第2話「旅商人の嘘」
「で、お嬢さんは何から逃げてきたんだ?」
街道二日目の昼下がり。ナハルは御者台から振り返り、軽い調子で問いかけた。
ヴィオレッタは荷台に腰を下ろし、商品台帳の数字を追っていた手を止めた。
「逃げてきた、というのは正確ではありません」
「じゃあ何だ?」
「出発してきた、が近いですね」
ナハルは口の端を上げた。面白がるような、値踏みするような目だった。
「没落した貴族の娘が、一人で辺境に向かう。普通は逃げてきたって言うだろ」
「普通かどうかは、判断する人の立場によります」
ヴィオレッタは視線を台帳に戻した。
この男は、昨日からずっと探りを入れてくる。さりげない雑談を装いながら、素性を引き出そうとする話の運び方。慣れている。人から情報を抜くことに、慣れすぎている。
旅商人が、初日に会ったばかりの同行者の過去をここまで気にするものだろうか。
ヴィオレッタは台帳をめくりながら、答えるべき情報だけを選んだ。
「没落した貴族の娘。それ以上でも以下でもありません」
ナハルはそれ以上追及しなかった。口笛を吹きながら、前を向いた。
引き際を知っている。この男は、押しすぎると相手が黙ることを理解している。そうした判断ができるのは、交渉を職業とする人間か、あるいは情報を扱う人間だ。
ヴィオレッタは台帳の仕入れ値の列に視線を戻した。
昨日指摘した不自然に安い仕入れ値。ナハルは「産地に知り合いがいる」と説明したが、台帳を精査していくと、複数の品目で同じ傾向が見える。正規の商流を通さず、独自のルートで仕入れた痕跡。
商売が本業ではない人間の帳簿だった。体裁は整えてあるが、実際に利益を追求する商人の数字の動き方とは違う。偽装のための帳簿だ。
それを指摘する気はない。
今のヴィオレッタにとって、ナハルが何者であるかは問題ではない。この荷馬車がエルデンまで運んでくれるかどうかだけが重要だ。
帳簿整理の仕事は丁寧にこなす。対価に見合う仕事をすることが、対等な取引関係を維持する条件だ。
街道の宿場に、日が傾く前に着いた。
小さな町だった。宿が二軒と、街道沿いに数件の商店が並ぶだけの場所。
ナハルが馬の世話をしている間、ヴィオレッタは宿場の広場を歩いた。掲示板に貼られた通行税の告知、商店の品揃え、行き交う人の服装と荷物。情報は、見える場所に転がっている。
広場の一角で、声が上がった。
商人が二人、荷の前で言い合っている。布の束を挟んで、顔を赤くした中年の男と、帳面を手にした若い男が怒鳴り合っていた。
「引き渡し条件は数量だと言っただろう!」
「品質だ! 品質が基準を満たしていなければ受け取れない!」
契約の不履行をめぐる争い。引き渡しの条件が数量基準か品質基準かで食い違っている。
ヴィオレッタは足を止め、二人のやり取りを聞いていた。
条件の切り分けが甘いな。
その言葉が、ほとんど無意識に口をついて出た。
声は小さかった。だが、背後に気配があった。
振り返ると、ナハルが数歩後ろに立っていた。馬の世話を終えて戻ってきたらしい。その目が、ヴィオレッタの横顔を見ていた。
「何か言ったか?」
「いいえ。独り言です」
ヴィオレッタは広場を離れた。ナハルがその後をついてくる。
聞かれた。今の独り言を、確実に聞かれた。
没落した貴族の娘が、商人の契約紛争を一瞥して「条件の切り分けが甘い」と評する。不自然だ。
だが、取り繕う必要はない。聞かれたものは仕方がない。重要なのは、それ以上の情報を渡さないことだ。
翌日の午後。
街道は森に入り、木々が両側から道を覆っていた。日差しが遮られ、荷馬車の中は薄暗い。
ナハルは鼻歌を歌いながら馬を進めていたが、不意に歌を止めた。
「止まれ」
声が変わっていた。軽さが消え、低く短い一言だった。
ヴィオレッタが顔を上げた瞬間、森の中から三つの影が街道に飛び出してきた。
覆面をした男が三人。先頭の一人が短い剣を抜き、馬の前に立ちふさがった。
「荷を置いて行けば命は取らねえ」
盗賊だった。
ナハルは御者台に座ったまま、ゆっくりと腰を上げた。
「お嬢さん、荷台から降りないでくれ」
その声は穏やかだった。だが、目は笑っていなかった。
ナハルが御者台から地面に降り立った。左手が腰に伸び、外套の内側から短剣を引き抜いた。
左手。
ヴィオレッタの目が、その動作を捉えた。
一人目が斬りかかった。ナハルは半歩横にずれ、相手の腕を掴んで引き倒した。二人目が背後から突いてくる。ナハルは振り返りざまに短剣の柄で腹を打ち、崩れたところに膝を入れた。三人目が逃げようとした。ナハルは二歩で距離を詰め、首筋に短剣の腹を当てて動きを止めた。
息が上がっていない。
三人を制圧するのに、十秒もかからなかった。
盗賊たちを街道の脇に転がし、ナハルは外套の汚れを払いながら戻ってきた。表情はすでにいつもの軽い笑みに戻っている。
「悪いな、ちょっと手荒になった」
ヴィオレッタは荷台に座ったまま、ナハルを見た。
「助かりました。さすがは旅慣れた商人さんですね」
白々しい礼だと、自分でもわかっていた。
ナハルは肩をすくめた。
「街道は物騒だからな。これくらいは身につけとかないと」
「ところで」
ヴィオレッタは一拍置いた。
「左手で短剣を抜く商人は珍しいですね。もとは何か武術を?」
ナハルの動きが止まった。
短剣の扱い。重心の移動。相手の動きを読んでからの最小限の動作。あれは独学で身につけたものではない。体系的な訓練を受けた人間の戦い方だった。
そして、左手。利き手を隠す訓練は、ある種の職業でしか行われない。
ナハルは一瞬の沈黙のあと、笑った。
「昔、ちょっとな。色々あった」
それ以上は言わなかった。ヴィオレッタも、追及しなかった。
荷馬車が再び動き始める。
二人の間に、新しい種類の沈黙が落ちた。
ナハルは気づいているはずだ。ヴィオレッタが何かを察していることに。だが、ヴィオレッタがそれ以上踏み込まなかったことで、確信が持てない。
ヴィオレッタもまた、知っている。この男が旅商人ではないことを。帳簿の数字。戦闘の練度。方言のない標準的な話し方。全てが一つの推測を指し示している。
密偵。おそらく、隣国の。
だが、今は泳がせる。
敵であっても利用価値があるなら、関係を維持する。正体を暴いて敵対するより、知っていて知らないふりをする方が、情報の非対称性で有利に立てる。
ヴィオレッタは台帳を開き、昨日の続きを整理し始めた。
ナハルは前を向いて馬を進めた。口笛は、もう吹かなかった。
互いの嘘を知りながら、同じ荷馬車に揺られている。奇妙な関係だった。
だが、ヴィオレッタにとっては、これが最も慣れた距離だった。相手の腹の底を読みながら、自分の手札は見せない。前世の交渉の席で、何百回と繰り返してきたことだ。
街道は南へ続いている。エルデンまで、あと五日。




