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悪役令嬢は「味方ゼロ」から一人ずつ寝返らせたい  作者: 月雅


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第1話「味方はゼロ」

夜明けの門前に、鳥の声だけが響いていた。


白み始めた空の下、リドヴァール公爵邸の正門は固く閉ざされている。


その門の外側に、ヴィオレッタは立っていた。


小さな革鞄が一つ。父から渡された路銀の入った布袋が一つ。それが全てだった。


門の向こうから人の気配はない。使用人は昨夜のうちに一人残らず暇を出された。十年仕えた侍女も、幼い頃から顔を知る庭師も、誰一人として残らなかった。


当然だ、とヴィオレッタは思う。


断罪された主人のもとに残れば、使用人の家族にまで累が及ぶ。保身として合理的な判断だ。恨む理由がない。


懐に収めた絶縁状の紙の感触を、指先が確かめた。


父の筆跡だった。簡潔で、無駄がなく、感情を排した文面。公爵としての判断を、一分の隙もない形式で記した書面。


昨夜のことを思い出す。


断罪が終わり、公爵邸に戻されたヴィオレッタを待っていたのは、書斎の父だった。


「上奏はしない」


アルヴィン・リドヴァールは、娘を見ずにそう言った。


書斎の机の上に、路銀の入った布袋と封をした書簡が置かれていた。


上奏権。公爵家の当主だけが持つ、王に直接異議を申し立てる権利。それを行使しないという宣告は、公爵家がヴィオレッタを切り捨てるという意味だった。


「承知しました」


ヴィオレッタはそれだけを返した。


父の手が、一瞬だけ机の上で握りしめられるのが見えた。だがその手はすぐに開かれ、書簡を押しやった。


「路銀だ。馬車で一週間分の食事には足りる」


「ありがとうございます」


ヴィオレッタは机の上の二つを受け取り、一礼して書斎を出た。


振り返らなかった。振り返れば、何かが崩れる気がした。崩れたものを抱えて歩けるほど、これからの道は甘くない。


その前の記憶。


夜会の広間。シャンデリアの灯りの下で、リオネル・レグランディアが罪状を読み上げていた。


「聖女エミリアに対する度重なる嫌がらせ」


違う。あれは王妃候補として必要な儀礼指導だった。


「聖女の名誉を傷つける虚偽の噂の流布」


違う。エミリアの実家の財政難を指摘したのは別の貴族であり、ヴィオレッタは関与していない。


「王太子の寵愛を独占しようとする不遜な態度」


婚約者として当然の立場を、そう呼ぶのか。


だが反論の機会は与えられなかった。


リオネルの声が広間に響き渡り、列席した貴族たちは王太子の権威の前に頭を垂れた。


「君にはもう用はない」


その言葉を聞いた瞬間、ヴィオレッタの頭に浮かんだのは悲しみでも怒りでもなかった。


ああ、これは全面敗北宣告だ。


前世の記憶が、外交官としての感覚が、状況を即座に分類した。


交渉決裂。全権委任の取り消し。相手国からの追放通告。


感情で受け止める前に、分析が終わっていた。


門前に立つヴィオレッタの目に、朝日が差し込んだ。


王都の街並みが薄い金色に染まっていく。


美しい朝だった。その美しさに何の感慨も湧かない自分を、ヴィオレッタは冷静に認識した。


路銀を確認する。馬車で七日分の食事代。それ以上でも以下でもない。


社交界の知人に頼ることは不可能だ。断罪された者を庇えば、庇った側も同類と見なされる。負け馬に乗る人間はいない。


ならば。


ヴィオレッタは思考を切り替えた。


味方はゼロ。財産はゼロ。身分はゼロ。


しがらみも、ゼロだ。


前世の経験が教えている。与えられた人脈は、与えた者の都合で消える。自ら築いた関係だけが、自分の意思で維持できる。


辺境に向かう。噂が届くまでに二週間から三週間の猶予がある。その間に足場を作る。


ヴィオレッタは鞄を持ち直し、門から一歩踏み出した。


街路はまだ人が少なかった。


早朝の王都を歩きながら、ヴィオレッタは行き先を計算していた。辺境の町エルデン。国境に近い交易路の要衝で、馬車で約七日。路銀はぎりぎり足りる。だが、単独で街道を移動する女性のリスクは無視できない。


街道には盗賊が出る。護衛もなく、身分も失った女が一人で七日間を移動する。合理的な選択ではない。


だが、他に選択肢がない。


公爵邸の前の通りに差しかかった時、荷馬車が一台、こちらに向かってくるのが見えた。


幌をかけた中型の荷馬車。商人のものだ。御者台に座った若い男が、ヴィオレッタの姿を認めて馬の足を緩めた。


「おはよう。ずいぶん早い出発だな」


気さくな声だった。日に焼けた肌に、旅慣れた空気をまとった青年。商人らしい気軽さで片手を上げた。


「辺境方面に向かうなら乗せていくが、どうだ?」


ヴィオレッタは青年を見た。


旅商人の格好。荷馬車には商品と思しき木箱が積まれている。笑顔は人好きのするもので、声には警戒を解かせる柔らかさがある。


だが、ヴィオレッタの目は別のものを見ていた。


御者台に座る姿勢。背筋が自然に伸びている。商人が長時間の移動で身につける猫背の癖がない。手綱を握る手は、荷物を運ぶ手ではなかった。


親切な旅商人が、断罪された翌朝に公爵邸の門前を通りかかる。


偶然にしては、出来すぎている。


だが、ヴィオレッタは一瞬で判断を下した。


今の自分に必要なのは、相手の正体ではない。辺境までの移動手段だ。


「ご親切にありがとうございます。ただ、乗せていただくだけでは借りになります」


ヴィオレッタは鞄を持ったまま、荷馬車の横に歩み寄った。


「街道での情報整理と帳簿の確認を手伝います。その対価として、エルデンまで同行させていただけませんか」


青年の眉がわずかに上がった。


「帳簿? あんた、商家の人間か?」


「いいえ。ただ、数字を読むのは得意です」


青年は一拍の間を置いて、にやりと笑った。


「面白い。乗りな」


ナハルと名乗った青年が差し出した手を取らず、ヴィオレッタは自力で荷馬車に上がった。借りは最初から作らない。それが交渉の第一原則だった。


荷馬車が動き出す。


王都の街並みが少しずつ後ろに流れていく。


ナハルは御者台で前を向いたまま、口笛を吹いていた。何の曲かはわからない。軽い調子の、旅の始まりにふさわしい音色だった。


ヴィオレッタは荷台の木箱に腰を下ろし、周囲を観察した。


木箱の中身は布地と香辛料。ラベルには仕入れ先と数量が記されている。商品台帳が木箱の隙間に挟んであった。


手に取り、開く。


数字が並んでいる。仕入れ値、売値、経路、日付。商人としての体裁は整っている。


だが。


「この仕入れ値、ずいぶん安いですね」


ヴィオレッタは台帳の一行を指で示した。


「直接取引ですか?」


御者台のナハルの口笛が、一瞬だけ途切れた。


すぐに笑い声が返ってくる。


「鋭いな。産地に知り合いがいるんだ。中間を抜かれない分、安くなる」


滑らかな返答だった。嘘をつき慣れた人間の、淀みのない声。


ヴィオレッタは台帳に目を戻した。


この仕入れ値は、産地の卸値よりもさらに安い。正規の商流では説明がつかない数字だ。


旅商人ではない。


では、何者か。


その答えを、今すぐ確かめる必要はない。


敵であっても、利用価値があるなら今は味方として扱う。相手の正体を暴くより、相手が何を目的としているかを見極める方が先だ。


前世で学んだ交渉の鉄則。情報は、握っている側が有利になる。


ヴィオレッタは台帳をめくりながら、静かに唇の端を持ち上げた。


全員が敵でいい。


なら、最初の一人を自分で選ぶ。


荷馬車は街道を南へ走り始めた。王都の塔が、朝霧の中に遠ざかっていく。

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