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煙を吐く鏡

作者: ういろう

店内の古時計が六時を告げた。私は机に向かい、新着の骨董品を見つめていた。古美術商として十年、数え切れないほどの品を見てきたが、今日は違う。段ボール箱の奥から出てきた黒曜石の鏡に、どうしても目が離せない。


表面は完璧に磨き上げられ、縁には精緻な文様が刻まれている。羽毛で装飾された蛇が円を描き、その内側には幾何学的な紋様が連なる。蛇の鱗一枚一枚が精巧に彫られ、羽毛の一本一本まで表現されている。アステカ文明期の儀式用具としては、上出来すぎるほどの保存状態だ。


証明書類を見る。発掘年月日、出土場所、所有権の移転記録。一週間前の取引台帳に記された文字が、不思議と霞んで見える。私は目を凝らすが、文字はますます曖昧になっていく。取引先の古物商は、鏡を渡す時から様子がおかしかった。落ち着きなく、何かに追われるような素振りで、早々に店を出ていった。


テスカトリポカの神殿から出土したという記述に目が止まる。夜と予言を司る神、その力を象徴する黒曜石の鏡──。アステカ神話では、テスカトリポカは人間の運命を狂わせ、災いをもたらす存在とされる。この鏡も、所有者に次々と不幸をもたらしてきたという。発掘した考古学者は発見から一月後に失踪し、その後の所有者たちも、狂気や事故、突然の失踪に見舞われたという。


私は慌てて防犯カメラのモニターを見た。画面には確かに私の姿が映っている。だが、モニターの中の私は、まるで靄がかかったように揺らめいていた。一週間前からの映像を確認すると、その日を境に私の姿が変わっている。それ以前の映像では実体があったのに、最近の映像では輪郭が曖昧だ。


店の入り口のベルが鳴り、客が入ってきた。年配の男性が展示ケースの前で立ち止まる。私の方を向いても、まるで透明な存在のように視線が通り抜けていく。やがて男性は首を傾げ、店を出ていった。これも鏡の災いなのか。私は古い文献を調べ、お祓いの儀式まで試してみたが、状況は悪化するばかりだった。


写真アルバムを開く。商品写真や取引の記録写真。一週間前を境に、写真に映る私の姿が変化している。それ以前の写真では影があるのに、最近の写真では影が消えている。私は立ち上がり、店内を見回した。蛍光灯の光が床に落とす光の輪。展示ケースの影。古時計の影。すべてがあるのに、私の影だけが見当たらない。


記憶を辿る。取引先から鏡を受け取り、鑑定し、展示ケースに収めた。そこまでは覚えている。だが、その前は? その日の朝は? 昨日は? 先週は? 記憶が霞んでいく。いや、元々そこには何もなかったような。まるで、私という存在が一週間前に突然始まったかのように。


私は展示ケースに手を伸ばした。指先が硝子を突き抜ける。驚いて引っ込めた手を、もう一度ゆっくりと伸ばす。確かにそこにあるはずの硝子を、私の手は通り抜けていく。


そうか。これは災いではない。私は鏡から立ち上った煙なのだ。


その瞬間、すべての謎が繋がった。テスカトリポカ、その名は「煙を吐く鏡」を意味する。私の記憶は本物の私のもの。この店で過ごした十年も、扱ってきた骨董品たちも、すべては本物の私の人生。だが今の私は、鏡から立ち上った煙のような存在。実体はなく、声も出せず、物にも触れない。ただ視覚的な存在として、店内を彷徨っているだけ。


私の体が薄れていくのを感じた。意識が霞み、記憶が溶けていく。店内の照明が作る光の輪が、私の存在を通り抜けていく。黒曜石の表面から立ち上る靄が、渦を巻きながら私を包み込む。最後に見たのは、その靄の中から実体を持って歩み出る、もう一人の私の姿。その足元には、確かな影が落ちていた。

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