6時 フリープログラム
非常灯の赤い光が薄暗く氷を染め、観客席はざわめきと悲鳴で満ちていた。人々は出口を求めて押し合う。
そして『蝶々夫人』が流れ始めた。次に滑る予定だった②選手の楽曲だ。
「なに!? なにが起きてるの!? 誰か説明して!」
リンクに一ノ瀬の声が響いた。
「振付師は、死体が発見される数日前にはすでに殺されていた。最近見たのは、振付師に化けた悪魔だ」
従者は実はカメレオンだったわけだ。一ノ瀬はその声の違和感を読み取り、SPの開始を遅らせようとしたのだろう。
「……!? その声、神宮さん? な、なんでめっちゃ喋ってるの?」
「君が説明しろと言ったから」
「え、え……? な、なんで今になって死体を発見される場所に置いたの?」
「別に悪魔には契約を守る本能なんてない。悪魔側にメリットがなくなれば変身は解かれ、犯行は露見する。その前に誰かを犯人に仕立て上げるためだ」
言葉と同時に、悪魔がナイフを投げつけた。神宮はそれを指で弾いて易々と消滅させる。
悪魔の本能とはただ一つ。奴には僕が、さぞ美味しそうに見えているはずだ。
極上の獲物を前にしてなお、悪魔は一ノ瀬を狙うだろうか?
答えはYESらしい。
リンク中央、振付師に化けていた悪魔の右腕が歪み、黒い爪となって伸びた。
一ノ瀬に振り下ろされた刹那――神宮が爪を掴み取り、一蹴りで悪魔を客席まで吹き飛ばす。
氷上での戦闘は初めてだった。神宮自身も衝撃に煽られ、後方へと弾かれる。
数メートルを、漂うように氷上を滑走させられていた。
「あなたのFPを見て、私は2番なのだと心底納得した。今の願いは、たった一つ」
スケーター②がスケート靴のブレードを握り、ナイフのように煌めかせる。神宮は一ノ瀬へ短く告げた。
「12時の方向に敵。逃げろ」
②は叫びながら一ノ瀬へ突進した。
「いつかあなたも4回転を跳べなくなる! そんなの嫌! 死んでよ愛しのシンデレラ! 美しいまま!」
絶叫。愛の名を借りた破壊欲。
一ノ瀬は必死に氷を蹴り、滑って逃げる。暗闇の中でもリンクは頭に入っていた。
「その時は、あなたが跳べばいいでしょ!? 私に理想を押しつけないで!」
狂気の匂いが渦巻くリンクで、声だけが清澄に響いた。
神宮は悪魔を吹き飛ばした方向を指差し、指先を赤く光らせた。とどめを刺す――はずだった。
「ま、待って!観客が!」
赤い光に気づいたのだろう、一ノ瀬が叫んだ。
この状況で他人を案じるとは、厄介な人間だ。
だが、その視野の広さから、先ほどよりも落ち着きを取り戻していることも分かる。
神宮は②の方へ向き直り、自身と②の靴を互いに作り替えた。先日、村で見た悪魔の入れ替え能力である。
「……なっ!?」
②の靴は一瞬にしてスニーカーへと変わり、氷に足を取られて派手に転倒した。乾いた衝撃音がリンクに響き渡る。
その時、不意に照明が復帰した。白光がリンクを覆う。
そこに――2人の一ノ瀬が立っていた。
「……」
変身能力。片方は一ノ瀬に化けた悪魔だ。
神宮は左側に指を向けた。指先が赤く輝く。
「違う! 神宮さん、私が本物!」
氷上に響く悲鳴めいた声。
本物はどちらか。
4回転サルコウは一ノ瀬にしか飛べない。しかし本物も演技を終えた直後で、4回転を跳ぶことは不可能だろう。
昨夜の"答えのない質問ごっこ"が脳裏に蘇る。彼女は4回転を、左足の内側で踏み切れるから特別なのではない。もっと根源的に特別なのだ。
「理想を押し付けて消費すること、それの何が問題なのか。見解を聞こう」
指を向けられていない右側の一ノ瀬が、静かに口を開いた。
「……他人の中に、自分の正解はないから」
氷上に沈黙が降りる。
「外に答えを求めれば、自分の中の問いや欠点と、向き合う機会を失ってしまう」
この状況でも、一ノ瀬は論文を読み上げるように理路整然としていた。
彼女は②へと視線を向けて言った。
「誰もあなたの理想にはなれない。
本当に大切なものは、あなたの内側にしかない」
自分の心の空白――その靴は、外の誰にも嵌らないのだから。
神宮の赤い光はためらいなく、左側の一ノ瀬を撃ち抜く。
黒い霧がもうもうと伸びた。




