旅の同行者。その言葉が、自分の中でどこか収まりが悪いことに気づいていた。
執務室に戻ると、マルグリットが帳簿を広げていた。
「座りな。一つ聞いておきたい」
ヴィオレッタは椅子に座った。
「最近、王都方面から来る商人が、やたらと条件の悪い取引を持ちかけてくるんだよ。まるで調停できる人間がいなくなったみたいにね。あんた、何か知ってるかい」
ヴィオレッタは一瞬、呼吸が止まった。
「いいえ。辺境に来たばかりの私には、王都の事情はわかりません」
嘘ではなかった。だが、心当たりはあった。
王妃候補が不在になれば、宮廷外交の実務に空白が生じる。貿易交渉の条件調整が滞り、その影響は商人の取引条件にまで波及する。
私がいなくなった穴が、ここまで届いている。
その認識を、ヴィオレッタは表情に出さなかった。
「そうかい。まあ、王都のことなんてあたしらには関係ないけどね」
マルグリットは帳簿に目を落とした。
ヴィオレッタは窓の外を見た。夕暮れのエルデンに、灯りが点き始めている。
この町で、一歩を踏み出した。信頼はまだ薄い。だが、足場はできた。
次は、関税の問題だ。




