8時 蛇足
一ノ瀬を助手席に乗せ、神宮は首都の大通りを走っていた。
凍った川沿いには冬宮が淡緑に横たわり、白銀の橋を渡ると、向かいの保安省本部まではすぐである。
レイグラードの街並みは、国家の建前が真実だと錯覚させるほどに整っている。
理想は幻想ではない。完璧は実在する。そう街は語っていた。
監視装置の中枢、監視塔が車窓に写ると、神宮は検閲の任務……とある夜の粛清を思い出した。
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誰にもガラスの靴が合わなかった時、それでもシンデレラは“いた”と言えるのでしょうか?
【国家保安省検閲局:以下、削除対象】
ガラスの靴が割れ、悲しむ王子のもとに、もう片方の靴を持つ者が現れました。
しかし、それは王子が求めた理想の人ではありませんでした。
ガラスの靴が誰かの足にぴたりと嵌まった瞬間に、あの夜の美しさも、理想の思い出も、音を立てて崩れてしまったのです。
ガラスの靴が誰の足にも合わなかったから、舞踏会の夜は永遠だったのです。
王子は、シンデレラが別人だと信じて、再び探し始めました。
決して戻らない、理想の過去を
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「シンデレラは、0時1分の姿を見せなかった。それが答えだと思うがね」
そう作家は言った。完璧は実在しない、と。
室内は木の香に、深煎りのコーヒーの匂いが混じっている。
読み終えた神宮は眉をひそめた。
もしシンデレラが期待通りの美人ではなかったら? 王子は受け入れたか?理想を求める欲求は愛か?
蛇足だ。期待したほどの結末ではない。だが、読まなかったときには戻れない。
「なぜ反抗する? この王子も、魔法が解けて幸せになったか? 何も知らず生きれば幸せだろう」
保安省の同僚が、作家に問うた。
「それが作家の本能だからだ」
作家は静かに答え、神宮の方へ視線を向けた。
「お前は幸せか? ふと心が痛まないのか?」
神宮の脳裏に、漣が処刑された、あの0時が焼きついた。
「心なんてない。僕にも、君にも。あるふりをしてるだけで、みんな空っぽだ」
もし人に心があるなら、漣くんは死ななかった。この世界で彼だけが、人の心を持っていた。
神宮は黙って作家の腕を取り、処刑場へと連れ出した。
道中、作家はぽつりと呟いた。
「私が死ぬのは本を書いたからではない。誰かにとって“不都合な真実”を知ってしまったからだ」
同僚の舌打ちを無視して作家は続けた。
「薔薇の団。奴らは超能力を否定し、国民を煽っておきながら、トップは能力者だ。記憶に作用するなんらかのな」
「黙れ。お前は死ぬ。何も残せない」
同僚が吐き捨てるように言った。
「どれだけ闇が深くとも、真実は決して消せない」
それが作家の最期の言葉だった。
「できる! 保安省が力を合わせて努力すれば、できないことなんてない!」
同僚が叫ぶ。
「過去は、人の記憶の中にしか存在しない。
それを一人残らず消し去れば、過去は存在しなくなる!」
それはまるで、自らの罪深い過去をも抹消しようとする、祈りのようだった。
「国家が過去を管理し、未来をも支配しているんだ!」
神宮は無言で、作家に銃を向けた。
作家の腕が、微かに震えている。
“恐怖”か、“本能”か――それとも、それが“心”と呼ばれるものなのか。
神宮は、引き金を引いた。
その瞬間、何もかもが消えた。書き手も、意志も。都合の悪い結末も。
――永遠に欠落した。
後日、検閲したその同僚も粛清された。
今、欠けた1ページは神宮の心にしか存在しない。
*
「あなたの心の中の漣さんを読んで……心の真実を知るって怖いことよ。なんで知りたいの?」
助手席で一ノ瀬はつぶやいた。
「僕は漣くんに理想を押し付けていたんじゃないかって。彼自身を見たいから。それが本当に大切にすることだと思うから」
車は監視塔を通り過ぎ、保安省のルネサンス建築が見える。待ち受ける真実が蛇足でも、知りたかった。
「理由が愛か本能かは分からない。過去を美化したいから愛と思う……まぁ、"どっちでもいい"ことか」
「でもそういう無意味なことが時に大切なんでしょ。本当に好きなのね、彼のこと。私にはそんな勇気がない」
過去は人の心の中にしかないのに、人は過去を美化してしまう。僕は向き合う覚悟がある。ガラスの靴を、何かに嵌める覚悟が。自分自身の欠落に、名前をつける覚悟が。
その覚悟もなく、誰かを愛しているなんて、そんなものは愛じゃない。




