5時 決戦のゴング
12月20日、深夜。
首都のホテル、その静まり返った廊下に、神宮は立っていた。
背後の扉の向こうには、一ノ瀬が眠っている。事件を理由に警備役の契約まで取り入ったわけだ。殺人犯より、熱狂的ファンのほうが厄介らしいが。とある"答えのない質問ごっこ"もさせられた。
やがて、軋む音とともにドアが開き、寝ぼけ顔の一ノ瀬が現れた。
むにゃむにゃと彼女が言うことには、滑走は朝早いから、この時間には起きて、体を目覚めさせておく必要があると。
「警護、ありがと……です」
『警護なんて、君に会うための口実だ』
その一言で、彼女は寝起きの顔を赤らめた。
「……てきとう言わないで」
『大マジ』な答えだが。この反応、お姫様とか呼ぶのも効果があるのだろうか。
思えば一ノ瀬家は名家で、財閥本家にも近い。お嬢様が一度灰を被って、数奇な人生だ。
「あなたは寝なくて大丈夫ですか?」
『大丈夫。心配してくれて、ありがとう』
淡々とした模範回答。
人間は、他者の痛みを読み取る能力を持つらしい。しかし君は本当に感じ取れているのだろうか?自分と同じ心を他人が持つかどうか、分からないのに。
一ノ瀬は少しの沈黙の後、ぽつぽつと言葉を落とした。
「映像が欠けてた。私じゃないって証拠がない」
その声には、天才の仮面に隠された、ただの少女の恐怖が滲んでいた。
「大事な映像が欠けているなんて……」
彼女はそこで口を噤んだ。
その先は決して言ってはならない。廊下に漂うのは「ジー」という虫のような囁きと、監視装置が放つ赤い光である。
神宮は独り言のように洩らした。
「意外にこの国は脆い。馬車に見えて、実際はかぼちゃでできている」
その言葉に、一ノ瀬の瞳がぱっとこちらを向く。神宮は口元に微笑を浮かべ、囁くように付け加えた。
「大丈夫。今は12時だ。誰にも聞かれてない」
――君以外はね。
微笑に導かれ、一ノ瀬は心の奥を言葉に託した。
「……この国はおかしい。たった1分しか、本音を出せないなんて」
それは、深夜の空気を震わせる告白だった。
神宮は「では君の人生に、本当に自由だった時間は、いったい何分あったのか」と応えようとしたが、それは答えではないと推測し、黙っていた。
「負ける気はない。これまでも命を懸けてきた」
試合に負けたら処刑。その恐怖すら乗り越える、強く美しい心が煌めいていた。
「体が成長したら、今のジャンプができなくなるかもしれない。ずっと恐怖と闘ってきた」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「この世界で、自分で自分を一番だと思えなければ、何もかもに意味はない」
誰が一番かなんて問いは、鏡に聞くものではないのだろう。
ゴーンと鐘が響いた。
*
「SPでは惜しくも2位でしたが、最年少優勝への期待がかかります――一ノ瀬選手!」
アナウンスが響き渡る。照明が落ち、氷面は墓標のように沈黙した。
数万の視線が一点に集まる。その中心に、一ノ瀬は立っていた。
背筋をすっと伸ばし、顎をわずかに引く。その姿は、戴冠を受ける女王か、処刑台へ歩む囚人か。
楽曲は『シンデレラ』。
第一音と同時に、彼女の身体は氷を裂く刃へと変貌する。
銀の靴が刻む軌跡は、砕け散るガラスの煌めきのように観衆の眼を射た。
最初のジャンプ、トリプルアクセル。
宙に舞い上がった瞬間、世界は凍り、観客の息が止まる。
そして――静かに氷に降り立つ。音も衝撃もなく、完璧な着氷。
昨日彼女は語っていた。
――「一度きりだから、やり直せないからこそ美しい」
その美のために、何を犠牲にしてきたのか。彼女は今、何を思っているのか。誰にもわからないし、どうでもいい。
なぜなら観客は自分にできないことを彼女が演じることが、自分の理想を投影することが全てだ。
ステップが続く。研ぎ澄まされた刃物の連撃のような滑り。
レベル4は確実だ、勝利は見えた。
観客席で神宮は、静かに思う。
――問題はその後だ
一ノ瀬は自分に好意を抱いている。これを上手く利用するには、彼女が自分に投影している理想像を崩してはならない。
では、自分も彼女を欲しているが、これは?
読心能力者を前にしても、“喰いたく"はならなかった。
ならば上手く使えないだけで、自分の中にも読心能力は存在するのだろうか?
「……腹が減ったな」
神宮は心の中で呟いた。
一ノ瀬は次々と技を成功させ、コレオシーケンスを舞い切る。
最後のジャンプ。4回転サルコウ。
これを跳べるのは彼女だけ。
シンデレラのガラスの靴のように、彼女を唯一にするもの。
足の踏み切り方は左後ろ内刃だ、回る、回る、4回転。
ガラスの靴は、ピタリとはまった。最後のスピンも完璧だ。
リンクに嵐のような拍手が降り注ぐ。
彼女は肩で息をしながらも、微笑んで深々と一礼した。
「――完走! 一ノ瀬選手! この高難度構成を滑り切りました!……ッ!?」
その時、リンクが暗闇に包まれた。
「素晴らしいFPだったわ」
女の声が響く。神宮は暗闇の中、リンク中央の一ノ瀬のそばに降り立ち、進み出てくる2つの影を見た。フィギュアスケーター②と、振付師に変身した"悪魔"だ。
「私、貴方のこと大好きよ。
この悪魔と契約して初めて頼んだのは、貴方に変身してもらうことだった。でも違ったの」
女はニコリと微笑んだ。暗闇の中では一ノ瀬には相手の表情が見えないのだろう。困惑の声が聞こえる。
「何、言って……」
女の声が響く。決戦の鐘のように。
「さぁ、エキシビションを始めましょう」




