第六話「なぜか」
六月になった。
梅雨入りした福井の山間は、雨が多かった。霧が出る朝があった。山がぬれたまま光る昼があった。それでも縁側から見える景色は悪くなかった。雨の日は雨の日の色があった。
諒は梅雨の合間を縫って、家の修繕を続けていた。
この時期の課題は雨樋だった。何か所かで詰まっていて、大雨のたびに軒から水が溢れた。脚立を立てて順番に掃除して、割れているところは交換した。作業中に雨が降り始めることが何度かあって、そのたびにずぶ濡れで下りてきた。コメント欄には毎回『無理しないで』と『でも続き気になる』が同時に並んだ。
田中さんが筍を持ってきたのは、その頃だった。
「水煮にして冷凍しておいたの。今年は豊作やったんやって」
大きい筍が三本、ずっしりとした袋に入って密封されていた。
「ありがとうございます。あの、そういえば田中さんとこの雨樋、前から気になってたんですが」
「ああ、一か所詰まってるんやってなあ。気になっとった」
「やりましょうか。どうせ道具出してるし」
「ええ、悪いねえ」
「全然。筍の方が高いです」
田中さんが笑って、じゃあ頼むわねと言って帰った。翌日、脚立担いで田中さんの家に行った。詰まりを抜いて、ついでに勾配が狂っていたところを直した。一時間半ほどの作業だった。
田中さんは縁側でそれを眺めていた。終わったら冷たい麦茶を出してくれた。
それだけだった。それで十分だった。
集落の人間関係は、だいたいそういう感じで回っていた。
ゴミ当番があって、月に一度の寄り合いがあって、春と秋に草刈りや用水路清掃の社会奉仕があった。諒は全部に顔を出した。特別なことは何もなかった。よそ者として身構えていたが、身構える必要はなかった。最初から普通に扱ってもらった。
「あの家直しながら住んでるんやって」と言われることが多かった。それが話題の起点になって、あとは天気や農作業の話になった。
それでいい、と思った。
七月になった。
山間の夏は、平野部より短い。それでも気温は上がった。
諒は縁側で扇風機を回しながら、いんげんの筋取りをしていた。集落の人からもらったもので、塩茹でするだけで、歯応えがあってうまいのだった。
ネコチャンが隣で寝ていた。体をくねらせ、腹を出していた。いわゆるヘソ天である。随分懐いたものだ。尻尾が三本、だらしなく伸びていた。
ふと気づいた。
「蚊取り線香、使ってないな」
声に出してから、改めて考えた。七月で、山間の古民家で、蚊取り線香を焚いていない。そもそも蚊に刺された記憶がなかった。
スマートフォンをに向き合い、ライブ配信中のカメラに向かった。
最近は登録者、視聴者数が増え、こうして作業のライブ配信をすることも増えた。
「みなさんに聞きたいんですが、俺って蚊に刺されてますっけ」
コメントが来た。
『知らんがな』
『そういえば痒そうにしてるとこ見てないです』
『俺はさっき刺された。許せん』
『いんげん美味しそう』
『蚊取り線香も出てこないな。持ってないのか?買えよ』
『ネコチャンが!!!へそ天!!!!!』
『落ち着け』
『山なのに虫少なくないですか』
『蜂とかも見ないねー』
『ムカデとか出ないの?』
「出ないんですよね、なぜか」
なぜか。
諒は扇風機の風を受けながら、庭を見た。夏草が伸びていた。その向こうにゴマがいた。白いのが縁側の端にいた。
ネコチャンが片目を開けて、こちらを見た。
「ネコチャン、蚊、どこいったんですか」
片目が閉じた。
尻尾が一本、パタン、と揺れた。
「蜂とか、ムカデも見ないんですけど」
ゴロリと寝返りを打った。
気持ちよさそうだった。
八月になった。
隣集落から、猪が出たという話が入ってきた。
寄り合いで回覧が回ってきた。畑を荒らされた農家が何軒かあるという内容だった。山際の畑が特にやられているらしかった。電気柵を設置する助成金の案内が一緒に綴じてあった。
諒は回覧を次の家に回しながら、自分の畑のことを考えた。
裏山に面した側に、小さな畑を作っていた。トマトとナス、それから唐辛子と枝豆にきゅうり。山際というより山の中に近い立地だった。条件だけ見れば、一番やられやすい場所のはずだった。
でも今まで何もなかった。
柵も張っていない。ネットもない。特別な対策は何もしていなかった。
翌朝、畑の様子を撮りながら喋った。
「被害ないです。隣の集落では猪が出てるそうなんですが。なんか来た形跡もなくて」
カメラで裏山の縁を映した。山から下りてくるとしたら、ここを通るはずだった。
足元に、獣の足跡があった。
でもその足跡は、畑まで続いていなかった。裏山の縁のあたりで、ぴたりと止まっていた。
「・・・止まってる」
カメラを足跡に向けた。
『あ、本当に止まってる』
『結界じゃん』
『ネコチャンの縄張りに入れないんじゃないの』
『猪もわかるんだよ、格が』
『さすが俺たちのネコチャン!さいつよ』
諒はカメラを持ったまま立って、裏山の方を見た。
杉の木立の暗がりに、金色の光が二つあった気がした。
目を凝らしたら、なかった。
気のせいかもしれなかった。でも諒は、なんとなくそっちに向かって会釈した。
「いつもありがとうございます」
返事は、なかった。
コメント欄で、その頃から一つの話題が定期的に上がるようになっていた。
『なぜか来られない問題』だった。
最初に書いたのは、登録者の中でも古参の視聴者だった。
『諒さんの動画見てから移住先の参考にしたくて訪ねようとしたんですが、途中で道に迷って辿り着けませんでした』
それに続いて同じような報告が何件かついた。
『同じく迷いました。ナビが変な方向に案内する』
『集落の入口まではたどり着いたんですが、そこから先に進めなくて引き返しました』
『なぜか眠くなって、気づいたら全然違う方向にいた』
諒は読んで首を傾げた。
「来られないっていうのが俺にはよくわからなくて。普通の道ですよ。国道から山道入って、峠越えて、集落に入るだけで」
それを言ったら、コメントが増えた。
『そうやって言うけどさあ』
『峠の手前の分岐で毎回違う選択をしてしまう』
『は?』
『ナビ的には正しいはずの道が、なぜか途中で行き止まりになる』
『これってネコチャンのパワー?』
ネコチャンは縁側で爆睡していた。
「ネコチャン、視聴者さんが来られないって言ってるんですが」
爆睡したままだった。
寝転がったままぐいーっと伸びをして、また寝入ったようだった。
お盆の前に、諒は祠に供物を持って行った。
塩と水と、それから今日は地元のスーパーで買った小さいおはぎも持ってきた。盆だからなんとなく、だった。
皿に並べて、手を合わせた。
「えーと、お盆です。特に何かあるわけじゃないですけど、まあ、ご報告というか」
言葉が続かなかったので、黙って頭を下げた。
カメラを回していた。こういう動画を上げるとなぜかコメントが伸びた。
帰り道、石段を下りながら振り返ると、ネコチャンがいた。
いつの間にか来ていた。祠の前に座って、供物を見ていた。
「おはぎ、好きですか」
返事はなかった。
でもネコチャンの尻尾が三本、ゆっくり揺れていた。
ご満悦に見えた。
後日アップした祠参り動画の、ちょうど諒が頭を下げているあたりのフレームで、コメント欄が騒ぎになった。
『ちょっと待って、諒さんの後ろ』
『なんかいない?』
『光ってない?』
『目……?』
諒は確認した。
画面の端、木立の暗がりに、金色の点が二つあった。
拡大すると、輪郭がぼんやり見えた。
猫の形をしていた。
尻尾が、三本あった。
諒は動画を止めて、しばらくそれを見た。
「……いたんですね、ずっと」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
コメントが続いていた。
『これ前からずっといたんじゃないかな』
『修繕中の動画も確認したら映ってた』
『ずっとそこにいたんだよ、多分』
『ネコチャン、祠のこと心配してたんじゃないかな』
『直してもらって良かったね』
諒はスマートフォンを置いて、縁側を見た。
ネコチャンがいた。山の方を向いて、静かに座っていた。
夕暮れの光の中で、黒い毛並みが少し赤みを帯びていた。尻尾が三本、微かに揺れていた。
「ずっとここにいたんですね」
返事は、なかった。
でも耳が、ぴくりと動いた。




