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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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偽りの音に咲く薔薇

作者: なみゆき
掲載日:2025/11/02

【黒薔薇シリーズの短編第三弾】

第1弾:石の上に咲く薔薇

第2弾:父の墓に咲く薔薇


今では、誰も足を踏み入れない建物がある。 音楽院と呼ばれ、音楽家を育てた場所だ。

そんな音楽院の奥に眠る、ひとつの譜面から始まる。 それは、ある兄弟の絆と、命を懸けて残された真実。

 王都の外れに、ひっそりと佇む建物がある。

かつては音楽院と呼ばれ、貴族の子弟が通い、王宮の晩餐会を彩る音楽家を育てた場所だった。

今では、誰も足を踏み入れない。

風が吹くたび、軋む扉が鳴る。

その音は、まるで過去の栄光が自らを嘲笑っているようだった。




エリス・レイノルズは、その扉の前に立っていた。

黒薔薇色の外套が、夜の風に揺れている。

彼女はしばし無言で建物を見上げ、そして静かに手を伸ばした。

扉を押すと、軋む音が響いた。

それは、誰かのため息のようでもあり、長く閉ざされていた記憶が目を覚ます音のようでもあった。

 


黒薔薇商会――表向きは貿易商だが、その実態は復讐と裁きを担う秘密組織。

エリスはその若き女主人として、ある名を追っていた。

帳簿に記されていた“エルヴァン財団”。


その名が、この音楽院の奥に眠る何かと繋がっていると、彼女は確信していた。



建物の中は、まるで時間が止まってしまったかのように、ひっそりと静まり返っていた。

誰かが最後に音を奏でてから、どれほどの月日が流れたのだろう。

割れた窓から差し込む午後の光が、舞い上がる埃を照らしている。

その光は、かつてここで響いていた音楽の残響を、ほんのわずかに呼び起こすようだった。



練習室の壁には、薄く残った音符の書き込みがあった。

誰かが鉛筆で走り書きしたものだろう。

消えかけた線が、今もなお消えずに残っている。

それは、ここで過ごした誰かの時間が、まだこの場所に留まっている証のようだった。



エリス・レイノルズは、足音を忍ばせながら奥へと進んだ。

外套の裾が床をかすめるたび、微かな音が響く。

それすらも、この静寂の中では異物のように感じられた。



彼女の目的は、地下室――音楽院の記録保管庫。

階段を下りると、空気が変わった。

冷たく、湿っていて、肌にまとわりつくような重さがあった。

まるで、この場所だけが過去の息を潜めて、今もなお何かを守っているかのようだった。



棚の隅に、ひとつのヴァイオリンが横たわっていた。

埃をかぶり、弦はすでに切れている。

木の表面には、無数の細かな傷が刻まれていた。

けれど、それでも――いや、それだからこそ、誰かがこの楽器を大切にしていたことが、ひと目でわかった。

楽器というものは、持ち主の手の温もりを吸い込む。

どれだけ時が経っても、それは消えない。

このヴァイオリンにも、かつての持ち主の想いが、まだどこかに残っているようだった。



その奥に、ひとつだけ異質なものがあった。

まるで「見つけないでくれ」とでも言いたげに、壁の一角にひっそりと埋め込まれた金属板。

周囲の古びた石材とは明らかに質感が違い、そこだけが時間の流れから切り離されているように見えた。


エリスは足を止め、無言でその違和感に目を凝らした。

何かがある――そう思った。 それは理屈ではなく、身体の奥底で鳴る警鐘のようなものだった。



彼女は手袋を外し、指先で金属の縁をなぞる。 冷たさが皮膚に伝わる。

そして、カチリ――という乾いた音がして、壁の一部がわずかに開いた。

現れたのは、小さな金庫だった。 中には、一冊の譜面が収められていた。



古びた紙に記された音符は、どこか不自然だった。 旋律としては破綻している。

だが、エリスはすぐにはその意味を読み取れなかった。

ただ、胸の奥に、何かがざわついた。 それは、音ではなく、沈黙が語りかけてくるような感覚だった。


「……何かあるわね」



彼女は譜面を丁寧に巻き、外套の内ポケットに収めた。

その場では意味を読み取れなかったが、直感が告げていた。

これは、ただの楽譜ではない。 誰かが、何かを隠した。

そして、それは音楽という形を借りて、今も語ろうとしている。




 * **


黒薔薇商会本部は、王都の商業区から少し離れた静かな通りにある。

表向きは貿易商として、様々な商品を扱う店構え。

だが、奥にある書庫と地下の調査室こそが、この商会の本領だった。



エリス・レイノルズは、譜面を手に、情報屋アランの部屋を訪れた。

彼は商会の中でも特に情報収集に長けた人物で、かつエリスと同様マスレイン収容所に収容されていた元囚人である。



譜面を机に置きながら、エリスは言った。


「何かが隠されている気がする。調べてくれる?」


数時間後、アランは報告を持ってきた。


「これは……音楽に偽装された資金記録だ。 音符の並びが、口座番号、送金日、金額を示している。 王宮財務局の印章も確認できた。 送り主は官僚長官、セバス・ローデック。  そして、譜面の所有者の名は――ヴィクトル・グレイ」



エリスは報告書を受け取りながら、目を細めた。 その瞳には、鋭い光が宿っていた。


「ヴィクトル・グレイ……ユリウスの兄。 そしてセバス・ローデック……表向きは温厚な老官僚」


言葉の端に、わずかな皮肉が滲んだ。


だが、それ以上は語らなかった。

この譜面が語るものは、音楽ではない。

それは、沈黙の中に埋め込まれた告発だった。



 * **


ユリウス・グレイ――王都音楽院が誇る天才ヴァイオリニスト。

だが、彼の音楽の原点は、華やかな舞台でも、裕福な家柄でもなかった。

むしろ、音楽だけが彼を支えていた。



幼い頃に父を亡くし、家計を支えたのは年の離れた兄――ヴィクトル・グレイ。

兄は音楽院の会計員として働きながら、ユリウスの才能を信じ、惜しみなく支え続けた。

楽器も、授業料も、舞台衣装も――すべてが重荷だったはずなのに、兄は一切の妥協をせず、彼を一人前の音楽家に育て上げた。



そして、ユリウスが王宮の舞台に立った年のことだった。


兄――ヴィクトル・グレイは、“事故死”として処理された。


だが、遺体には争った痕跡が残されていた。

それを見たユリウスは、胸の奥に冷たい疑念を抱いた。

兄は本当に、ただの事故で命を落としたのか。

それとも、何かを知ってしまったがゆえに、消されたのか。



兄の遺品の中に、一枚の譜面があった。

それは、音楽とは呼べないものだった。

旋律は破綻し、調和もなかった。

だが、音符の並びは、資金の流れを記した“告発”だった。


リリアナ、ラウル、エルヴァン公爵――王都の名だたる貴族たちの名が、そこには記されていた。

裏金の記録。  それは、兄がユリウスだけに託した、最後の手段だった。



ユリウスは、兄の死について彼らに問いただした。


だが、その直後だった。 彼は音楽界の表舞台から、忽然と姿を消した。

「精神錯乱による療養が必要」――そう発表された。 誰もがそれを信じた。

兄を失った悲しみが、彼の心を壊したのだと。



けれど、真実は、表に出ていたものとは違っていた。


リリアナとラウル――王都の名だたる貴族たちが密かに取引していた違法薬物が、ユリウスの飲み物に混入されていたのだ。

それは、幻覚を見せ、思考を乱し、記憶を曇らせる。

兄を失った悲しみの中で、彼の心はゆっくりと崩れていった。

周囲は「精神を病んだ」と言った。 だが、それは仕組まれたものだった。

告発者を“狂人”に仕立て上げるには、あまりにも巧妙で、あまりにも残酷な手段だった。



そして、ユリウスは沈黙した。


音楽だけが、彼の記憶と誇りを繋ぎ止めていた。



* **


それから、いくつもの季節が過ぎた。

黒薔薇商会の調査員がユリウス・グレイの所在を突き止めたのは、王都の北端にある古びた療養院だった。

その図書室の隅、窓辺の椅子に腰かけたまま、彼はじっと譜面を見つめていた。

誰とも口をきかず、誰の目も気にせず、ただ紙の上に並ぶ音符の列を、何度も何度もなぞっていた。



その姿は、まるで時間の中に取り残された人間のようだった。

けれど、彼の指先は、わずかに動いていた。 音もなく、空気をなぞるように。

それは、かつての記憶を辿るようでもあり、今もなお、音楽と共に生きている証のようでもあった。



エリス・レイノルズは、彼の前に立った。

声をかけるべきか、しばし迷った。

この沈黙を破ることが、彼にとって救いになるのか、それとも傷をえぐることになるのか。

だが、彼女は覚悟を決めて、静かに言葉を落とした。


「ユリウス・グレイ。あなたの音楽が民を救う鍵になる」



その声に、ユリウスはゆっくりと顔を上げた。

長い沈黙の底から浮かび上がるように、彼の瞳がエリスを捉える。

その目は、かすかに、けれど確かに――希望の名残が、そこに宿っていた。



 * **


秋の夜、王都広場は灯火に照らされ、華やかな空気に包まれていた。

孤児院支援を目的とした慈善演奏会――表向きは善意に満ちた催し。

だが、黒薔薇商会にとっては、復讐と告発の舞台だった。



壇上に立つユリウスは、兄が残した譜面を手に、ヴァイオリンを構えた。

会場は静まり返っていた。

貴族も市民も、彼の演奏を待ちわびていた。


だが、次の瞬間――

ギィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィンッ!



弓が弦を引き裂くように走り、耳をつんざくような不協和音が広場に響き渡った。

誰もが顔をしかめ、耳を塞ぐ。

旋律は、調律を忘れた楽器を無理やりかき鳴らしたかのように、歪み、軋み、ねじれていた。



「な、なんだこの音は……!」

「頭が割れそうだ……!」

「ふざけてるのか!? 慈善演奏会だぞ!」


怒号が飛び交い、観客の一部がステージに詰め寄ろうとする。



だが、ユリウスは止めなかった。


むしろ、さらに強く、激しく、……音をぶつけるように弾き続けた。

その音は、旋律ではなかった。

調和も、美しさも、そこにはなかった。

ただ、記録だった。 兄が命を懸けて残した、告発の記録。

ユリウスは、それを音にして、世界に響かせた。



演奏が終わると、彼は静かに口を開いた。


「……この音が、“真実”を表現してる」


ざわつく会場に、ユリウスの声が静かに響いた。


それは怒鳴り声でも叫びでもなく、ただ事実を告げる口調だった。

けれど、その静けさが、かえって人々の心をざわつかせた。


「この譜面は、旋律ではありません。 資金の流れ――裏金の記録です。  王宮財務局が、エルヴァン音楽財団を通じて行ってきた資金洗浄の証拠。  私は、音楽という形で、それを“演奏”しただけです」



壇上のユリウスは、譜面を高く掲げた。


その手は震えていなかった。 むしろ、長い沈黙を破る者の覚悟が、そこにあった。


「この譜面には、王都の裏金の流れが記されています。  送り主は――王宮財務局官僚長官、セバス・ローデック。  この演奏は、王都の腐敗を暴く“証言”です」



その言葉が広場に落ちると、観客のざわめきは次第に怒りへと変わっていった。

最初は戸惑いだった。 次に疑念。 そして、確信。



「え?俺の寄付が……盗まれてたってことか?」

「うちの子はどうなったの?財団に預けたのに……!」

「ふざけるな、俺の金返せ!」



セバス・ローデックと彼の部下たちは、顔を青ざめさせ、席を立とうとした。

だが、すでに遅かった。 民衆は彼らを取り囲み、逃げ道を塞いでいた。



「待て!逃げるな!」

「お前たちがやったんだろう!」

「この演奏が証拠だ!」




その瞬間、王政監査会の文官が現れた。

彼は王宮の紋章を掲げ、静かに告げる。


「王命により、王宮財務局官僚長官セバス・ローデックを拘束する。 罪状は資金洗浄、証拠隠滅、公益財団の不正運用――および、国民への背信行為」



高官たちは民衆の怒号に晒され、石が飛び、罵声が飛び交い、彼らの顔は恐怖に染まっていた。

ユリウスは譜面を掲げたまま、静かに言った。 声は大きくなかった。

けれど、その言葉は、広場の隅々まで届いた。



「この譜面は、あなたたちの不正を刻みつけた。  そして――兄、ヴィクトル・グレイが、その声を響かせたんだ」


その瞬間、広場に沈黙が落ちた。

誰もが息を呑み、言葉を失った。 空気が張り詰め、時間が止まったようだった。



そして、次の瞬間。 拍手が鳴り響いた。 それは一人から始まり、次第に広がっていった。

歓声が巻き起こり、涙を流す者、拳を握りしめる者、そしてただ立ち尽くす者

――それぞれの胸に、何かが届いていた。



ユリウスは静かに頭を下げた。 ヴァイオリンを抱え、壇を降りる。



音楽は、真実を語った。 誰もが耳を塞ぎたくなるほどに、鋭く、痛烈に。




* **


夜更け。王都の郊外にある墓地は、冷たい風に包まれていた。

ユリウス・グレイは、ひとり静かに歩いていた。

手には、兄ヴィクトルが命を懸けて残した譜面と、黒薔薇商会から贈られた一輪の薔薇。


「兄さん……待たせたね」



墓碑には、簡素な文字で「ヴィクトル・グレイ」と刻まれていた。

その前に膝をつき、ユリウスは譜面をそっと置いた。

風が吹き、黒薔薇の花弁がひとひら、夜の空気に乗って墓前に舞い落ちる。


「あなたが残してくれた旋律は、王都を変えた。 僕は、あなたの弟でいられて誇りに思う」



その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ静かに墓前に落ちた。



ユリウスは立ち上がり、振り返る。

そこには、エリス・レイノルズが静かに立っていた。

彼女の瞳は、次なる(ターゲット)を見据えていた。



「まだ、終わりじゃない。 帳簿に記されていない資金の流れ――真の黒幕がいる」



ユリウスは頷いた。 兄が命を懸けて残した譜面は、まだすべてを語り終えていない。





 * **


その頃、隣国の王宮の奥深く。 誰も立ち入ることのない書庫の地下室で、ひとりの男が帳簿を閉じた。彼の名は、元大公セドリック・ノアール。

今は表向きには隠居しているとされているが、実際には王都の資金の流れを裏から操る存在だった。


彼は、黒薔薇商会の動きをすべて把握していた。

エルヴァン公爵やセバスの失脚も、リリアナとラウルの告発も、すべて想定の範囲内だった。


「さて……次は、誰を“切り捨てる”べきか」



男は静かに笑った。

その笑みには、温度というものがなかった。

冷たく、感情の欠片もない、ただの“処理”としての笑みだった。



帳簿の奥には、まだ誰も知らない名前が記されていた。

それは、王都の未来を左右する鍵となる者たちの名だった。




黒薔薇商会

―― そこは、過去に裁きを下し、未来を守るために存在する場所。

お読みいただきありがとうございます。

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