第十三話「拓本、そして和紙、あるいは年齢詐称」
四月の末にさくらが来た。
玄関先で、リュックからずっしりした包みを取り出した。
「越前和紙、買ってきました」
「あ、ありがとうございます。あの、越前和紙って結構高いから、普通の和紙にしようって、確か」
さくらが少し得意げな顔をした。
「高いです。以前も言いましたけど、拓本には正直もったいないくらい。でも」
「でも?」
「諒さん、YouTuberじゃないですか。地元の特産品使ってますって言える方が、動画的にいいかなと思って」
諒は少し考えた。
「それは……確かに」
「越前和紙、海外にもファンがいるんですよ。チャンネルの視聴者に外国の方もいるし、PR的にもいいかなって」
「さくらさん、頭いいですね」
「一応、大卒で学芸員なので」
さくらが笑った。
諒はライブのカメラを回し、和紙の包みに向けた。
「こんにちは。ええと、これから、越前和紙で拓本を取りに行きます。高級品なのでちょっと緊張しますが、地元の特産品を使うということで。後で越前和紙についても少し紹介しようと思います」
『こんねこー』
『さくらちゃんもいるのか』
『専門家ネキおっすおっす』
『お、越前和紙使うの?』
『有名な画家が使ってなかったっけ?』
『横山大観な』
『誰?』
『↑さすがに義務教育ろせ』
コメントが盛り上がっていた。ありがたいことだ。
裏山に上がる前に、道具を確認した。
越前和紙、墨、タコ糸、柔らかいブラシ、それから石碑の表面を清める用の水と布。
さくらが「大学の実習では磨いてから取りましたよ」と言った。
「どのくらい磨くんですか」
「表面の余分な汚れを落とす程度で。石そのものは削らないように」
「なるほど。まず状態を確認してから、ですね」
カメラを首から下げて、二人で石段を上がった。
ネコチャンが後ろからついてきた。
気配で気づいて振り返ると、三段下にいた。
「今日は来るんですか」
「ネコチャンも来てくれるんですか!? やった!」
尻尾が一本、パタン。
やれやれ、と言った感じで、前足をぺろぺろと舐めていた。
『ネコチャンかわいい』
『さくらちゃんかわいい』
『ねこください』
『↑ふざけんな』
平場に出ると、石碑はそこにあった。
先週より、傾きが増した気がした。
「また少し傾いてる気がする」
「雪解けの地盤の緩みで、少しずつ動いてるんじゃないですかね」
そうなのだろうか。
さくらが石碑の周囲を歩いた。
諒はカメラを向けながら説明した。
「今日は越前和紙を使って拓本を取ります。石碑の表面に彫り物があるんですが、苔と風化で読めない状態です。拓本を取ることで、彫り物の輪郭が出てくるはずです」
コメントが流れた。
『楽しみ〜』
『ネコチャンも来てる』
『現場監督かな?』
「ネコチャンも来ました。監修してもらいます」
ネコチャンは石碑の横に座って、表面を見ていた。
監修というより、監査に来た顔をしていた。
まず表面の清掃から始めた。
柔らかいブラシで苔を落とし、湿らせた布で表面を拭いた。
「乱暴にやると石が欠けるので、ゆっくり」
カメラに向けて説明しながら作業した。
苔が落ちると、彫り物の輪郭がはっきりしてきた。
「あ、これ」
さくらが顔を近づけた。
「字、ですね。やっぱり」
「読めますか」
「ここが……『鎮』かな。たぶん。あとここ、『龍』に見える。縦書きで右から読む感じで」
諒はカメラを表面に向けた。
コメントが流れた。
『確かに鎮っぽい』
『龍の字に見える』
『拓本取ったらもっとはっきりするかも』
和紙を石碑の表面に当てた。
タコ糸で固定して、表面に沿って貼り付けた。
さくらが和紙の上から墨を含ませたブラシを当てた。軽く、均一に。
「力を入れすぎると破れるので」
「高級品なので緊張しますね」
「大丈夫です。越前和紙、丈夫なので」
しばらく作業が続いた。
山の中は静かだった。鳥の声がした。風が木々を揺らした。
墨が和紙に移るにつれて、白い部分が浮かび上がってきた。
彫り物の形が出てきた。
「……あ」
さくらの声が変わった。
諒もカメラを向けたまま、少し息を止めた。
字だった。
縦に並んだ、古い字体の文字が、和紙の上に浮かんでいた。
風化して欠けているところもあったが、輪郭は読める。
「右から……鎮、龍、脈……この字は」
さくらが眉を寄せた。
「永、かな。鎮龍脈永……あとはここが読めない。欠けてる」
「鎮龍脈永」
諒は繰り返した。
コメントが流れた。
『龍脈を鎮める』
『永久に、ってことじゃないか』
『要石じゃん完全に』
『これ、ちゃんとした意味のある石碑だったんだ』
ネコチャンが、石碑の前で静かに座っていた。
尻尾が四本、ゆっくり揺れていた。
和紙を丁寧に外して、平らな場所に広げた。
「きれいに取れましたよ」
さくらが、少し達成感のある顔で言った。
諒はカメラを向けた。
「越前和紙、丈夫で使いやすかったです。さすが。墨の乗りもいい」
コメントが流れた。
『越前和紙PR成功』
『初の案件動画』
『初ってことはないだろ。工具とか食関係もやってたし』
『地元産業への貢献』
「後で越前和紙の歴史と産地の話も動画にしようと思います。せっかくなので」
さくらが少し笑った。
「ちゃんとPRしてますね」
「一応、YouTuberなので」
山を下りてから、縁側で拓本を広げた。
ライブのカメラで映しながら、コメント欄の考察が動き始めた。
『鎮龍脈永、この四文字が核心じゃないか』
『龍脈を鎮めて永く保つ、という意味だと思う』
『いつ頃建てられたものか、字体から推測できる人いますか』
『欠けてる部分に何が書いてあったかが気になる』
民俗学に詳しい古参視聴者からコメントが来た。
『字体から見ると江戸以前の可能性があります。ただ下の方の欠けた部分に人名か地名が入っていた可能性があります。誰が何のために建てたのか、そこが重要かもしれません』
諒は読み上げながら、拓本を見た。
欠けた部分は、石碑の左下あたりだった。
「もう少し清掃したら、もう少し読めるかもしれないですね」
さくらが横から覗き込んだ。
「次来るとき、もう少し丁寧に表面の清掃をしてから、拓本をもう一枚取ってみましょうか」
「お願いします」
その夜、ライブを続けながら諒はコメントを読んでいた。
拓本の話題で盛り上がっていたところに、一件流れた。
アカウント名は「yashiro_k」だった。
『解読が進んでいるようですね。石碑の左下部分には施工者の名が入っていると思われます。掘り起こさない方が賢明です』
諒は読んで、止まった。
さくらが隣でコメント欄を見ていた。
「この人、また来た」
「知ってる人ですか」
「知らないです。でも先月も来て。石碑のことを知ってて、触るなって言ってくるんですよね」
さくらが少し眉を寄せた。
「掘り起こすな、じゃなくて解読するな、ってことですよね」
「そう読めますね」
コメント欄が動いた。
『またこの人だ』
『何モンだよまじで』
『石碑のこと、どこで知ったんだ』
『諒さんの動画見てるとしても詳しすぎるだろ』
『施工者の名、って知ってるの変じゃないか?』
諒は少し考えてから、カメラに向かって言った。
「このコメントについては、ちょっと様子を見ます。何者かわからないので」
コメントを取り上げて騒ぎにするより、記録しておく方がいいと思った。
ライブを終えてから、スクリーンショットを撮った。
さくらが帰り際に靴を履きながら、ふと振り返った。
「諒さん、聞いていいですか」
「どうぞ」
「いま、おいくつでしたっけ」
「年齢ですか? 四十二です。先月誕生日で四十三になりました」
さくらが、少し不思議そうな顔をした。
「……そうですよね」
「何か」
「いや、あの」
さくらが言いにくそうにした。
「最初に会ったとき、三十代前半かと思ってました。今も、なんか、若く見えるなと思って」
諒は少し間を置いた。
「それ、最近よく言われるんですよね」
「え、そうなんですか」
「移住してから、なんか若く見られることが増えて。田舎暮らしが体にいいのかなとか、紫外線が少ないのかなとか、思ってたんですが」
さくらがネコチャンを見た。
ネコチャンは縁側で諒の隣に座って、山の方を向いていた。
「……そうですね。田舎暮らしのせいかもしれないですね」
さくらの言い方が、少し含みがあった。
諒は気づかなかった。
「移住してから体の調子はいいですよ。夜もよく眠れるし、体重は変わらないですけど、筋肉がつきました」
「それは確かに、いいことですね」
さくらが外に出てから、もう一度振り返った。
「また来ます。次は拓本のリベンジで」
「ありがとうございます。気をつけて」
さくらの姿が集落の道に消えてから、諒はネコチャンを見た。
「俺、若く見えるらしいですよ」
ネコチャンが横目でこちらを見た。
まばたきをした。
「……まさか、あなたのせいですか」
尻尾が一本、パタン。
「それ肯定ですか否定ですか」
尻尾が一本、パタン。
「うーん、わからん」
ネコチャンは山の方に視線を戻した。
四本の尻尾が、夜の空気の中で、ゆっくり揺れていた。
その夜遅く、諒は拓本をもう一度眺めた。
「鎮龍脈永」
龍脈を鎮めて、永く保つ。
誰かが、この山に、それを目的として石碑を建てた。
いつ。
誰が。
欠けた左下に、その答えがあるかもしれなかった。
yashiro_kは「掘り起こさない方が賢明」と言った。
施工者の名を知っていると示唆した。
「掘り起こすな」ではなく「解読するな」と言った。
名前を隠したい、のではなく——
読まれると困る何かが、そこにある。
諒はスマートフォンを閉じた。
相手の真意はわからない。
ただ、次にさくらが来たとき、もう一枚拓本を取ってみようと思った。
左下を、丁寧に。




