第10話「味方だらけの朝」
三ヶ月前、この門の前に立った時、私の味方はゼロだった。
エルデンの朝は、鳥の声で始まる。
銀枝商会の二階の窓から差し込む光で目を覚ました時、ヴィオレッタはしばらく天井を見ていた。
王都の公爵邸で目覚めていた頃とは、何もかもが違う。天井は低く、壁は石と木でできている。窓の外に見えるのは宮廷の庭園ではなく、土埃の舞う広場と、荷を運ぶ商人たちの姿だった。
だが、この天井を見上げる朝が、嫌ではなかった。
階下に降りると、商会の店員が「おはようございます」と声をかけてきた。三ヶ月前、目を合わせなかった店員だ。今は自然に挨拶を交わす。
広場を歩けば、市場の商人が手を振る。農家のハンスが籠を担いで通りかかり、「今年の麦は良い出来だ」と笑った。自警団の若い団員が敬礼のような仕草をして駆けていく。
この町に、居場所ができていた。
午前中、マルグリットが執務室にヴィオレッタを呼んだ。
机の上に、書類が一式並んでいた。
「正式な契約書だ。銀枝商会の調停顧問として、年間契約を結びたい。報酬、住居、活動費を含む。内容を確認しな」
ヴィオレッタは書類を手に取った。報酬の額は控えめだったが、住居の提供と活動費の支給が含まれている。商会の名義で調停活動を行う権限と、必要に応じて商会のルートを使用する許可。
「ハーゼン会長。これは、私の素性を承知の上で、ということですね」
「当たり前だろう。断罪された公爵令嬢を商会の顧問に雇う。あたしの判断だ。文句がある奴には、あたしが直接言ってやるよ」
マルグリットは椅子の背にもたれ、ヴィオレッタを見た。
「あんたがこの町に来てから、関税は正常化した。農家との契約は改善した。隣町の領主間の紛争まで片づけた。それだけの結果を出した人間を、噂ごときで手放すほどあたしは馬鹿じゃない」
「ありがとうございます」
ヴィオレッタは書類に署名した。
マルグリットが署名の横に商会の印を押した。乾いた音が、小さな執務室に響いた。
昼過ぎ、ジークが商会を訪ねてきた。
「町長に進言した。名誉市民の推薦だ」
ヴィオレッタは目を瞬いた。
「名誉市民、ですか」
「この町の安定に貢献した人間を、町が認める制度だ。法的な効力はないが、町の住民として正式に認められたことになる」
ジークは腕を組んだまま、ぶっきらぼうに続けた。
「町長は渋っていたが、関税の件と領主間の調停の件を突きつけたら黙った。来月の町議会で承認される見込みだ」
「ジークさん」
「礼はいい。お前が結果を出したからだ」
ジークは踵を返しかけて、足を止めた。
「断罪されたことは消えない。だが、ここでやったことも消えない。それだけだ」
短い言葉だった。だが、その重さを、ヴィオレッタは受け取った。
夕方になった。
ヴィオレッタが自室で翌日の仕事の準備をしていると、階下から店員の声が上がった。
「ヴィオレッタさん、書簡が届いています。公式の急使です」
階下に降りると、宰相府の紋章が押された封蝋の書簡が、店員の手に載せられていた。
重い紙だった。公式書簡用の上質な羊皮紙。封蝋の紋章は、宰相府経由であることを示している。
自室に戻り、封を切った。
差出人の名を見て、手が止まった。
リオネル・レグランディア。
元婚約者。王太子。ヴィオレッタを断罪した人間。
書簡の文面は形式的だった。宮廷書記官が下書きしたであろう端正な字体。王太子の名による公式の要請。
内容は、サルヴェインとの通商条約改定交渉の再開に際し、外交顧問として王都に戻り、交渉を担当してほしい、というものだった。
形式の裏に滲むものがあった。エミリアでは外交実務が処理できない。通商条約の不利な旧条件の延長が王国財政を圧迫している。王妃候補が担うはずだった実務が、三ヶ月間、空白のままだ。
ヴィオレッタは書簡を読み終え、静かに折りたたんだ。
マルグリットとジークに、書簡の内容を伝えた。
マルグリットは眉を上げた。
「王太子からの呼び出しかい。で、どうするんだい」
「あんたが抜けたらこの町は困る。率直に言ってね」
ジークは黙っていた。腕を組み、壁にもたれ、ヴィオレッタの判断を待っている。
ナハルは部屋の隅に立っていた。表情はいつもの軽さを保っていたが、その目だけが動いていなかった。
ヴィオレッタは四人の顔を見回した。
三ヶ月前、この町に着いた時、味方は一人もいなかった。路銀は底をつき、宿代は三日分しかなく、名前すら名乗れなかった。
今、この部屋に三人がいる。自分の判断を待っている。
王都に戻れば、権力の近くに戻れる。王太子の要請に応じれば、外交顧問という地位を得られるかもしれない。合理的に考えれば、中長期的には有利な選択だ。
だが。
交渉の原則。自分から動いた者が、主導権を握る。呼び戻されて従えば、「呼べば来る人間」になる。それは、永遠に主導権を相手に渡すことを意味する。
ヴィオレッタは机に向かい、紙と筆を取った。
返書を書く。
「殿下のお申し出、恐悦至極に存じます」
最上級敬語で書き始めた。王太子への書簡として、形式に一分の隙も残さない。
「しかしながら、現在私は辺境にて調停業務に従事しており、契約上の責務がございますため、辞退させていただきます」
丁寧に。端正に。一文ごとに、言葉を選んだ。
最後の一文を書いた。
「なお、通商条約の件につきましては、断罪の折にお引き継ぎを申し出るべきでしたが、その機会を頂戴できませんでしたこと、今なお残念に思っております」
筆を置いた。
マルグリットが後ろから覗き込み、最後の一文を読んで笑った。
「あんた、性格悪いね」
ジークが短く頷いた。
「いい判断だ」
ナハルは黙って、静かに息を吐いた。
ヴィオレッタは三人の顔を見回した。
「ここが、今の私の場所です」
その言葉は、誰かに向けたものではなかった。自分自身に向けた宣言だった。
返書の封蝋が乾くのを待つ間に、マルグリットとジークが退出した。
部屋にはヴィオレッタとナハルだけが残った。
ナハルは窓際に立ち、外を見ていた。夕暮れのエルデンに、灯りが点き始めている。
「お前が王都に戻ると言ったら、俺はどうしていたかな」
独り言のような声だった。窓の外に向かって呟いた。
ヴィオレッタは机の前に座ったまま、ナハルの背中を見た。
「それは任務として? 個人として?」
ナハルが振り向いた。
目が合った。
ナハルは答えなかった。
沈黙が長く続いた。窓の外で、鳥が一羽、夕焼けの空を横切った。
ヴィオレッタが先に視線を外した。
「……いつか、答えを聞かせてください」
小さな声だった。丁寧語の形は崩れていなかったが、そこにはこれまでの交渉の声にはなかった柔らかさがあった。
ナハルは窓枠に手をかけたまま、何かを言いかけて、やめた。
口の端がわずかに上がった。いつもの軽い笑みではなかった。もっと静かな、自分でも名前をつけられない表情だった。
「ああ。いつか、な」
ナハルの言葉が遅かった。本音の時だけ、この男の言葉は遅くなる。
ヴィオレッタはそれを知っていた。
ナハルが部屋を出た後、ヴィオレッタは窓際に立った。
エルデンの町に夜が降りていく。広場の灯り、商会の窓明かり、通りを歩く人々の影。
三ヶ月前、王都の門前で、味方はゼロだった。
今、この町には味方がいる。取引で始まった関係が、信頼に変わった。実力で得た居場所がある。
復讐ではない。見返してやりたいのでもない。
ただ、自分の力で選んだ場所に、自分の足で立っている。
それだけのことが、これほど確かな手応えになるとは、前世でも知らなかった。
封蝋の乾いた返書を手に取り、明日の便で送る準備をした。
窓の外で、エルデンの夜空に星が一つ、光り始めていた。
(完)
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