第十話「雪解けと、来る春と」
三月の終わりに、雪が解けた。
一気に解けた。前日まで庭の片隅に積まれていた雪が、三日間の雨と気温上昇でほぼ消えた。福井の山間の春はそういうものらしかった。劇的だった。昨日までところどころ白かった庭が、一晩で地面の色に戻っていた。
諒は縁側に出て、久しぶりに見る土の色を眺めた。
ネコチャンが隣に座っていた。金色の目で庭を見ていた。
「春ですよ」
尻尾が一本、パタン。
「やっと、ですね」
縁側の猫たちが全員外に出てきた。ゴマが庭の真ん中に陣取って、日向ぼっこを始めた。白いのが縁側の端に座った。耳の欠けた灰色の大きいのが門の脇でのびをした。みんな、冬の間納屋に閉じこもっていたのが嘘みたいに、それぞれの定位置に戻っていた。
諒はカメラを回した。
「雪解けました。猫たちも全員出てきました。今日は久しぶりにちゃんと全員集合です」
ライブのコメントが流れた。
『やっと春だ』
『猫たち元気そう』
『ゴマの日向ぼっこ最高』
『ネコチャンの尻尾、今日も三本ですね』
「三本ですねえ。猫又っていうには多いような」
『今更かよwww』
『考察班が色々と文献とか調べてたな』
『なんかわかったの?』
『結論:詳細不明』
『何じゃそりゃw』
なにもわからなくても、ネコチャンは元気そうだし、日々は平和だ。
それでいい。
午前中のライブを終えてから、諒は裏山に向かった。
カメラを持った。ライブではなく録画だった。こういう探索系の動画は、後で編集してからアップする方が見やすかった。
石段は、雪が解けて地面が露出していた。苔が濡れていて滑りやすかった。慎重に上がった。
祠は、無事だった。
冬の間、何度か雪かきに来ていたが、改めて見ると屋根も柱も問題なかった。自分で直したものだったから心配だった。ちゃんと冬を越していた。
「祠、無事です。冬越えました」
手を合わせてから、その先に進んだ。
祠の脇を抜けて、奥に入る道。去年の秋に一度入ったきりだった。冬の間は雪で埋まっていて、大層大変な思いをした。
落ち葉が積み重なっていた。雪解け水が地面に染み込んで、足元が柔らかかった。木の枝が頭上を覆って、光が細かく差し込んでいた。
五分ほど歩いて、平場に出た。
石碑は、そこにあった。
冬を越しても、そのままだった。当然だったが、諒は少し安心した。古木の根元に、石碑が斜めに傾いている。表面は苔と風化で覆われていて、何か彫られているのはわかるが内容は読めない。
「また来ました。冬の間、なかなか来られなくて」
カメラを石碑に向けた。
「今日は全体の状態を確認しようと思います。春になったら、ちゃんと調べたいと思ってたので」
石碑の周囲を歩きながら撮影した。傾き具合、根元の土の状態、表面の彫り物の残り具合。去年の秋より、少し傾きが増した気がした。気のせいかもしれなかった。
「傾いてますね。土台の石が、ここのあたりが沈んだのかな」
かがんで足元を確認した。根元の土が、雪解け水で柔らかくなっていた。
気配を感じた。
秋に感じたものと、同じ種類のものだった。
見られている感じ。視線ではなく、気配。圧力に近い何かが、確かにそこにあった。
「……どうも。また来ましたよ」
言ってから、少し考えた。
何に向かって言っているのか、自分でもよくわかっていなかった。石碑に向かって言っているのか、それとも気配の方に向かって言っているのか。
どちらでもあるような気がした。どちらでもないような気もした。
しばらくそこにいた。
気配は、薄れなかった。
去年の秋より、少し濃い気がした。
山を下りてから、撮影した映像を確認した。
石碑の表面を撮ったカットを拡大した。
彫り物の輪郭が、かろうじて見えた。
右端に、縦に並んだ何かがあった。字かどうか、この画質ではわからなかった。
「……これ、なんか書いてあるな」
夜の編集作業の中で、そのカットだけ時間をかけた。コントラストを上げて、彫り物の輪郭を浮かび上がらせた。
それでも読めなかった。
アップした動画のコメント欄に、翌朝これが上がっていた。
『拓本とってみてはどうでしょう。和紙と墨があれば、彫り物の跡が出ます』
諒は読んで、なるほどと思った。
その週の土曜日、さくらが来た。
田中さんから「孫が初出勤前の春休みで暇そうにしてる」という情報が入って、来るなら来ていいと伝えていた。
午後の縁側でライブをしているところに、さくらが来た。
「こんにちは」
「あ、どうぞ。ちょうどライブ中です」
さくらはカメラの存在に一瞬固まってから、会釈した。
コメントが流れた。
『誰か来た』
『この人誰?』
『近所の家の人?』
「集落の方のお孫さんです。えー、お名前はさくらさん」
さくらが「よろしくお願いします」と言った。声が少し緊張していた。
『かわいい』
『なんだ、ニキも隅におけんな』
『若え』
『どういう関係!?』
『ネコチャン、反応してる』
ネコチャンが縁側から立ち上がって、さくらの方に歩いていった。さくらの足元で立ち止まって、鼻先でくんくんと嗅いだ。
さくらがしゃがんで、ネコチャンに手を差し出した。ネコチャンは匂いを確認してから、さくらの手に頭を押し付けた。
諒は少し目を丸くした。「以前」よりも懐いているような。
「あれ、珍しい」
「えっ」
さくらが顔を上げた。
「ネコチャン、俺以外にはあまりそういうことしないんですよ」
コメントが流れた。
『本当だ、珍しい』
『どういう関係なのおおお!?おじさんに教えて!?!?』
『おっさん落ち着け』
『女だが私も気になる!なんでネコチャンが!?』
『そっちかよ。俺も気になるけど』
『ネコチャンに認められた人?』
『なんで懐いてるの?』
さくらは少し困った顔をした。
「ええっと、なんでだろう」
その言い方が、少し白々しかった。
諒はあえてコメントしなかった。
事は、去年の夏に遡る。
あれは、移住して最初の夏だった。
七月の終わりで、山の上まで蝉が鳴いていた。
縁側で作業をしていたら、集落の入口の方に人影が見えた。観光客にしては荷物が少なかった。地元の人間にしては見覚えがなかった。
若い女性だった。麦わら帽子をかぶって、リュックを背負って、細い集落の道をこちらに向かって歩いてきた。迷っている感じではなかった。目的地がここだと知っている歩き方だった。
諒は回していたカメラを止めて回収し、声をかけた。
「あの、どちらに?」
女性は立ち止まって、諒を見た。何かを探すようなそぶりを見せ、少し間があった。
「えっと……坂口さんのお宅ですか」
「そうですが」
「よかった。辿り着けました」
そう言って、彼女は少し息をついた。安堵というより、驚いた顔をしていた。
諒は縁側から立ち上がった。
「どこから来られたんですか」
「福井市内です。ちょっと遠いですけど」
「それはわざわざ。あの、どういった」
女性はリュックを下ろして、少し改まった様子で言った。
「去年、相談に乗っていただいて。コメントで」
諒は少し考えた。去年の相談は何件かあった。
「えーと」
「大学の寮で、夜中に物音がするって。それで、祠にお願いしてもらって、解決した」
そのコメントは覚えていた。確か、深夜に何度も続く物音で眠れない、という内容だった。解決したあとにお礼のコメントをもらった。
「ああ。あのときの人ですか」
「はい。お礼が言いたくて、その、ずっと思ってたんですが」
なるほど、視聴してくれている人だったか、と思い至る。先ほどはカメラが回っていないか探っていたのかもしれなかった。
女性は続けた。
「動画を見てたら、この辺の風景が祖母の家の近くに似てて。もしかしてと思って、今年の夏休みに思い切って来てみました」
「お祖母さんって、もしかして田中さん?」
女性が目を丸くした。
「知ってるんですか」
「いつも山菜とか、スイカとか、おすそわけをいただいてて。お世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ」
「そんなそんな、本当に」
しばらく二人で沈黙した。
「その、せっかく来てもらったので、お茶でも。えっと、ネコチャンも、会いますか」
女性の表情が、ぱっと変わった。
取り繕うより早く、変わっていた。
「会いたいです、ぜひ」
ネコチャンはその時、縁側にいた。
女性が近づいて、しゃがんで、手を差し出した。
ネコチャンは一瞬だけ鼻先で匂いを嗅いで、それからペロリとひと舐めした。
諒は少し驚いた。来客があったとき、ネコチャンはたいてい気配を消した。その場にいても近づかなかった。それがこの反応だった。
「珍しい」
思わず声に出したら、女性がこちらを振り向いた。嬉しそうだった。隠す気がないくらい、嬉しそうだった。
「えーと、お名前、聞いてもいいですか」
「さくらです。田中さくら」
ネコチャンが尻尾を擦り付けるように、さくらの側を通り抜けた。
尻尾が三本、ゆらゆらと揺れていた。
そういう出会いだった。
それから何度か夏休みに来た。秋にも来た。今年の春、福井市内の博物館に学芸員として赴任が決まったと連絡が来た。田中さんから聞くより先に、さくら本人からメッセージが来た。
この時、さくらは24歳。新卒としては年齢が合わない。
実は、元々は商業高校から公立の4年制大学経営学部に進学し卒業したのだが、夢であった博物館学芸員となるため、専門課程を履修できる特殊なコースで1年と少々学び直したのだという。
「だから新卒の中では1番年上で」
そう、はにかみながら教えてくれたのだった。そうした話を打ち明けてくれるほどには親しくなった、と言い換えてもいいかもしれない。
だから今日、こうして縁側にいる。
「なんでだろう」と白々しく言ったさくらの横で、ネコチャンが頭を押し付けていた。
コメントが流れる。
『それより顔出ししていいのか?』
『名前まで出してるし』
『流石にまずいでしょ』
当然の指摘だった。だが、うちの場合は事情が異なる。
苦笑しながら諒がコメントした。
「普通はそうなんですけど。うちにはネコチャンがいますし。まあこれだけ懐いていたら、ね」
さくらが縁側に腰を下ろして、ネコチャンが隣に座った。
膝に顎をのせてくつろいでいる。
『あーね』
『それもそうか』
『これはちょっかいかけようとした瞬間終わるww』
『凄まじい説得力』
『めちゃくちゃ懐いてるじゃねーか』
『これには納得』
一気にコメントが大人しくなった。
ライブを続けながら、諒は裏山の話をした。
「それで、今週、奥の石碑を確認してきたんですが。動画に撮ったんで後でアップします。彫り物があるんですが、読めなくて。拓本を取ってみようかと思ってます。今日は改めてその下見ですね」
「拓本、私もやったことあります」
さくらが言った。
「大学のとき、専門の授業で。和紙と墨ですね。それとわたし、この手のことが専門なので!」
「そうなんです。実はさくらさん、コメントで教えてもらった拓本のためにお呼びした専門家、地元博物館の学芸員さんなんです」
「歴史の楽しさをお伝えするため、そして貴重な資料を入手するため、博物館にも特別に許可をいただいての出演です」
そういう話でまとめた。
もちろん嘘ではない。
うら若き女性がいきなり田舎暮らしを配信する中年男の動画に登場するなど、同じくYouTuberをやっている、といった事情がない限り中々あることではない。
そのため、博物館側にも許可を取りつつ堂々と出演するという手の回し様であった。
暇だったから、とか、すべてはネコチャンと触れ合うため、という理由はどうかと思うが。
「調査結果は博物館、つまり県に報告する条件で許可が降りたんですっけ?」
「その通りです。大学の研究者の方なんかも興味津々のようなんですけど、えっと、その、辿り着けないみたいで」
「あー……」
諒は思わず苦笑してしまった。
ネコチャンを見るが、さくらの膝の上で毛繕いに夢中のようであった。
『特派員やね』
『まさに選ばれしもの』
『これで重要な発見とかあったらすごい功績になるんじゃ』
『まあ先行研究くらいありそうだけどな』
『そんな夢のないこと言うなよ』
コメントも盛り上がっていた。
「えっと、気を取り直して。和紙と墨でしたね。どんなものを使えばいいんでしょうか」
「ずばり、越前和紙があるじゃないですか、特産品の」
諒は少し間を置いた。
「そうか。地元のやつが使えますね」
コメント欄が動いた。
『越前和紙で拓本!?』
『福井らしい』
『いや高いだろ。高級品なんじゃない?』
『調べたが、こういう用途に使える値段じゃねえ』
「あはは、そうですね、冗談です。越前和紙は流石に高いので、ホームセンターで普通の和紙と墨汁を買いましょう」
「……まんまと騙されるところでした」
揶揄われるのなんていつぶりだろうか。43歳のやることではないが、ちょっと拗ねた風を出しつつ、ライブを終えるのだった。
その後、さくらと二人で裏山に上がった。
カメラは持っていったが、録画だけにした。
石段を上がって、祠の前を通った。さくらが祠の前で立ち止まった。
「きれいになってますね」
「修繕してから一年以上経ちますけどね」
「最初の動画、見てました。すごく丁寧な修繕で」
褒められたことに、少し恐縮し、大いに照れながら目的地へと向かった。
祠の脇を抜けて、奥に入った。さくらはカメラを持った諒の少し後ろをついてきた。落ち葉を踏む音がした。
平場に出て、石碑が見えた。
さくらが立ち止まった。
「あ」
「見た感じ、どうですか」
さくらはしばらく石碑を見ていた。周囲を歩いて、表面に近づいて、首を傾けた。
「下見の段階ですけど。字、ですね。絶対」
「読めます?」
「ここ、『鎮』に近い形が……。あとここは、なんだろう。龍、に見えなくもない」
諒はカメラを石碑の表面に向けた。
「拓本、早めに取った方がいいかもしれないですね。風化してるので」
「そうですね。拓本が取れる状態なのは分かったので、次来るとき、和紙とか必要な道具とか持ってきます」
さくらが申し訳なさそうに続けた。
「すみません、今日のうちに必要なものを用意しておけば、二度手間にならずに済んだのに」
「いえいえそんな、急な話でしたから。それにやはり、下見をしておくのは重要でしょうから」
そうして二人でしばらく石碑の前にいた。
気配は、今日もあった。
さくらはそれを感じているのかいないのか、表情からはわからなかった。
「なんか……」
さくらが、小声で言った。
「ここ、居心地が悪い感じがします。上の方から、なんか」
諒は少し驚いた。
「俺にはよくわからないんですが、なんかありますか」
さくらが首を振った。
「なんか、ここ以外の場所から。うまく言えないんですけど」
ネコチャンがいつの間にかいた。
平場の端に座って、石碑よりさらに奥の方を向いていた。
じっと、見ていた。
尻尾が三本、一本も揺れていなかった。
さくらはネコチャンを見たことで、いくらか気分が和らいだようだった。
山を下りてから、諒は編集作業をしながらライブをした。
今日撮った石碑の映像を流しながら、さくらが指摘した箇所を視聴者に見せた。
「ここ、鎮に見えるって言ってもらったんですが。どうですか」
コメントが動いた。
『確かに鎮っぽい』
『右端のこれが龍?』
『拓本早くやってほしい』
『何かを抑えてるものだと思う』
『諒さん、ネコチャンが奥を見てたのが気になる』
「ネコチャン、奥の方見てましたね。石碑より、もっと奥を」
『あそこより奥に何かあるんじゃないか』
『ネコチャンが警戒してる感じだった』
諒は縁側を見た。
ネコチャンがいた。山の方を向いて、座っていた。
春の夕暮れの中で、黒い毛並みが金色に縁取られていた。
尻尾が三本、静かに揺れていた。
「ネコチャン」
振り返らなかった。
でも耳が、こちらに向いた。
「あの奥、また行ってみます。今日は下見だけでしたけど、今度はちゃんと調べます」
尻尾が一本、ゆっくり、パタン。
コメント欄が静かに流れた。
『春が来たね』
『ニキにもな』
『よせやい』
『ネコチャン、ずっと待ってたのかな』
窓の外、山が夕暮れの中に沈んでいった。
その奥に、何かがいた。
まだそこにいた。
ずっと、そこにいた。
若い女性が登場=ヒロイン
とは限りません。




