第四話「祠を直す、ちゃんと」
福井の山間の集落は、五月になっても朝が冷えた。
田植えの済んだ棚田が朝日を反射して、空気がうっすら水の匂いを含んでいる。標高のせいか、平野部より季節がワンテンポ遅い。縁側から見える山の広葉樹が、ようやく葉を広げ始めたところだった。
その朝、諒が裏山に向かおうとしたら、田中さんがいた。
集落の細い道から入ってきて、手に何か持っていた。
「あら、ちょうどよかった。これ」
差し出されたのは、タッパーだった。
先日と同じく、山菜が炊かれたものだった。
「この間のぜんまい、美味しかったって言ってたでしょ? 今度は、こごみと、タラの芽。一人じゃ食べきれんから」
「あ、ありがとうございます。あの、今日、祠の修繕始めようと思ってて」
「あら、ほうしたら見とこうかなあ」
あっさり言って、田中さんはついてくる姿勢になった。諒は特に断る理由もなかったので、どうぞと答えた。
石段を上がりながら、田中さんは息一つ乱さなかった。八十近いとは思えない足取りだった。
「田中さん、よくここ上がるんですか」
「昔はね。最近は膝がちょっとあれやけど、まあこのくらいなら」
祠の前に立って、田中さんはしばらく黙った。
「ほんまに直すんやね」
「はい」
「そうかあ」
それだけ言って、田中さんはその場にしゃがみ込んだ。杖も持っていないのに、するりとしゃがんだ。石の台座を、手のひらで撫でた。
「ここな、私が子供のころは、ちゃんとしてたんや。石がきれいに積んであって、小さい鳥居もあって。いつの間にかなくなってしもうたけど」
「鳥居、ですか」
「木の、小さいやつ。腐ったんやろな。誰も直さんかったからねえ」
諒はメモを取った。頭の中の、メモだった。鳥居、作れるか。木を切って組むだけなら、できないことはない。
「田中さん、鳥居の大きさって覚えてますか」
「そんな大きくなかったのお。子供の私が、くぐれるかくぐれないかくらい」
「わかりました。参考にします」
田中さんが諒を見て、少し笑った。笑い皺のある柔和な表情だった。
「ええなあ」
「え」
「直してやろうって気になるのが。普通は面倒くさいやろ、こんなもん」
「面白いので」
答えたら、田中さんはまた笑った。
「頑張ってね。なんかあったら言うてねえ」
石段を下りていく背中を見送って、諒はカメラを回した。
「では、着工します」
まず全体の状態を記録した。
柱四本のうち、二本は根元が完全に腐っていた。残り二本は表面だけで、芯はまだ生きていた。屋根は笠木と垂木が腐っており、葺いてあった板は原形を留めていないものがほとんどだった。台座の前の石積みは完全に崩れていて、石が周辺に散らばっていた。
記録しながら喋った。
「腐った柱は根継ぎでいきます。根元を切って、新しい木を継ぎ手で繋ぐ方法です。柱を全部抜いてしまうと屋根の構造ごと崩れるかもしれないので、一本ずつ順番にやります」
カメラに向かって説明するのは、最初こぢんまりした場所の方が向いていた。広い空間だと声が散る。祠の前のこのくらいの広さが、ちょうどよかった。
『根継ぎ、初めて聞いた』
『大工仕事じゃん』
『独学ですか?』
「独学というか、本とネット動画で。あと実地でやってみながら、ですね」
材料はスーパーカブで麓まで下りて、ホームセンターで調達した。
福井の平野部まで出れば大型のホームセンターがある。山間の道を下って、国道に出て、片道四十分ほどかかったが、品揃えは十分だった。柱用の桧の角材、屋根板用の杉の板材、防腐剤、ビス、金物。軽い材料ならカブの荷台と体に括り付ければ運べた。重いものは後日SUVで取りに来ることにした。
『カブで角材運ぶの、絵面が好き』
『積載量どのくらいまでいけるんですか』
『スーパーカブは割となんでも運べる説』
「法律の範囲内でやってますよ、一応」
帰り道、峠を越えると視界が開けた。田んぼが広がって、遠くに白山の残雪が見えた。五月の午後の光だった。
この景色、と諒は思った。
東京に十七年いて、こういうものを見る機会がほぼなかった。毎日画面を見ていた。画面の中に世界があって、画面の外はただ移動のための空間だった。
それが今は逆になっていた。以前よりも体が軽くなっている気がした。
翌日から、本格的な作業が始まった。
最初の工程は、腐った柱の根継ぎだった。
根元から三十センチほどのところで切断する。切り口を平らに整えて、継ぎ手の形に加工する。新しい材も同じ形に加工して、組み合わせてビスと金物で固定する。文章にすると短いが、実際には一本に半日かかった。
カメラに向けて、工程を細かく説明しながら作業した。
「のみで欠き込みを入れるときは、木目に沿って少しずつ。力任せにやると割れます。こういう古い木は特に」
ノミが走る音、木くずの匂い、手のひらに伝わる木の感触。東京にいたときには縁がなかったものが、今は一日のほとんどを占めていた。
二本目の根継ぎを終えたところで、日が傾いてきた。
道具を片付けながら、ふと気配を感じた。
振り返っても、何もなかった。木の間から光が差しているだけだった。風も、ほぼなかった。
でも何かいる、という感じがした。
動物かもしれない、と思った。山の中だから、鹿でも出たのかもしれない。
「……なんかいますか」
誰にともなく言ったら、静かなままだった。
カメラには映っていないだろうと思いながら、一応後で確認しようとメモした。
作業は四日かかった。
一日目、柱の根継ぎ二本。
二日目、残り二本の根継ぎと、傾きの修正。
三日目、屋根の垂木と笠木の取り替え、板の加工。
四日目、屋根板の取り付け、石積みの積み直し。
石積みは、散らばった石をひとつひとつ拾い集めるところから始まった。形と大きさを確認して、組み合わせを考えて、高さが揃うように積んでいく。セメントは使わなかった。もともと空積みだったので、同じように空積みで戻した。
最後に、全体に防腐剤を塗った。
塗り終えてから、少し離れて眺めた。
新しい木の色が、古い石の色と並んでいた。不釣り合いかと思ったが、そうでもなかった。新しいところは新しい、古いところは古い、それだけのことだった。
「できた」
声に出たのは、一人だったからだ。
カメラを構えて、全体を映した。
「祠の修繕、完了しました。屋根板は杉、柱の根継ぎ部分は桧を使っています。石積みはもともとあった石を積み直しました。防腐剤を全体に。あとは……」
少し考えてから、続けた。
「鳥居、作ろうと思います。近所のお年寄りに聞いたら、昔は小さい木の鳥居があったそうで。腐ってなくなってしまったみたいなので」
その夜アップしたら、コメントが伸びた。
『完成の見た目が良すぎる』
『新旧の素材の組み合わせ方が絶妙』
『鳥居まで作るんかい』
『大工の神様に気に入られそう』
『なんか本当にちゃんとした祠になってる』
諒は返信しながら、その中の一件に目が止まった。
『修繕中の動画、3日目の15:23あたりに祠の後ろになんかいない?』
確認した。
杉の板を取り付けていた場面だった。祠の後ろ、少し暗い木立の中に——なにか、黒いものが見えた気がした。
拡大しても、よくわからなかった。
小さい動物かもしれない。光の加減かもしれない。
でも輪郭が、どことなく、猫に似ていた。
翌朝、完成した祠に塩と水を供えた。
手を合わせて、特に言葉は考えなかった。ただ、頭を下げた。
下りながら振り返った。
祠は、朝の光の中に静かに立っていた。
その前に、何かいた。
今度は、気のせいではなかった。
黒かった。小さかった。こちらを向いていた。
目が、金色だった。
諒は立ち止まって、しばらくその場にいた。
黒いものも、動かなかった。
どちらも、しばらくそのままだった。
やがて諒は、なんとなく会釈をして、山を下りた。
その日の夕方、縁側に黒猫がいた。
尻尾が、三本あった。
ネコチャン登場




