第三話「まず住めるようにする」
引っ越しの日は雨だった。
車で東京から荷物を運んだ。今回の移住に際し購入したもので、積載量の多いSUVタイプだった。
運搬は、休憩を挟みながら、10時間ほどの旅だった。荷物はたいした量ではなかった。1LDKに十七年住んでいたわりに、物が少なかった。捨てたのではなく、最初からあまり持っていなかった。家具はほぼ処分して、衣類と工具と、いくつかの本と、パソコン周りだけ持ってきた。工具が一番かさばった。
山道を上がっていくと、集落の入口に人が立っていた。
傘を差した小柄な老婆だった。道の端に立って、こちらを見ていた。
車を停めると、老婆は近寄ってきた。
「あなたが坂口さんかいね」
「はい」
「田中と言います。集落の端に住んどる。あの家に入るって聞いたから」
田中さんは、七十代か八十代か、そのあたりに見えた。背は低いが姿勢がよく、柔和な雰囲気を湛えていた。傘の柄を両手で持って、ぺこりと頭を下げた。
「お兄さん、直せるんか、あの家」
「やってみます」
「お一人で?」
「一人で」
田中さんはしばらく諒の顔を見てから、あらあらと言った。困ったような表情だった。
「困ったことがあったら何でも言っての。あんまり力になれんかも知らんけど」
それだけ言って、傘を傾けて帰っていった。帰り際に、ぺこりと頭を下げたのが印象的だった。姿勢の低い人だと思った。悪い印象を与えてしまっただろうか。
諒はその背中を見送ってから、また車を走らせた。
最初の三日間は、片付けだけで終わった。
長年の空き家には、前の住人の残していったものがあった。家具、農具、食器、よくわからない木箱、積み上げられた古雑誌。全部が使えないわけではなかったが、全部を確認する時間が必要だった。使えそうなものは残して、駄目なものは分別して、車で何度も処分場に運んだ。
カメラはその初日から回していた。
片付けながら喋るというスタイルは、最初から自然にそうなった。作業中に独り言を言う癖が昔からあって、カメラがあることで独り言の行き先ができた、という感じだった。
『ん? 屋根裏に何か入ってる?』
最初にコメントがついたのは、天井を突いていたら何かが落ちてきた場面だった。古い竹籠だった。
「竹籠でした。穴あいてますけど、形がきれいなんで置いときます」
『判断が早い』
それが諒のチャンネルの、実質的な最初の会話だった。
片付けが落ち着いたころ、本格的な修繕に着手した。
優先順位は決めていた。まず屋根、次に床、それから壁。雨水が入るところを塞ぐのが先で、見た目は後だった。
屋根に上って瓦を確認すると、ずれているだけのものが多かった。割れているのは一部で、同じサイズの瓦を探してきて差し替えればよかった。瓦を押さえる漆喰が痩せているところは、補修材を詰めた。高所作業は一人だと慎重にやる必要があった。命綱を使った。カメラは三脚で固定して回しっぱなしにした。
『命綱ちゃんとつけてて偉い』
『屋根の上からの景色すごいなあ』
『瓦の差し替え方、初めてちゃんと見た』
床は、踏んで鳴るところを一枚ずつ剥がして確認した。根太が腐っているところが数か所あった。ホームセンターで角材を買ってきて、腐った箇所を切り取り、新しい木を入れた。床板を戻して踏んでみると、鳴らなくなった。
「なおった」
思わず声に出た。
『やった!』
『気持ちいい』
『この人の修繕動画、参考になるなあ』
その時点でチャンネル登録者は、三百人を少し超えたあたりだった。
裏山に最初に入ったのは、引っ越しから二週間後だった。
祠のことは気になっていたが、家の状態が落ち着くまで待った。修繕の目処が立って、生活のリズムができて、それからにしようと思っていた。
石段は、想像していたよりひどかった。
苔で滑る石、崩れた石、そもそも石がなくなって土がむき出しになっているところ。両側の草が石段に覆いかぶさっていて、道があることすら見えにくかった。
鎌を持ってきていたので、草を払いながら上がった。一段一段、足元を確認しながら。
上がりきると、祠があった。
契約のときに一度見ていたが、改めて見るとやはり傷んでいた。屋根の板が腐って、一部が落ちていた。柱は傾いていた。台座の前の石が崩れていた。地面には落ち葉と枯れ枝が積み重なっていた。
諒はしゃがんで、柱を触った。根元は腐っていたが、上の方はまだ生きていた。台座の石は、触るとびくともしなかった。
カメラを向けながら、独り言みたいに喋った。
「えーと。屋根板は全部取り替えですね。柱は根元から切って継ぎ手で延長できるか。台座はそのまま使えそう。石の積み直しは・・・崩れてる石を全部集めて、高さ揃えてやり直す感じかな」
カメラを自分に向けた。
「これ、直していいんですよね。前に担当の人に聞いたら、むしろ直してくれって言ってたし。一応、ご報告というか」
祠に向かって、ちょっと頭を下げた。
「直させてもらいます」
その夜、動画をアップした。
タイトルは「裏山の祠、直そうと思います」にした。
反応は思っていたより大きかった。
『触っていいのか問題』
『作法的に何かやった方がいい気がする』
『神社庁に聞いた方がよくない?』
『いや個人所有の祠って神社庁関係ないんじゃ』
『お清めしてから着工が筋では』
『でも現状放置の方が失礼という説もある』
『どっちだよ』
コメント欄が議論し始めた。諒はしばらく眺めてから、近所に聞いてみますとだけコメントを返した。
翌日、田中さんの家を訪ねた。
古い家だった。庭に柿の木があった。声をかけると、田中さんはすぐに出てきた。
「裏山の祠、直そうと思うんですが。何か作法とか、ありますか」
田中さんは少し間を置いてから、縁側に腰を下ろした。
「あの祠なあ」
静かな声だった。
「ずっとそこにあるんやってなあ。私が子供のころからあったわ。私のおばあさんも、子供のころからあったと言ってたねえ」
「何を祀ってるか、わかりますか」
田中さんは首を少し傾けた。
「さあ・・・。でも」
目が、細くなった。
「ずっとそこにあるもんは、ちゃんとしてやれば分かるものやから。・・・直してやってくれん?」
あ、ちょっとまってねえと言って、田中さんは家の中に入っていった。
諒は縁側の前に立ったまま、少し考えた。
ちゃんとしてやれば分かるもの、か。
誠心誠意取り組めばそれでいい、ということだろうか。
帰りがけ、田中さんは山菜とひき肉を出汁で炊いたものをくれた。山菜には詳しくなかったが、田舎暮らしに馴染めば自然と覚えるだろうと思った。山菜に苦味やえぐみはなく、丁寧に調理されたものだと感じた。コンビニのおにぎりで済ませていた灰色の食卓に、差し色が入った気がした。
タッパーは洗って返さなければ。そう思いながら貰った山菜を食べた。
翌朝、諒は塩と水を持って裏山に上がった。
理由は特に説明できなかったが、やっておこうと思った。コメント欄の誰かが言っていたのかもしれない。田中さんの言い方が頭に残っていたのかもしれない。
祠の前に塩を置いて、水を置いた。手を合わせて、また来ます、とだけ言った。
カメラは持っていかなかった。
なんとなく、今日は回さなくていいと思った。
下りながら振り返ったら、台座の前に、何かいた気がした。
目を凝らしたが、何もなかった。
気のせいだと思った。
祠の修繕に着手したのは、それから四日後だった。




