17時 革命前夜
各地で、能力者狩りが始まっていた。
「知らないもの」は怖い。能力者という異物は、自然が真空を嫌うように、火を恐れる獣のように本能で排除されていく。
じわじわと広がる赤、革命は今日にも起こりかねなかった。
神宮はその報告を受けながら、迷っていた。
薔薇の団を今、襲撃するべきか?
だが、彼の視線は別の場所に向いていた。
一ノ瀬。
彼女の精神状態は、不安定だった。最近、彼女は神宮に対して距離を置きたがっている。ある種の恐怖のようなものを、彼女のまなざしの奥に見た。
「……金メダルで水族館デートだったか」
だから、神宮は人間のふりをしようとした。
*
12月22日。極夜の日。
二人は水族館へ向かった。
世界が焼け落ちるかもしれない予兆が漂うなかで、デモの怒声と監視の目が溢れる首都の中心で。
「水族館?」
一ノ瀬は戸惑った。
「戦争が起きるかもしれないのに、デート?」
神宮は答えない。ただ、静かに彼女の手を引いた。
この国の観覧施設は、監視の網の下にある。水族館でさえ、全ての来館者の動向はログとして記録される。
しかしこの日、一ノ瀬の感情を記録していたのは装置ではなく、彼女自身の心だった。
チケットを買う前から、二人は冬だというのにアイスクリームを食べた。
一ノ瀬は冬なのにパンプキン味、神宮はチョコ味。
「チョコが好きなの?」と聞けば、彼は「いや、君の方が好きだ」と答える。その瞬間、もう「一口ちょうだい」とは言えなくなった。
水族館は思った以上に人の気配があった。正常化バイアスというやつだろうか。きっと、自分も同じだ。
だって入り口で手を引かれた時、胸がドキリとしたのだ。革命前夜のディストピアで、もっと恐ろしい鼓動があるはずなのに。
「綺麗ね」
水槽を見上げて一ノ瀬は言った。
分厚いガラスの檻。人工的な海。泳ぎ続けなければ死んでしまう魚。それは、まるでこの国のように美しかった。
「私は、幼い頃の両親の叫び。逮捕されてから銃殺されるまでのわずか1分……あの時の心の叫びが忘れられずに苦しかった」
一ノ瀬は耳打ちをした。すると彼は少し屈んでくれた。一ノ瀬は誰にも聞こえないようヒソヒソと話した。
「能力なんてなければいいと思った。でも貴方は私の能力を必要としてくれた。褒めてくれた。単純だけど、嬉しかった。あなたのこと、結構好きなの」
その時、背後から甲高い叫び声が上がった。
一ノ瀬が振り返ると、群衆が一人の少年を取り囲んでいた。
「お前、能力者だろ!」
「化け物め……」
少年の叫び声が響いた。
「違う! 助けて……!」
一ノ瀬は民衆の間に割り込んでいった。そこでようやく、神宮は後ろを向いた。
「この子は違いますよ! 何してるんです!」
観客たちの視線が、一斉に一ノ瀬へと注がれる。彼らの心の声が聞こえて、彼女の背筋が凍りつく。
(庇うなんてこいつも能力者か?)
(こいつフィギュアスケーターの。能力者って噂、本当なのか?)
――バレた。
観客の一人が、何かを取り出した。神宮は、そこにいた全員を冷静に見渡していた。
一ノ瀬は、喉がひゅっと鳴るほどの恐怖を抱えながら、少年の手を引き、走り出した。
怒声を背に、薄暗い深海魚のゾーンに入り、窪みにそっと身を潜める。
「お姉ちゃん。僕怖いよ……」
「大丈夫。見つからないわ」
一ノ瀬には、少年の心の叫びが嫌というほど感じ取れた。水槽には、深海魚が光を求めるように泳いでいる。
「僕、僕……能力者と分かり合えるとか……そんなこと言っただけなの。能力者じゃないの」
「うんうん。大丈夫、間違ってないよ。みんな分かり合えるから」
一ノ瀬はそう言って少年の頭を撫でながら、神宮の言葉を思い出していた。
心の底から嫌いな人を、本当に理解しようとしたことはある?ないでしょ?人と人は、決して分かり合えない
彼の不躾な発言は不思議と嫌いではなかった。本当に、容姿さえよければいいのだろうか。なぜ自分は彼に惹かれているのか。今度はあの薔薇の団の女の言葉がよぎり、頭を振る。
「……赤い」
少年が震える声をあげた。
水槽の水が、じわりと赤く染まっていく。
鼓動が、ドクン、ドクンと脈打つ。
そこに、神宮が現れた。
死体を踏み越え、血に染まった海中トンネルの中に立っていた。
「……どうして……」
一ノ瀬が震える唇で問う。
「どうして、殺したの……?」
「君を守った」
水族館の天井から、青い光が揺れている。その下で、血の海が広がっていく。水と血の境目は、見分けがつかない。
「私だけじゃない、誰もが、死にたくないと思ってる。私だけよければいいなんて、そんな……」
「他の人にも同じように心があるかなんて、分からないでしょう」
一ノ瀬は、理解してしまった。
――彼とは、分かり合えない。
神宮の中には、何かがない。
「……化け物……」
赤と青の混じる水槽のなかを、魚が泳いでいた。
どこまでも、壁のなかで。
どこまでも、本能のままに。




