第二話「捨て値には訳がある」
過去編。淡々と進みます。
チャンネルの最古参視聴者がよく言う。
『最初期の動画、今見ると別の番組みたいですよね』
そうだと思う。諒自身がそう思う。
最初期の動画の諒は、疲れていた。顔色が悪くて、声が平坦で、カメラの前での立ち居振る舞いがどこかぎこちなかった。内容は田舎暮らしの準備や、見つけた物件の話が中心だった。再生数は少なかった。コメントもほぼなかった。それでもアップし続けたのは、やめる理由がなかったからだ。
諒は四十二歳になった春に、十七年勤めたIT系の会社を辞めた。
辞めた理由は、聞かれるたびに少しずつ変わった。体調を崩した、というのが一番短い説明だった。嘘ではなかった。ただ正確でもなかった。正確に言うと、ある朝起きたときに、今日も会社に行かなければならないという事実が、物理的な重さを持って胸の上に乗っかってきて、諒はそのまま三十分動けなかった。それが一週間続いた。
医者に行ったら、まあ休みなさいと言われた。
休んで、少し楽になって、でも戻る気にはなれなかった。
退職して、貯金を数えて、どうするかを考えた。東京の1LDKの家賃は高かった。毎月出ていくものが多かった。このペースで生活すると、お金が尽きる日が計算できた。それは怖かったが、会社に戻るよりは怖くなかった。
田舎暮らしを考え始めたのは、そのあたりだった。
物件を探すのに、三ヶ月かかった。
空き家バンクというものがあって、全国の自治体が過疎化した地域の空き物件を格安で紹介している。諒はそれを端から眺めた。古い家が多かった。直す必要があるものがほとんどだった。でも諒には、子供の頃から手を動かすのが好きだという自覚があった。学生時代に家具を作ったり、賃貸でも許可の範囲でいろいろ弄ったりしていた。古い家を直しながら住む、というのは、むしろ悪くなかった。
問題は場所と、金額と、周囲の環境だった。
候補を絞って、何件か実際に見に行った。いい物件もあったが、ピンと来なかった。なんとなく、もう少し山に近いところがいいと思っていた。理由は特になかった。ただそう思っていた。
その物件の情報を見つけたのは、ある夜の検索中だった。
福井県の中山間の町にある、古民家。
築八十三年、木造、山間、裏山つき、広大な敷地——広大というのは具体的には書いてなかったが、地図を見ると確かにかなりの面積だった——価格は、見間違いかと思った。桁が一つ二つ少なかった。
問い合わせると、町の担当者がそれなりに歯切れの悪い説明をした。
「えー、長期間空き家になっておりまして。傷みがかなりございます。それと、えー、裏山の管理も含めてのお値段ですので」
「どのくらい傷んでますか」
「えー、その、写真をお送りしますが、まあ、相応に」
写真が来た。玄関の引き戸が半分外れていた。縁側の板が抜けているところがあった。天井にシミがあった。壁の漆喰が剥がれていた。
諒は一通り見て、直せると思った。時間はかかるが、金をかければいいというものでもない。手間をかければいい。手間は、今なら持っていた。
見学に行ったのはその翌週だった。
現地に着いたのは、昼過ぎだった。
山道を車で上がっていくと、急に開けた場所に出た。集落だった。家が数軒、点在していた。どこも古い。庭が広い。畑がある。生活感はあるが、人の姿はなかった。周囲にはまだ溶け残った雪が積もっていた。
担当者の車の後ろについて細い道を入ると、物件があった。
諒は車から降りて、しばらく立ったまま眺めた。
大きかった。平屋だが、間取りがゆったりしていた。縁側が長かった。屋根の瓦がところどころずれていた。庭は荒れていた。裏手は山だった。
「どうぞ、中に」
担当者に促されて入った。
埃の匂いがした。古い木の匂いがした。歩くと床が鳴った。廊下の突き当たりから縁側越しに見える庭に、草が伸び放題になっていた。でも光は入ってきた。間取りに無駄がなかった。天井の梁が、思っていたより立派だった。
「裏山は、どこまでですか」
「えー、そうですね・・・。はい、この尾根まではすべて含まれています」
地図を広げて指した範囲は、思っていたよりずっと広かった。
「山の中に、古い祠があるんですが」
担当者が少し言いにくそうに言った。
「かなり傷んでいます。所有地の中になりますので管理は買われた方に——」
「見ていいですか」
「は?」
「祠。今日、見ていいですか」
担当者は少し間を置いてから、案内しますと言った。
祠は、石段を上がった先にあった。
石段そのものが崩れかけていて、足元を選びながら上がった。上がりきると、小さな平場があって、そこに祠があった。まだ肌寒いからか、雑草は少なかった。
屋根の木が腐っていた。柱が傾いていた。石の台座は残っていたが、その前に積まれていたはずの石が崩れて散らばっていた。長いこと、誰も来ていない場所の気配がした。
諒はしゃがんで、台座を触った。しっかりしていた。石そのものはいいものだと思った。
「これ、直していいんですかね」
「は、あー・・・。直していただけるなら、むしろ」
担当者が、また少し歯切れ悪く言った。なにか言いたそうだったが、諒は追わなかった。
ここにしよう、と思ったのはそのときだった。
祠を見ていて、そう思った。論理的な根拠は特になかった。ただ、直したいと思った。この場所を、ちゃんとした状態に戻したいと思った。それだけだった。
契約を済ませて東京に戻り、引っ越しの準備をしながら、諒はYotubeチャンネルを作った。
チャンネル名は少し考えて、「さかぐち、田舎に住む」にした。
最初の動画は、物件を決めた経緯と今後の話をぼそぼそと喋るだけのものだった。再生数は最初の一週間で二十三回だった。うち五回は自分だろうと思った。
コメントが一件ついていた。
『頑張ってください』
誰かはわからなかったが、諒はそれを読んで、少しだけ気持ちが軽くなった。
あのとき担当者が、なにか言いかけて黙ったのがなんだったのか。
それを知るのは、もう少しあとの話だ。




