第十四話「鳴いた夜」
五月になった。
田植えの季節だった。
集落の棚田に水が入って、空が二枚になった。朝の光の中で、水面が白く光った。諒はその景色をライブで流しながら、雑談していた。
コメントが流れた。
『きれいすぎる』
『いい朝ねえ』
『ネコチャンいる?』
「縁側にいます。田植えには興味ないみたいですね」
ネコチャンは縁側で山の方を向いていた。
田んぼには興味がなかった。
諒の太ももに尻尾をぺしぺしと叩きつけながら、喉をゴロゴロと鳴らしていた。
その週、集落の寄り合いがあった。
月に一度の集まりで、回覧の確認と近況報告が主な内容だったが、毎度のことながら、ほとんど飲み会のようなものであった。諒は移住してから欠かさず出ていた。
今回、話題になったのが害獣のことだった。
「今年も猪、来とらんなあ」
農家組合長の木田というおじさんが言った。
この集落の区長も兼任している人だった。
70代も半ばというところだったが、大きな体に見合う、おおらかな人であった。
「去年も来なかったし、一昨年はひどかったんやけどの」
「下野の集落は今もひどいみたいやけどな。電気柵の補助金の申請が増えてるって聞いたわ」
「うちは要らんな、なんでか」
「猟友会の方は?」
「全然獲れんらしい。ただ、尾倉の集落の若い衆と一緒に回れるようになって、罠のことも教えてやれるって言ってたな」
「若い衆って言っても60代やろがし。佐々木や木元のおんさんも歳やでなあ。いつまで続くかわからんし、鹿やら猪の数が減ってくれるのはいいことやな」
諒は黙って聞いていた。
「虻とか蚊も少ないしなあ」
「山菜取りに山入っても全然やられん。不思議なもんや」
「諒ちゃん、猟友会とか興味ないか?」
「いやいや消防団入ったばっかりやで? なんでも押しつけたらあかんて」
「そやわ、自分が鉄砲の免許取りに行ったらいいやろし」
「俺が鉄砲の免許取りに行ったら、強盗かと疑われるわ!」
寄り合いのおじさんたちの雑談と、笑い声が集落センターに響いた。
諒は昨年の秋ごろ、地元の消防団に加入した。
団員はこの寄り合いにおける、50代以下の面々とほぼイコールだった。
仕事はふた月に1度の見回りと、消防団全体で執り行う式典への出席、そして飲み会だった。
東京で会社勤めをしていた頃、全く好きになれなかった飲み会だが、不思議とここでは苦にならなかった。
納期に追われ、急な案件の飛び込みにピリつきながら飲む酒とは根本的に違うのだろう。
営業畑から異動してきた上司の1人と折り合いが悪かったことや、仕様をコロコロと変える取引先に辟易していたことなどもあるだろうが。
大学を卒業し、ホワイトカラーの職につくことが至上だと思い込むことで、あるいは自分の可能性や世界を狭めていたのかもしれないと思った。こうした田舎暮らしが自分には合っていると思った。
ふと、水道設備関係の仕事をやっている、吉岡というおじさんが諒の方を見た。
「あんたとこの猫、関係あるんかのお」
諒は少し笑った。
「どうですかね。もしかしたら、としか言えないですが」
「まあ、ありがたいことやって」
それで話が終わった。
集落の人たちはそういうところがあった。理由を深く追わなかった。ありがたいことはありがたいこととして受け取って、それでよかった。
寄り合いの帰り道、隣集落に住むおばちゃんに声をかけられた。
原木しいたけの農家で、ちょっとした家のメンテナンスのお礼に、何かとお裾分けをくれる人だった。
田中さんの紹介で知り合った仲でもある。
「坂口さんとこって、猪被害ないですよねえ」
「ないですね」
「うちの方も最近減ってきて。なんでかなと思って」
「え、そうなんですか」
「去年まではひどかったんですけど。今年の春くらいから急にねえ」
諒は山の方を見た。
裏山は、今日も静かだった。
「なんか、変わったことはありましたか」
「いや、特に。強いて言えば、たまに黒い猫が山の方にいるのを見るくらいで」
「黒い猫…」
「しゅっとした子が一匹。ゴマっていう子とは違う、もっとこう、凛とした感じの」
諒は少し止まった。
「目が、金色でしたか」
「そう!金色でびっくりした。きれいな子だなと思ってねえ」
諒は山の方をもう一度見た。
「……なるほど」
その日の夜のライブで、諒はその話をした。
「隣の集落のおばちゃんから聞いたんですが、そっちの方でも害獣被害が減ってるらしくて。黒い猫が山に出没してると」
コメントが流れた。
『ネコチャンの縄張りが広がってる!』
『影響圏が拡大してるんじゃないか』
『尻尾が増えた分、力が増した感じ?』
『隣の集落まで守り始めてるのか』
「まあ、なぜか、ですけど」
諒は縁側を見た。
ネコチャンが座っていた。山の方を向いていた。
「ネコチャン、守備範囲が広がってますよ」
尻尾が一本、パタン。
「大変じゃないですか」
尻尾が一本、パタン。
コメントが流れた。
『大変じゃないらしいw』
『頼もしすぎる』
翌日、動画のコメント欄に「yashiro_k」が現れた。
今度はライブのアーカイブではなく、拓本の動画のコメント欄だった。
内容はこうだった。
『隣接地域への影響が出始めているようですね。興味深い。龍脈の浮上が予想より早い』
諒は読んで、少し眉を寄せた。
「龍脈の浮上」
この言葉は今まで出てきていなかった。
拓本の動画で「鎮龍脈永」の文字が読めたことは公開していた。龍脈という言葉自体はコメント欄でも出ていた。
でも「浮上が予想より早い」という書き方は違った。
観察している者の言い方だった。
予想、という言葉があった。
事前に何かを計算していた者の言い方だった。
諒はスクリーンショットを撮って、さくらにメッセージを送った。
『またyashiro_kが来ました。今度は「龍脈の浮上が予想より早い」と』
しばらくして返信が来た。
『……それ、観測してる人の言い方ですね。長期間、この地を見てる人間の』
『そう思います』
『諒さん、気をつけてください』
『ネコチャンがいるので大丈夫だとは思いますが』
少し間があってから、もう一件来た。
『でも、諒さん自身の話として、気をつけてください』
諒は読んで、返信した。
『ありがとうございます』
その夜、諒は祠に供物を持って上がった。
夜の裏山に入るのは珍しかった。
昼間とは空気が違った。暗い分、音がよく聞こえた。遠くで梟が鳴いていた。足元の石段が月明かりで白く浮かんでいた。
供物を置いて、手を合わせた。
「えーと。yashiro_kってアカウントが、また来ました。龍脈の浮上を観測してる、みたいな書き方をしていて。なんか、長期間ここを見ている人間の言い方でした。ご報告まで」
頭を下げた。
「なんか、あなたにはもうわかってることかもしれないですけど」
下りながら振り返ると、ネコチャンがいた。
祠の前ではなく、奥の方を向いて立っていた。
尻尾が四本、一本も揺れていなかった。
立っている、という感じだった。座っているのではなく、立っている。
重心が前にあるような、そういう立ち方だった。
諒はしばらく見ていた。
「……ネコチャン」
振り返らなかった。
「何かありますか、奥に」
奥の暗がりは、静かだった。
何も見えなかった。
でも諒には、そこが昨日より少し濃くなった気がした。
気のせいかもしれなかった。
でも、気のせいではない気もした。
深夜だった。
諒は布団に入って、スマートフォンのコメントを確認してから目を閉じた。
山の夜は静かだった。
梟の声が、遠くから続いていた。
どのくらい経ったか。
音が聞こえた。
小さい音だった。
でも諒は、それで目が覚めた。
聞いたことのない音だった。
声だった。
猫の声だった。
「……ニャ」
諒は布団の中で固まった。
聞き間違いかと思った。
もう一度聞こえた。
「ニャアァン」
今度ははっきりと聞こえた。
諒は起き上がった。
スマートフォンを手に取った。時間は午前二時を少し回ったところだった。
声は縁側の方からだった。
立ち上がって、廊下を歩いた。
縁側のガラス戸を開けた。
ネコチャンがいた。
縁側の端に立って、山の方を向いていた。
毛並みが、少し逆立っていた。
尻尾が四本、鞭のようにビュンビュンと振られていた。
「ネコチャン」
振り返った。
金色の目が、諒を見た。
いつもより、光が強かった。
「……鳴いてましたか」
ネコチャンは諒を見たまま、動かなかった。
それからゆっくりと山に向き直った。
奥の暗がりを、じっと見ていた。
諒も同じ方向を見た。
何も見えなかった。
でも、何かがそこにいる、という感じがした。
質量のある気配だった。
これまで感じたことのある気配とは少し違った。あの奥に根を張っている何かが、ほんの少し、形を変えた気がした。
「大きくなってますか、あれ」
ネコチャンは答えなかった。
でも尻尾が一本、勢いよく、パタン。
肯定だった。強めの。
諒は縁側に座って、ネコチャンの隣でしばらく山を見ていた。
眷属たちが動いていた。
ゴマが庭の真ん中に出てきていた。白いのが縁側の反対の端にいた。納屋の方から灰色の大きいのが出てきて、門の脇に座った。
全員、山の方を向いていた。
誰も鳴かなかった。
静かだった。
でも全員、起きていた。
全員、見ていた。
「……みんな、わかってるんですね」
誰も振り返らなかった。
諒はネコチャンを見た。
「ネコチャン、鳴いたの、久しぶりでしたか」
尻尾が一本、パタン。
「それくらい、何かあった、と」
尻尾が一本、パタン。
諒は空を見た。
月があった。山の稜線の上に、白く出ていた。
「俺に、できることありますか」
しばらく間があった。
座り直したネコチャンが、諒の方を向いた。
まばたきをした。
それから、また山に向き直った。
尻尾が四本、静かに揺れた。
できることをしろ、という意味だと思った。
できることは、石碑を直すことだろうか。
まだ直っていなかった。
どこから手をつけるべきか、手をこまねいている部分もある。
「急いだ方がいいですかね」
尻尾が一本、少し強く、パタン。
「わかりました」
翌朝、諒はライブを繋いだ。
眠い目をこすりながら、コーヒーを淹れて縁側に座った。
コメントが流れた。
『おはようございます』
『おはねこ』
『今日眠そうですね』
『昨夜何かありました?』
諒は少し考えてから、話した。
「昨夜、ネコチャンが鳴きました」
コメントが止まった。
一瞬、止まった。
『え』
『鳴いた?』
『初めてじゃね』
『今まで鳴いたことあったっけ?』
「少なくとも、俺の前では初めてです。移住してから一年以上、鳴いているのを聞いたことがなかった」
コメントが流れた。
『それ、普通じゃないってことじゃないか』
『何かあったんだ』
『奥の気配、変わりましたか』
「変わった気がします。具体的にはわからないですが」
諒はネコチャンを見た。
ネコチャンは今朝も縁側にいた。
昨夜の緊張した様子はなく、いつも通りの顔をしていた。
でも山の方を向いているのは変わらなかった。
「石碑の修復、急ぎます。材料の手配を今日中にやります」
コメントが流れた。
『動いた』
『展開が早いよお』
『ネコチャンが鳴いて、諒さんに伝えたんだな』
『頼んだぞ』
ネコチャンが、一瞬だけ諒を見た。
まばたきをした。
それから山に向き直った。
尻尾が四本、ゆっくり揺れた。
その夜、さくらからメッセージが来た。
『昨夜、夢を見ました。黒い猫が山の上に立ってて、何かを見てた夢。何か、関係がある気がして』
諒は少し間を置いてから返信した。
『ネコチャンが夜中に鳴きました。たぶん関係あるんじゃないかと』
しばらくして返信が来た。
『そうですか。……石碑、早めに動いた方がよさそうですかね』
『そう思ってます。来週、さくらさんも一緒に来れますか。もう一枚拓本も取りたいし』
すぐに返信が来た。
『行きます』
深夜、もう一度コメントを確認した。
「yashiro_k」が、その日の夕方に一件残していた。
拓本の動画ではなく、ライブのアーカイブだった。
諒が「ネコチャンが鳴いた」と話した、その直後のタイムスタンプだった。
内容はこうだった。
『予定より早い。対処が間に合うかどうか』
諒は読んで、しばらく画面を見た。
「対処」
誰の対処なのか。
ネコチャンの対処なのか。
それとも、別の誰かの対処なのか。
わからなかった。
スマートフォンを置いて、縁側を見た。
ネコチャンがいた。
月明かりの中で、山を向いていた。
四本の尻尾が、静かに揺れていた。
「ネコチャン、yashiro_kが『対処が間に合うかどうか』って書いてきました」
尻尾が止まった。
一瞬だけ、止まった。
それからまた揺れ始めた。
今度は少し、速く。
「……急ぎますね」
諒は手帳を開いて、石碑修復の材料リストを書き始めた。
山の夜は静かだった。
でも、奥の方で、何かが、ゆっくりと動いていた。




