迫られる覚悟 四
「あまりにも人となりを知らないところへ、黒狼の正体が知れてしまった。ですが、敵対するにも、白虎では黒狼をどうすることも出来ませんよ。力の差は歴然としています。それは神代の頃から、です。それに昨夜、龍魔殿からあの二人の様子を見せた貰いましたでしょう? 黒狼は何か悪いことをしましたか? 人を襲ったりなど。赤獅にまた手を上げていましたか?」
紫雲はその言葉に、いいえ、と首を振った。
「魔族らしいことは何も」
「そうでしょう。彼は人として長い間生きてきたのです。魔族の本能を曝け出して生きたことはほとんどありません。そんなのは小さな頃くらいです。それに元々が高位の魔族よりずっと高次元の生き物ですから、魔族よりは理性が働きやすいのかも知れませんね」
紫雲は立ち尽くしたまま、足下を見ていた。高位の魔族よりも高次元の生き物だとすれば、理性のあり方もより人に近くなるのか? そんな思いが胸中で膨らむ。だとしたら、やっていけるのか? もし四獣だという事を知らせて、それを陸王と雷韋が飲み込めば。
そこで、いや、どうだろうと思う。紫雲だって未だに実感がないのだ。それでも、様々なことを見せられ、聞かされた。否定することすら億劫になるほど。それでも紫雲の中の理性が言うのだ。全てが本当のことだとしたら、この世界は大変な危機に瀕しているという事になる、と。羅睺がいつ破壊を始めるか分からないのだ。魔族の王となった今、闇の神と対峙できるのは陸王だけだという。だから、陸王の命を狙ってくる者があれば、雷韋と共に護ってやらなくてはならないのだ。いや、護られるよりも、降りかかってくる火の粉は全て自分で払うのではなかろうか。その可能性の方が遙かに高い。あれは黙って護られるような男ではないと思うからだ。
そんな事を考えると、ふっと身体から力が抜けて、気が付けば再び椅子に腰を下ろしていた。
その様子をシリアは黙って見ている。卓上に置いたカップを手に取って、一口お茶を飲むとシリアは語りかけてきた。
「気持ちの整理はつきましたか?」
紫雲は嘆息して、そこでやっとカップを手に取った。すっかり温くなったお茶を一口、二口と飲む。飲み口ががすっきりしていて、なのに香りは芳醇だった。レモングラスの強めの味とミントの爽やかさに加えてカルダモンの香りが調和していて、とても飲みやすい。それを味わってから短く答える。
「頭では」
紫雲の言葉に、シリアは小さく笑った。
「これまでずっと魔族は貴方の敵でしたね。ですが、黒狼は違います」
「それでも、感情としては受け入れがたい。あの紅い瞳は、やはり魔族に連なる者の証です」
「そんなに黒狼のことが憎ければ、赤獅を殺してご覧なさいませ。貴方は黒狼を殺すことは出来ませんが、赤獅なら殺すことが出来ます。そして、結果的に黒狼を殺すのです」
紫雲はシリアを見た。信じられないものを見る目で。
「雷韋君を殺せと言うんですか? なんの罪もないのに」
「本気で黒狼を殺そうと思ったなら、赤獅を殺すのが一番早い道です。あの二人は出会ってしまった。魂は強く惹かれ合っています。その状態であれば、赤獅を殺せば黒狼も長くは保ちません。どうしても黒狼を魔族として許せないのであれば、それが一番です」
仮に、と付け加えて、シリアは紫雲の暗褐色の瞳を見据えた。至極真面目な顔で。
「黒狼をどうにかして殺したとしましょう。その場合でも、赤獅は死にます。そこにあるのは、先かあとかの違いだけです」
「私は雷韋君を殺そうとは思っていません」
「ですが、黒狼が死ねば、赤獅も引き摺られて死にます。魂がそうできているのはご存じでしょう?」
「それは……」
紫雲は苦しげに眉を寄せて、俯いた。
魂は必ず対になっている。どちらか一方が死ねば、残された極も死ぬ。それは必定だ。逃れられない運命。決して曲げることのできない魂の条理。
「私には雷韋君を殺すことなど出来ない。なんの罪も犯していないあの子を殺したいとも思わない」
「でしたら、黒狼を認めてください。心情として、始めから仲間意識を持てとは言いません。けれど、少しずつ分かり合って欲しいのです。黒狼も、白虎を始めから仲間とは思わないでしょう。今生では種族として、役割として、敵対する者同士ですから」
それを聞いて、紫雲は固く目を瞑った。
固く目を瞑ったまま、紫雲は言う。
「それはとても難しい問題です」
「だからこそ、努力をしてください。誰よりも先に白虎を光竜殿へ連れてきたのは、その為なんですから。白虎は天主神神義教の中で育ち、人間族として長く生きすぎました。それを一番に払拭するために来て貰ったのです」
「龍魔さんには、偏った考え方を正すために、と言われました。私はそんなに頑固で傲慢なのでしょうか。人間族とはそこまで?」
紫雲は顔を上げてシリアを見た。どこか思案深げに。
それを受けて、シリアは少し顔を傾けた。
「傲慢と言うより、やはり差別的でしょうか。天主神神義教がとても差別的なので、その中で生きてきたのですから、それはどうしようもないのでは? それを直す、直さないではなく、なくすべきとは思いますが」
「なくす」
シリアの言葉尻を紫雲は鸚鵡返して、言う。
「意識せず身についてしまったものを、なくすことが出来ると思いますか?」
「黒狼と赤獅と共にいれば、いずれは。あの二人は何にも縛られていませんから。白虎は逆ですね。色々なものに縛り付けられている。人間族の考え方、これまでに生きてきた中で身についてしまったものがあまりにも多すぎます」
「それはやはり、天主神神義教のせいなのでしょうか」
「それは大いにあるでしょう。人間族の通念のようなものにも囚われています。獣の眷属から見たら、それが傲慢に映るのかも知れません。それを気にするという事は、獣の眷属である龍魔殿に『傲慢だ』と言われたのでしょう?」
「えぇ」
「精霊のわたくしから見たら、白虎はとても不自由に映ります。これまで不自由な生き方をしてきましたから、そのせいでしょう。ですが、もうそれが当たり前で、不自由とも感じてはいないのでしょうね」
「そんな風に見えますか」
「えぇ、とても。四獣にはかつてと同じように、あるがままに生きて欲しいと思います」
「どう生きればいいのでしょう」
そこでシリアは小さく頷いた。
「しがらみから解かれるには、しがらみのない黒狼と赤獅の元へ行けばいいのではないかと」
「あの二人の元へ?」
紫雲は半ば訝しげな風になった。
それがおかしかったのか、シリアはふふっと小さく笑う。




