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第五話「居着いた」

縁側に黒猫がいた。

夕方の光の中で、それは座っていた。尻尾が三本、きれいに揃えて体の横に添えていた。毛並みが良かった。野良にしては、良すぎた。金色の目がこちらを見ていた。


諒は縁側から少し離れたところで立ち止まって、しばらく見た。

黒猫も、動かなかった。


「……君は」


声をかけると、耳がぴくりと動いた。それだけだった。

近づいても逃げなかった。しゃがんで目線を合わせると、金色の目がじっとこちらを見ていた。怖がっている様子もなかった。かといって懐いているふうでもなかった。ただ、そこにいた。

手を差し出したら、鼻先でくんくんと嗅いで、それから顔を背けた。


「そうですか」


諒は立ち上がった。

とりあえず、と思って台所に行って、昼の残りの煮干しを小皿に乗せて縁側に置いた。黒猫はしばらくそれを見てから、ゆっくり食べた。

食べ終わったら、また元の場所に座った。

尻尾が、パタン、と揺れた。


「ネコチャン、と呼んでいいですか」


返事はなかった。

それが返事だと思うことにした。


翌朝、ネコチャンは縁側にいた。

その翌朝も、いた。

三日目には、諒が気づかないうちに家の中に入っていた。どこから入ったのか、わからなかった。引き戸はどれも閉まっていた。気がついたら、布団の足元にいた。


「いつ入ってきたんですか」


金色の目が、ゆっくりまばたきをした。

尻尾が一本、パタン、と揺れた。


ネコチャンが居着いてから数日のうちに、他の猫が増えた。

最初に気づいたのは縁側に白い猫がいたことで、次の日には茶トラが庭の隅にいて、さらに次の日にはぶちと耳の欠けた灰色の大きいのが納屋のそばにいた。


全員、野良の顔をしていた。でも妙に落ち着いていた。警戒心が薄かった。近づくと逃げるが、追わなければそのままその辺にいた。


「なんで急に」


諒が言っても、ネコチャンは縁側で爆睡していた。尻尾が三本、ぐったり伸びていた。

カメラを回しながら庭を歩いて、猫たちを映した。


「気づいたら増えてました。なんでかわかりません」


その夜の動画に、コメントが並んだ。


『ネコチャンが呼んだんじゃないですかね』

『ねこください』

『縄張りができてる感じがする』

『それぞれの居場所が決まってるっぽい』

『ネコチャンだけ家の中に入るの、位が違うんだよ絶対』


諒は縁側に腰かけて、庭を眺めた。

たしかに、いる場所が決まっているように見えた。白いのは縁側の端。茶トラは庭の真ん中あたり。ぶちは納屋の前。灰色の大きいのは門の脇。そしてネコチャンだけが、家の中まで入ってくる。


なんとなく、地図を書きたくなった。

翌日、方眼紙を引っ張り出して、敷地の見取り図を描いて、猫たちのいる場所を書き込んだ。それをカメラに映したら、コメント欄がざわついた。


『精度高すぎて草ァ!』

『本当に縄張りが決まってる』

『ネコチャンが管理してるんじゃないか説』


茶トラはその後コメント欄でゴマという名前がついた。由来は毛色が胡麻に似ているから、とのことだった。諒はその名前を使い始めた。一度使ったら定着した。


田中さんが様子を見に来たのは、ネコチャンが居着いて一週間ほど経ったころだった。

手にまた何か持っていた。今日は瓶詰めのものだった。


「ふきの佃煮。ご飯のお供に」

「ありがとうございます。上がりますか」

「じゃあちょっとだけ」


縁側に腰を下ろして、田中さんはゆっくりと庭を見渡した。ゴマが庭の真ん中にいた。白いのが縁側の端にいた。


「猫、増えたねえ」

「はい、急に」

「そりゃそうやわ」


田中さんは、コロコロと笑った。特に驚いた様子がなかった。当然のことを確認するような言い方だった。

ネコチャンが縁側に出てきた。田中さんの隣に、するりと座った。

田中さんはネコチャンを見て、目を細めた。


「ちゃんとしてくれて、猫さまも喜んでるねえ」

「祠、気に入ってくれてるといいんですけど」

「気に入っとるよ。見たらわかる」


田中さんの言い方は、比喩でも感想でもなく、事実を述べる声だった。「猫さま」という言い回しが少し気になった。

諒はネコチャンを見た。ネコチャンは山の方を向いていた。尻尾が三本、静かに揺れていた。


「田中さんって、この猫のこと、前から知ってますか」


少し間を置いてから、田中さんは答えた。


「前からおるよ。ずっと前から」

「ずっとというのは」

「私が子供のころから」


諒は計算した。田中さんが少なくとも七十代後半として、五十年以上前ということになる。


「同じ猫、ですか」

田中さんはそれには答えなかった。お茶を一口飲んで、庭を見た。


「あの祠が荒れてから、ずっとおらんかったんよ。ぱったりと」

「それが戻ってきた」

「あなたが直したから」


また事実を述べる声だった。

諒はしばらく考えてから、カメラを止めた。この会話は、録らなくていいと思った。


「田中さん、担当者の人が物件の説明するとき、なんか言いにくそうにしてたんですよ。あれって、なんでだったかわかりますか」


田中さんが、少し笑った。


「そりゃあ言いにくいわよねえ」

「霊的なものの目撃証言があったって話、聞いたことあります?」


田中さんはしばらく黙って、それからゆっくり頷いた。


「おったんよ、ずっと。ぼんやりした黒いもんが、あの家の周りをうろついとるって。夜に目が光っとるって」

「それは」

「猫さまよ。力が弱うなっとったから、ちゃんと見えんかったんやろ。ぼんやりしか」


ネコチャンが、ちらりと田中さんを見た。それから視線を山に戻した。


「担当の人は、そっちの話は表立っては言えんやろ。役所の人間やし。でも気にはしてたんやで。誰も買わなかった一番の理由はそれやわ」

「俺は霊感、ないと思うんですが」

「気にしないタイプやろ」


田中さんが笑った。今度はちょっと意地悪な笑い方だった。


「気にしないというか、そういうことより祠が直せるかどうかの方が気になったんやろ」


否定できなかった。

諒が黙っていたら、田中さんは立ち上がった。


「まあ、ようきてくれたわ。猫さまも、やっと落ち着けるわ」


帰り際、田中さんはもう一度ネコチャンを見た。

ネコチャンは動かなかった。ただ、尻尾が一本、田中さんの方にパタンと揺れた。

田中さんは、うん、と言った。

満足そうだった。


その夜、布団に入ってから、諒はしばらく天井を見ていた。

ずっと前から、いる猫。

力が弱くなって、ぼんやりとしか見えなくなっていた。祠が荒れてから、姿を消していた。

祠を直したら、戻ってきた。


「ネコチャン」


足元で、気配がした。


「君、いったい何者ですか」


返事はなかった。

布団の裾が、少し重くなった。

金色の目が暗がりに光って、ゆっくりまばたきをして、それから閉じた。

諒もそれ以上は聞かなかった。

まあ、いいか、と思った。


直したかったから直した。居着いたなら、いればいい。それだけのことだ、と思った。


山の夜は静かだった。


虫の声だけが、遠くから聞こえていた。

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