第一話「いつもの朝に、尻尾が五本」
初投稿です。
目が覚めると、足元が重かった。
坂口諒は、ああ朝か、と思いながら薄目を開けた。築八十年超の古民家の梁が、朝の青白い光の中に浮かんでいる。どこかで鳥が鳴いている。山の朝は音が違う。街の騒音が遠くなってから二年と少し、ようやくそのことが当たり前になってきた。
足元の重みは動いていた。
正確には、重みのくせに気配が薄い。いるのかいないのか、いるんだけどいないみたいな、そういう存在感のなさが特徴だった。諒はのそりと起き上がって、布団の裾を見た。
黒猫がいた。
真っ黒だった。光を吸うみたいな黒さで、金色の目だけがこちらを見ていた。尻尾が五本、布団の上にぶわりと広がっていた。毛並みがいいので、まるで黒い扇みたいに見えた。
「おはようございます、ネコチャン」
返事はなかった。金色の目がゆっくりまばたきをした。尻尾のうち一本が、パタン、と動いた。
それがネコチャンの朝の挨拶だった。
諒が顔を洗って台所に立つと、縁側のガラス戸の向こうにいくつかの影があった。白いの、茶トラ、ぶち、もう一匹茶トラ——この子はゴマという名前でコメント欄がそう呼び始めたのでそのまま定着した——、それから耳の欠けた灰色の大きいやつ。みんな好き勝手な方角を向いて座っていた。朝の縁側は彼らの指定席だった。
諒は湯を沸かしながら、米を研いだ。窓の外は山だった。杉と広葉樹が混ざって、空がこぢんまりしていた。この家を買ったとき、東京の友人に「なんで広大な裏山つきの家がそんな値段で売ってるんだよ」と聞かれた。いくつか理由はあったが、うまく説明できなかった。まあ、来てみたらわかるよ、と言ったら友人は首を傾げていた。
なぜか、なかなかたどり着けないらしいが、彼なら大丈夫だろう。
米を炊く間に、スマートフォンを開いた。チャンネルの通知が何件か来ていた。昨夜アップした動画——裏手の石段を補修する様子を撮ったやつ——に、朝のうちにもうコメントがついていた。
『DIYの工程説明が毎回神がかってるわね』
『モルタルの練り方ここで覚えました!』
『ネコチャン映り込んでる!3:42あたり』
『ねこください』
『↑チャンをつけろよデコ助野郎』
『尻尾また増えてません??』
諒は3:42を確認した。たしかに端っこにいた。映ってること本人は知っているのか知らないのか、相変わらず判然としなかった。
コメントをスクロールすると、昨夜遅くに投稿されたものが一件あった。
『夜中から家の中がずっとおかしい気がして眠れないです』
諒は少し考えてから、返信を打った。
『ご不安のこと、読みました
ほな、祠にお願いしておきますね〜
お供物持っていきます』
送信して、スマートフォンをポケットにしまった。
朝飯のあと、諒はカメラを持って裏山に向かった。
石段を上がっていくと空気が変わった。冷たいというより、静かな感じがした。足元の石は自分で積み直したやつで、まだ新しい。二年前はここ全体が荒れ放題だったのが、今ではそれなりに通れる道になっていた。DIYというか、もはやただの山の整備だった。
祠は石段の上にあった。
小さい。大人がしゃがんでちょうどいいくらいの、こぢんまりした祠だった。屋根は自分で板を切って葺き直した。柱も腐っていたのを取り替えた。石の台座はもともとあったものをそのまま使っている。古いものは古いものとして残す、というのが諒の修繕の基本方針だった。
諒はリュックから小皿と紙袋を取り出した。塩、水、それから今日は煮干しも持ってきた。皿に並べて、手を合わせた。
「えーと」
諒は特定の宗教の作法を知らなかった。だから毎回なんとなくだった。
「昨夜コメントくれた人が、家の中がおかしいって言ってて。なんか、よろしくお願いします」
それだけ言って、頭を下げた。
カメラは回していた。こういうやつもたまにアップする。「祠のお供え動画、なんか好き」というコメントが意外とつくのだった。
帰り道、石段を下りながら振り返ると、祠の前に黒い影があった。
ネコチャンだった。いつ来たのか、わからなかった。ついてきた気配もなかった。ただそこにいた。金色の目で祠を見ていた。
尻尾は——五本、ゆっくり揺れていた。
諒はしばらく見ていたが、ネコチャンはこちらを振り返らなかった。
「じゃあ、よろしく」
なんとなくそう言って、諒は家に戻った。
その日の夜のライブ配信中、昨夜のコメント主からスパチャが来た。
『なんか昼過ぎから急に落ち着きました
ありがとうございます
お礼が言いたくて』
金額を見て、諒は少し目を丸くした。
「え、こんなに。・・・ありがとうございます」
コメント欄は既に騒がしくなっていた。
『まーた解決したw』
『即解決定期』
『ネコチャンが仕事してるんだよなあ絶対』
『祠に頼むと「なぜか」解決するのほんますこやか茶W』
『さかぐちさん本人がいちばん何もわかってないの草』
諒はコメントを読みながら、縁側を見た。
ネコチャンが戻ってきていた。今は諒の隣に座って、山の方を向いていた。何を見ているのか、わからなかった。
「ネコチャン、今日もお疲れ様です」
返事はなかった。
尻尾が一本、パタン、と揺れた。
それでよかった。




