雨上がり
恋をすることは
時に残酷なほど利己的
その事に気づけないほどに
雨の音が遠くに聞こえる 。
そろそろ起きて 天気予報を確認しないといけない。
ベッドの横の椅子には 濡れたままのTシャツが2枚 寄り添うようにかかっている 。
『きっと明日も大雨だから、学校休みだよ』
そう言って入ったいつものホテル 。
『今日はベッドがいい』と言いながら 。
あの頃でもすこし古いタイプのホテルは 、いまでも出くわす事のない、 ホテルのおばさんが部屋まで案内して くれて、その場で、鍵と料金を引き換える仕組みになっている。そんなやり取りを恥ずかしがらずに対応する事で、何処か大人ぶった気分でいる。
最初に入った時、受付のおばさんに 『高校生?』と言われた彼女が、学生証を見せた事もあり 、逆にその事が特別な思い出となって、気がつけば、いつもこのホテルを使うようになっている。
最初は、和室とベッドのある部屋だった。(2回目は完全な和室だった)旅館のような作りの部屋で、そのまま畳に寝転がりこんだあと、このままでいいのかなぁと、流れのまま、この状態にある事に答えを見つけられずにいた 。
彼女は同じ学科の後輩で 同じサークルの後輩 。僕には付き合っている彼女がいたけれど 恋の進展も触れ合うこともなく ただ半年が過ぎようとしていた。
彼女はあの日『一緒に帰ろう』と有無を言わさず、帰りのバスで横に座ってきた。他にも彼女との同期や、普段からよく喋っている先輩達もいた中で、いきなり隣に座ってきたから驚いた。
『サンドイッチを作って来たので河原で食べませんか』と明るい口調で言ってきた。
何を言ってるんだという顔をしてたのだろう。
『入学してから時々、河原のある駅を見つけては降りて、散歩するんです』と小さい口元を急いで動かしている。
一瞬いいなぁ、と思った。確かに。
ただしそれは、学校帰りに途中下車して河原で散歩。という事への、いいなぁ、だ。
むしろ、何故この時間にサンドイッチの用意がされているのかに関しては事、ただただ驚いて思考が止まる。
一瞬の表情の変化に『いま、いいと思ったでしょう。いいんですよ。いい感じなんです。行きましょう。決定』と、こちらの疑問符つきの表情の方には目もくれず、いいなぁの表情だけを取り上げて、既定路線のように話しを進め続けている。
結局気づいたら河原で並んでサンドイッチを食べていた。
彼女は同じサークルに僕の彼女がいる事も知っていて、『気にしてません』と言いきる。
何が気にしてません、なのでしょうか?という問いかけにも『気にしなくていいので、気にしないでください』と繰り返す。
正直わけがわからない。
サークルの上下関係はおおむね緩やかで、ことば遣いもかるい丁寧語交じり程度、女子は男子の先輩に対してほぼタメ口状態、という事も多い。
そういうわけで、男女関係もあっさりとしていて、特別な男女でなくても距離感が近く、学校帰りに、特別ではない男女二人組が、ご飯を食べに行っていたりする。
バスで隣り合わせのまま帰る機会が多ければ、自然とそうなっても不思議ではない。そのまま恋人になっていくケースも多いのだろう。
おそらくは寄り道が好き、だとか河原をよく歩く、と言った情報も出回っているのだろう。どこかで聞きつけて興味を持ったのかもしれない。
それでもサンドイッチまで用意してくるものなのかと思いつつも、会話の方は途切れることはなく、いつしか日が暮れそうになったので、彼女が作ってきてくれたというサンドイッチをカバンから出してきた。
我が家で、玉子とパンを組み合わせる時は、基本的に薄く伸ばした卵焼きをパンに乗せるオープンサンドしか作らない。
いわゆるお店で出てくるように、玉子をつぶして作るようなシロモノは、家庭で作れるものではないと思っていたので、彼女が手渡してきた玉子サンドを見て、ちょっと感動した。そう言ったら『簡単ですよ』と作り方を教えてくれた。
ちなみに我が家には昔、ゆで卵のスライサーがあった。夜鳴きラーメンでについてくるような玉子を作れたけれど、玉子の黄身が長らく苦手だったので、ゆで卵自体、我が家ではあまり登場しなかった。
とりあえず、ゆで卵を作ってスプーンで潰してマヨネーズと適度な塩コショウらしい。
そうは言われても美味しそうなサンドイッチを作れるイメージは全く持てなかった。
美味しいものはあっという間にお腹に消える。
『ごちそうさまでした』といえば『お粗末様でした』とおばあちゃんみたいな返事があったので
そう伝えたら、おばあちゃんっ子なので、と返ってきた。
金髪のイケイケイメージの女の子の口から出てきた『お粗末様でした』の言葉に、ちょっといいなぁと思ってしまう。
日が暮れだすと、世界から色彩が消えていくのはあっという間だった。世界が灰色になり濃い灰色となった後は、色を失っていくようだ
かわりに人工の色が街灯に灯り、世界には多方向に向けて伸びる陰が浮かび上がっている。
途中に降りた駅の改札は、本当にすぐ裏が河原と土手、という場所で、ふたりの会話を掻き消すような音量で、目の前の鉄橋を電車が走り過ぎていく。
いつの間にか川面の正しい位置は見つけにくくなり、街灯に反射する光で、ようようそこに川が流れている事がわかる。
仲の良い後輩と遅くまで遊んでいる事に、特に抵抗はなかった。サンドイッチにしても、美味しい、が勝って、恋人を怒らせるという推論を起こさせもしなかった。それ以上に、恋人が怒るとも思えないのだ。
付き合って半年になる恋人とは、一緒に帰ることの方が珍しい。違う方向のバスで帰る、という事もあるし、同じサークル内でも活動時間が異なれば、先に帰る事が多い。
手をつないで歩くようにはなっているが、ようやくクリスマスにキスをして以降、特に進展がない。お互いに前に進もうと積極的に行動する気配もないまま、時間だけが過ぎている。
好きになれたらいいなぁと、前に進むために始めた恋で、そうして出来た恋人だった。
高校時代の恋の終わりは、その後の長い時間を使っても、後ろ姿を見せてはくれず、恋人がいる今も、どこか心が惹かれたままでいる。恋を失って失恋というのなら、未だに恋心は失われていないのかもしれない。
そんな恋人も、大好きな人がいると公言し続けていた。サークルの彼女の3つ上、僕の2つ上の先輩だった。僕の恋人が失恋したわけではない。そもそも、その先輩にはずっと彼女がいたのだ。それも同じサークル内に。
その先輩が引退して、僕たちの付き合いは始まった。お互いに、本当の気持ちが何処にあるのか、わかっているのだろうか、と思ったりもする。
それでも恋人には変わらないのだ。
気づけば駅を通る電車の音が聞こえなくなっていた。僕は、時を計る術を持っていなかった。
とはいえ、ずいぶん遅くなりつつある事は自覚していた。ただ、なるようになれ、と投げ出した。ずるい決断の仕方だったと思う。
終電が近づけば電車が通り過ぎる間隔は長くなる。駅にはまだ明かりがついていて、駅員の姿も見えたから、まだ終電はあるだろうと、どこかで考えていた。2人して駅に戻る。
『電車の間隔減ってきてるし、そろそろ終電近いかも、戻ろう』
『まだ、いいです。大丈夫』
『大丈夫ではない。だいぶ遅い。駅まで送るから迎えに来てもらって』
『え〜。わかりましたぁ』と、そんな会話だったと思う。
さすがに終電までは、まだまだ時間の余裕があると思っていた。彼女は時計を持っていたのだから。
駅までのんびり戻った時には駅の改札は閉まっていた。土手を降りるとき、周りが急に暗くなったのは、それが理由だったとわかる。さっきの電車がやはり終電で、駅舎全体の電源を落としたのだろう。
顔を見合わせる。さすがに苦笑する。
ほぼ同時にタクシーが通り過ぎようとしていた。これを逃しては!と思い、慌てて捕まえて乗り込んだ。ほど近くにホテル街がある事は知っていた。彼女の自宅まで、タクシーで送るという選択は思いつきもしなかったのだ。
単純に、自宅までのそれぞれのタクシー代とホテル街までのタクシー代+ホテル代を天秤にかけた、それだけだったから、ホテル探しも楽しくて、仲居さんがいるようなホテルにも驚いたけれど、実はホテル自体が初めてで、そういうモノだと思っていたから、その時は、こういうものなんだ、くらいに何も考えずにいた。
旅館の和室の様にテーブルと座椅子があったから、しばらくはケラケラとサークルでの話が続いた。
彼女が前の彼氏の話をした後に急に真顔になって、『このサークルの男子を全員、わたしは手に入れるのです』とニヤリと小悪魔な顔を見せている。小鼻をピクピクさせる子なんて初めて見た。
『好きな人はおらんの?』と聞けば、僕を指差す。『彼女いるし』
『気にしない。気にしなくていい』
河原でのやり取りと言葉は同じでも、この部屋でする会話となれば艶が出てしまう。
『好きってのが実はよくわからない。セックスしたいと思えば好きって事とちゃうの』と真顔で言っている。返答するべき答えが見つからない。
セックスとは好きになった人とするものだと思う。好きではない人に、身体を委ねて心が満たされるのだろうか。
好きな人としかセックスをした事がないのでは答えようがなかった。
『好きが先かセックスが先か。』口に出してみたら『そんなに考えすぎなくていいんちゃう。試してみ〜ひん』と顔を近づけてキスをした。
何も言わずにキスを受け容れて、セックスから始まる恋があってもいいのかもしれない。
そう思う事にした。
ずいぶん長いキスをした後、一緒にお風呂に入った。意を決して、というわけでもなく。
小さな身体からは想像もつかないほどの大きな胸をしていたけれど、綺麗だなと思うだけで、煽情的でもなく、そんな気分にもならなかったけれど髪を洗ってくれた。
誰かに髪の毛を洗ってもらうのはいつ以来なのか、こういうのもいいなぁと思っていた。
当然のように一緒に布団に入ってキスをしながら抱き合って寝たけれど、結局最後まではしなかった。
どうしてなのか、ただ、しなかったというだけで理由は思いつかない。
翌朝、ホテルを出てホテル街の入口にあるファミリーレストランでモーニングを食べながら、同じようにホテルから出てくるカップルを観察して過ごした。
何でもない事が楽しくて、一晩開けてもこんな感じもいいなぁと思っていた。
何組かのカップルの様子をふたりで勝手に想像する遊びをした後で、『昨日はなぜ最後までしなかったの?こういう状況になっても最後までしなかった人は、初めてだから驚いてる。なんかいいなって』と言われた。
なぜしなかったのか。おじけづいたり、罪悪感だったり、そんな感情ではなく、ただしなかった。それだけでよく理由はわからないのだと、改めて思う。あえて言うなら、セックスはそんなに簡単にするものではないと思っていたから、その事だけを口にした。
『ふ〜ん、そうなんや。でもなんかうれしいかも』と、この話はそれで終わった。
結局、一緒に過ごす時間も増えて、何度か夜を過ごしセックスをするようになった。
テレビをつけて今日の天気の動きを確認する。予想通り、大雨警報が発令されていた。
ほぼ間違いなく学校は休校になるとは思うけれど、もし休校でなかった場合、授業はともかくサークル活動を飛ばす事は出来ない。
学校に直接確認する事は出来ないので、学校の寮に入っている同期に確認すれば休校の確約がとれた。
まだベッドに埋もれて眠っている色白の顔を眺める。細い腰や大きな胸、ショートの髪は金髪ではあるものの、ベティちゃんのそのもののイメージだ。キャラクターとしてのベティちゃんの性格は知らないけれど、セックスシンボルとしてのイメージがあれば、それに近い。
今日は休校になったから、時間一杯までゆっくり過ごして、いつものファミリーレストランで昼を食べて、どこへ出かけよう。
大雨警報はきっと、学校を休みにした後、どこかへ飛んで行って、ホテルを出る頃には晴れ間もあるだろう。いつものことだから。
その後も何度か一緒に夜を過ごして、好き、嫌い、付き合う、付き合わない、セフレ。どんな契約も結ばないまま、同じ時間を過ごしていく。
いつからか、どういう理由だったか『お兄ちゃん』と呼んでいい、と言われ、それ以降『お兄ちゃん』と呼ばれていた。僕に妹はいたことはないので、その呼ばれ方は気に入っていた。
浮気とも想えない。彼女は僕に恋人がいる事を良しとしている。『好き』と言われることはあったけれど『好き』という事はなかった。
二股ではないという意識は彼女のプライドによって維持されていたのか、僕がそう思いたかっただけなのか、とにかくセフレでも二股でもない、一緒にいたいだけの関係性はお互いに確立されていたと思う。
いま思えば、僕はセックスを彼女との間に必要としていなくて、彼女は僕にセックスだけを求めていたのかもしれない。
だから、だったと思う。
2ヶ月ほど続いた関係は、まだまだ、続けようと思えば続けられたうちに結末を迎えた。
僕が、この関係性を続ける事は、彼女に対して失礼だと想った時に、彼女は僕の必要性を失った。
彼女にとってはセックスこそが愛情で、一緒にいられる理由で、ふたりの関係性に価値をみていなかった。僕に恋人がいても、恋心が向いていなくても、セックスする事で自分を見出していた事を後に知る。
終わりを決めた時に、恋人とも別れを告げた。『わかった。』と恋人からは一言だけ。
その後も、しばらくは彼女とのやり取りは続いたものの、彼女はサークルのひとつ上、僕のひとつ下の先輩ときちんとした恋人になり、それなりに浮名を流している間に、僕は卒業した。
それから、在学中には元恋人と音信不通になったまま卒業したものの、4年後にサークルの同窓会で再会して和解する。
『あの頃はわたしも、好きだった人を諦めきれずにいて、好きになれたらいいな、とは思っていたし、何より独りはさみしかったのよね。彼女のことは知ってるよ。彼女ともわたし、仲良かったしから。知ってるでしょ。あ〜そうだったんだ、と思ったけど、それだけ。彼女は変な信念あるし、あなたとは結局そんな雰囲気にならなかったもんね。デートの時にカウンターで飲んだりしてたら変わってたかな、って考えてた。結局変われなかったわけだけど、好きだったんよ。一緒にいる時間。それだけは本当。恋心とはちょっと違ってたけどね』
同じように、はつ恋の相手を忘れられず、きちんと失恋しないままに、ただ前に進もうとしただけだったから、『恋愛』だけを探していたのかもと、そう言って握手をしたら、『そういうもんかもね。若かったわ』と、あの頃と同じ笑顔を見せてくれた。
恋愛相手ではなかったというだけで、考え方や
趣味が近くて、和解後、お互いが結婚するまで良好な関係性が続く。
彼女とは、サークルの同期で僕の友人の彼女となって再会した。
友人宅に持ち込んで聴いていた、僕のお気に入りのCD取り上げ、『これくれたら許してあげる』と言って持ち帰る。提供する事を申し出て和解が成立する。
そのアルバムのタイトルが無罪モラトリアムというのは、冗談の様で彼女らしい。
『ありがとう』と、あの日『サークル男子を全員手に入れる』と嘯いた時と同じ笑顔を見せてくれた。
ニヤリと笑うその姿は、本当に小悪魔の様でいて、どこまでも格好良い。
青い時代というものがあるとして
恋に恋したり、さみしさや独りでいたくないからと恋をする事や、自分の魅力を武器にして
好きを探すような恋も
すべて同じ恋と言ってしまえる頃を言うのだと
大雨の朝には
考えずにはいられない
青い時代という
あっという間の長い時間を過ぎて
幸福の不在に気づいた時
しあわせを探しにいけると想うのです