16時 白薔薇の記憶
極夜が近づき、レイグラードは真昼でも夜のように暗かった。
大通りの小さな花屋。時間が止まったような静寂の中、扉の鈴がやわらかく鳴る。
現れたのは、一人の女。
細身で、紙のように色素の薄い肌。艶のない血紅をわずかに引いた唇、黒曜石のように沈んだ瞳。真っ白なロングコートの裾は、風もないのにひとりでに揺れていた。
彼女は、カウンターに立つ老婆に微笑んだ。
「白薔薇をお願い。品種はシンデレラで」
老婆はその言葉に、一瞬だけまぶたを持ち上げた。やがて手元の帳簿をめくる。
「いくつです?」
女は、唇を少しだけ歪めた。
「0本」
帳簿が閉じられた。
「……こちらへ」
そう言って、店の奥の扉を叩く。
ロックが解除される音と共に、女は奥の部屋へと吸い込まれていった。
その扉の向こうに広がっていたのは、まるで別世界だった。
赤絨毯に巨大な天蓋付きの応接ソファ。油彩画と白磁の花器。窓のない空間に、金と蒼の光だけが満ちていた。
部屋の奥に佇む男、財閥の現当主は、まるで絵画から抜け出してきたかのように、美しい男だった。
だが、そんな個人としての性質などなんの意味は持たない。彼は当主ではない。当主とは世界の権力そのものなのだから。
女――薔薇の団のトップにして後輩は、椅子にもたれかけながら言った。
「馬鹿げた理想なら聞いた。
大戦で神宮を英雄に仕立て、超能力者がヒーローの社会を作る、と」
後輩はハッと鼻で笑ったが、当主は穏やかに頷いた。
「君たちは破壊を、我々は構築を。目的は違うが、出発点は同じだ。
国家という過去の装置を壊す。それが今世紀最大の正義だよ」
後輩は、机の上の白い薔薇を一本手に取った。花言葉は『幸福』である。
「神宮がそっちの思い通りに動くか?
まぁ正直、こっちは大戦でバカが大勢死ねば何でもいいが」
彼女は白薔薇の茎をわずかに握りしめ、棘で指先を裂いた。白い花弁に、一滴の赤が滲み、じわりと広がっていく。
漣先輩を奪った愚か者どもの血で、白薔薇を赤に染める――それが薔薇の団の由来だった。
後輩はそう思いながら、もう片方の手で黒い何かをぎゅっと握りしめた。
「……そのUSBに入っているのか。漣の最期が。……最期には何がある?」
当主の問いかけに、後輩は首を振った。
「分からない。彼は最期まで理想を貫いたし、私には心を読む力はない。でも、もう少しで分かるはずだ。あの微笑みの意味が」
後輩はカバンの中の、鉄のような何かに視線をやった。研究所で開発された、能力発動装置だった。
当主はそれを見ても眉一つ動かさず、ゆっくりと一歩、彼女へ近づいた。
「君を呼んだのは、漣に関する俺の記憶を消してもらうためだ」
後輩は、目を細めた。
漣は、記憶操作だけができなかった。だから彼に関する誤った過去を消すのは、自分の役割だと思っていた。自分が彼の唯一の欠けを埋めるのだと。
「君には、これがなければ自分ではないという記憶はあるか?」
当主は、手を差し出すように発言を促した。
「高校の文化祭で、ダンスを漣先輩と一緒に踊った……」
後輩はUSBをポケットにしまった。
「先輩は、みんなに優しかった。私は、みんなの中の一人にすぎなかった。
それでもよかった。幸せだった。
たった1分かそこら。しかし私にとって、その記憶がなくなればもう私ではない」
貴方にはあるのか、自分を形作る1分が。後輩は当主にそんな視線を投げかけた。
「俺は妾の子だ。漣……兄さんが後継となるはずだった。しかし彼は絶大な権力と未来を捨て、私に譲った。彼の優しさは私にとって呪いだ。
彼を忘れれば、もう私ではない。だからこそ忘れることで、俺は人を捨て当主という機関に還る」
誰もが何かの部品であり、この世界の本能に従うにすぎない。当主という役目は、人が担うには重すぎるのだろう。
後輩はしばらく沈黙し、それから静かに言った。
「私は、忘れたくない」
彼女の手の中の薔薇が、指先の熱で柔らかくなっていた。
やがて後輩は立ち上がって言った。
「貴方の記憶は望み通り消してやるさ。でも、私は覚えている。私は人間であり続ける。
この革命が何を奪っても、私は彼を覚えている」
彼女は当主へと近づき、彼の額に指を当てた。
「ねぇ、貴方は幸せ?」
当主は、初めて目を伏せた。
「……いいや」
部屋には、赤く染まった一輪の薔薇だけが残されていた。それが元々白だったと、もう彼は覚えてはいなかった。




