第九話「山の奥」
正月は、静かだった。
元日の朝、諒は祠に供物を持って行った。今日は奮発して、地元の酒屋で買った小さい一合瓶も持ってきた。神様に酒を供えるものかどうか知らなかったが、まあ年始だし、と思った。
塩、水、酒、それから昨日炊いた赤飯をひとつまみ。皿に並べて、手を合わせた。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
短かった。他に言うことが思いつかなかった。
下りながら振り返ると、ネコチャンがいた。
酒の一合瓶を、鼻先でくんくん嗅いでいた。
「飲みますか」
尻尾が三本、パタン。
「そうですか」
お酒はお気に召さなかったらしい。後日回収しておこうと思った。
一月は作業が少なかった。
雪が多い日は外に出られなかった。家の中でできることをやった。建具の調整、障子の張り替え、棚の製作。屋内作業の動画はいつもより画角が狭くなった。それでもコメントはついた。
『障子の張り替え、こんなに手順があるんですね』
『棚いいね。デザインが古民家と合ってる』
『ストーブの音が聞こえて落ち着く』
障子を張り替えた部屋は、光の入り方が変わった。白い紙越しの冬の光だった。東京にいたとき、障子のある部屋に住んだことはなかった。
ネコチャンが張り替えたばかりの障子に近づいたとき、諒は少し緊張した。
「穴、開けないでくださいよ」
ネコチャンは障子の前で立ち止まって、光の透け具合を眺めた。それから踵を返して、ストーブの前に戻った。
穴は開かなかった。
二月になって、雪が落ち着いてきた。
積雪は続いていたが、大雪の日が減った。晴れ間が出る日が増えた。
晴れた日に、諒は裏山を歩いた。
祠までの道は自分でつけていたが、その先は入ったことがなかった。傾斜がきつくなって、道らしい道もなかった。雪の季節に入る前に、少し奥まで確認しておこうと思ったまま、冬になってしまっていた。
長靴を履いて、スコップとカメラを持って、祠の脇から奥に入った。
落葉した木の間から光が入っていた。雪がまだ厚く残っていて、踏み込むたびに沈んだ。足跡がない。人が入っていない場所の静けさがあった。
カメラを回しながら喋った。
「祠の奥、初めてちゃんと入ります。なんか道があったような形跡はあるんですが、完全に埋もれてますね」
木の根が雪の上に出ていた。踏まないように避けながら進んだ。
五分ほど歩いたところで、傾斜が緩やかになった。少し開けた場所だった。
雪が積もった平場があった。
積もり方が、周囲と少し違った。雪の下に何か形があるような、均一でない盛り上がりがあった。
諒はしゃがんで、スコップで雪を払った。
石が出てきた。
「あれ」
さらに払うと、石が複数あることがわかった。積まれていた形跡があった。崩れて、原形をほぼ留めていなかったが、並び方に規則性があった。
「これ、なんかあったんですかね」
カメラで周囲を映した。平場の奥に、太い木があった。根元が露出していて、根張りが広かった。古い、そして巨大な木だった。その根元に、石が一つ残っていた。他の石より大きくて、人の手で加工された形跡が見える。
諒は立ち上がって、カメラを転がった石に向けた。
「石碑、ですかね。なにか彫られているような」
言いながら、背中がすっと冷えた気がした。
寒さとは違う感じだった。
振り返った。
誰もいなかった。木立と雪だけだった。
でも見られている感じがした。視線というより、気配だった。圧力というほど強くはなかったが、確かに何かがあった。
「……お邪魔してます」
なんとなく、言った。
しばらく立ったまま、その場にいた。
やがて気配が薄れた。
諒はもう一度、石碑らしきものを確認してから、来た道を戻った。
その夜、動画をアップした。
タイトルは「裏山の奥に、もう一つ何かあった」にした。
反応は大きかった。
『うーん、なんだろ』
『石の積み方が祠の跡っぽい?』
『祠ってか、モニュメント的な。形が残ってる』
『モニュメントって何だよ』
『石碑でしょ』
『殺生石!!』
『↑それは栃木県』
『雪払ってみないと何とも…』
『ネコチャン、関係あるかな』
『ありそう』
諒はコメントを読みながら、ネコチャンを見た。
ネコチャンは炬燵の上にいた。諒が炬燵を出したその日から、ほぼ定位置になっていた。
「ネコチャン、裏山の奥に石の跡がありましたよ。知ってましたか」
ネコチャンは炬燵の上で、諒を見た。
いつもと少し違う気がした。
いつもは視線が素っ気なかった。関心があるようなないような、そういう目だった。
今は、じっと見ていた。
「知ってましたよね、絶対」
尻尾が三本、ゆっくり揺れた。
返事とも違った。何かを確かめるような動きに見えた。
翌日、諒は田中さんの家に行った。
雨樋の点検ついでに様子を見る、という口実だった。暖かい緑茶をもらいながら、本題を切り出した。
「裏山の奥に、石の跡がありました。台座みたいな石も残っていて」
田中さんは少し間を置いてから、うん、と言った。
「知ってるか、と言われたら、知ってるねえ」
「なんか、あったんですか」
「私も詳しくは知らんのやわ。おばあさんから聞いた話やでねえ」
田中さんは遠くを見るような目をした。
「昔、この集落にはあの猫を祀る場所が二つあったって。山のふもとと、山の奥と。ふもとの方があんたが直した祠で、奥の方は……ずっと前に、何かあって使わなくなったって」
「何かって」
「そこまでは聞かなかった。おばあさんも、よく知らんかったみたいやしの」
田中さんがこちらを見た。
「直すつもりなんか?」
諒は少し考えてから、答えた。
「まだわからないです。ただ、あそこに何があったのかは知りたいと思ってます」
田中さんはしばらく諒を見てから、そうか、と言った。
それ以上は言わなかった。
三月になった。
雪が解け始めた。
石段の雪が消えて、地面が見え始めた。枯れ草の下から、小さい緑が顔を出していた。
諒は祠に供物を持って行きながら、その先の道を眺めた。
雪が減ったら、また奥に入ってみようと思っていた。今度はもう少し丁寧に、全体を確認したかった。石の状態、台座の大きさ、周囲の地形。
直せるかどうかは、見てから考える。
でも、ここも、ちゃんとした状態に戻した方がいいような気が、していた。
根拠はなかった。
ふもとの祠のときと、同じ感じだった。
供物を置いて、手を合わせた。
「奥の方も、気になってます。まだ何も決めてないですけど、報告まで」
頭を下げた。
下りながら振り返った。
ネコチャンが、祠の前にいた。
いつもそうだった。でも今日は、ふもとの祠ではなく、その奥の方を向いていた。
じっと、奥を見ていた。
尻尾が三本、静かに揺れていた。
「ネコチャン」
振り返らなかった。
でも耳が、奥の方に向いたまま、ぴくりと動いた。
諒はしばらくその場に立っていた。
ネコチャンが何を見ているのか、わからなかった。
ただ、奥には、何かがあった。
それだけは確かだった。
移住して、ほぼ一年が過ぎた。
古民家の修繕は、まだ終わっていなかった。たぶん終わらないままずっと続いていくのだと思っていた。それでいいと思っていた。
チャンネルの登録者は、気づけば1万人を超えていた。霊障の相談は週に何件か来た。祠に報告して、解決した。スパチャが時々来た。生活の足しになった。
害虫は来なかった。害獣も来なかった。視聴者は来られなかった。
ネコチャンは縁側にいて、炬燵にいて、布団の足元にいた。尻尾は三本だった。
眷属の猫たちは今日も好き勝手な場所にいた。ゴマは庭の真ん中にいた。
そういう日常だった。
その夜の配信で、視聴者に聞かれた。
『裏山の奥、どうするつもりですか』
諒は少し考えてから答えた。
「春になったら、ちゃんと調べてみます。何があったのか」
『ネコチャンも関係あるのかな?』
また少し考えた。
「あると思います」
縁側を見た。ネコチャンがいた。月明かりの中で、山の方を向いていた。
「なんか、待ってる気がするんですよね」
コメントが流れた。
『ずっとそこにいたんだもんな』
『石碑を直してくれる人間を?』
『待ってたんだよきっと』
諒はネコチャンを見た。
ネコチャンは動かなかった。
ただ、尻尾が一本、静かに揺れていた。




