迫られる覚悟 三
紫雲の、どこか威圧的な物言いをシリアはなかったことのようにして話を進めた。
「えぇ、人間族は親離れできない子供のように見えます。先ほど貴方は見返りを求めないと言いましたが、見返りはしっかりと求めているのです。何かあるごとに、すぐ天慧に助けを求めるでしょう? 『神よ』と。『神よ、この事態をなんとかしてください』と祈ることと引き換えに、縋るではありませんか。ただ、そう言ったところで天慧は何もしてくれません。当然、光竜も何もしてくれません。獣の眷属はそれを知っているからこそ、光竜に助けを求めることはしないのです。全て自分達の裁量で事をなします。人間族の信仰というものは、代々引き継がれてきたものです。何も疑わず、ただ天慧を崇めます。それは卵から孵った雛が親鳥を親鳥として認識するのと同じ事。人間も言葉に出して言わずとも、同じように刷り込みがあるのです。残念ながら、そこが幼い部分なのですよ。刷り込まれて、自分がなんなのかも分かっていない。人間族の悪いところですね」
シリアが飽くまでも穏やかに言い募る言葉に、紫雲は敢えて何も言わなかった。頷ける部分があるし、また、ない。だからシリアは続ける。淡々と。
「黒狼が魔族と同等の身を持っているとしても、それを意識するのも刷り込みです。魔族は人族にとっての絶対的な天敵ですが、それも必要悪として存在しているのです。それもやはり、人族が増えすぎないように。黒狼が魔族とは言っても、羅睺より一段下の存在だと言うことはお聞きになったでしょう? ただ魔族と同等の身体と言うだけで、ほかの魔族と一緒にしないでほしいのです。黒狼は必要悪としての魔族とは全く別です。間違った認識は捨ててください」
言われても、紫雲は黙っていた。紫雲の中には陸王を魔族として否定する気持ちが強かったし、何より殺されかけたのだ。その事実の方が、重く強い。あのとき、確かに陸王は紫雲を殺しにかかっていた。目が殺意に溢れて、真剣だった。そう思い、自分を正当化してみせるが、心のどこかで引っかかりを覚えてもいた。
あのときは陸王ばかりではなく、紫雲も魔族を殺そうと真剣だった。他人のことは言えないという思いがあったと同時に、それはやはり陸王が魔族だったからだ。ほかの種族であれば、殺そうとは思わなかった。何しろ、紫雲は調伏者として存在しているのだから。誰がなんと言おうと、陸王は魔族だ。いや、それに連なる者だ。高位の魔族より、より強いだろう存在。それを考えると、やはり見逃すことは出来ない。ましてや信を置くことなど不可能だ。鬼族の雷韋ならまだしも。
雷韋のことを思った途端、あの少年は無事なのかと脳裏を過った。魔族と鬼族。敵対し、取って喰らう者と喰らわれる者の関係でもある。それを思うと、急に焦燥感が湧いてきた。その思いに促されるように、紫雲は立ち上がる。
「白虎? どうしました?」
シリアは手にしていたカップを卓に戻すと、突然席を立った紫雲に問いかけてきた。
「雷韋君が心配です」
「あの二人は対です。黒狼が魔族に近いから心配しているのでしょうが、その心配はありません。黒狼は赤獅を決して傷つけたりはしません。そんな事が出来るわけがないのです」
「絶対に?」
紫雲のその問いに、シリアは僅かに視線を俯けた。
「これまでに一度だけあります。黒狼が赤獅に手を上げたことが。その時の衝撃で、赤獅の記憶が飛ぶほど酷く。黒狼はその事を後悔して、赤獅のもとから去ろうとしましたが、結局、赤獅に追いつかれました。一人にしないで欲しいと赤獅に言われて。対なのですもの、それは当然です。出会ってしまったのだから、離れることなど出来ない。黒狼も、それから気をつけるようになりました。赤獅を殴ったりしないよう、自制しています。第一、どんなに喧嘩をしたとしても、離れることなど出来ないのです。あの二人を離ればなれにするには、どちらかを殺すしかないでしょう」
「まさか……!」
そこまで言われるとは思っていなかった。
シリアの悲しげな眼差しが紫雲へと向けられる。
「対とはそういうものです。白虎は青蛇に出会っていないからまだ分からないのです。対とは絶対のもの。特に貴方達はほかの対とは違います。魂自体が人族とは違うからです」
「確かあの二人は完全な陰と陽だと。昨日、龍魔さんに見せられました。それと関係があるのですか?」
「えぇ、あります。太陰と太陽は、互いに陰陽を知らないのです。本来なら僅かばかりある陰と陽がないからです。だから、互いに執着する。己の中にないものだから、必要以上に執着します。出会ったが最後、あの二人は離れられません。意思ではなく、本能で離れることを拒むのです。特に黒狼は、自分を高位の魔族だと思っています。それがずっと引け目だったのです。もし赤獅に知られたら最後、嫌われると思っていましたから。ですが、離れられないのです。赤獅が黒狼の正体を知ったとき、貴方もその場にいましたよね」
「えぇ」
答えた紫雲の心がちくりと痛んだ。どうしてかは分からない。もしかしたら、あの二人の心の内を想像したからかも知れなかった。
「赤獅は黒狼の正体を知っても、離れようとはしませんでしたでしょう? 赤獅の中で、ずっと前から決まっていたんです。絶対に離れないと」
「確かにそんな事を言っていましたが、それでも、種族として放っておくのは危険です」
「お忘れですか? 自分達が四獣だという事を。黒狼はどんなことがあっても、赤獅を粗末には扱いません。黒狼が恐れることの一つに、赤獅が傷つくこと、と言うのがあります。それは心身共にです。赤獅の身に傷がつくことも、赤獅の心が傷つくのも怖いのです。黒狼にとっては、赤獅が全てです。だから、黒狼は赤獅をもう二度と、傷つけない。正体を知られてしまった以上、これからは嘘も偽りも赤獅にはなしです。ただこの先、赤獅を護るために嘘をつくことはあるかも知れませんが」
「そんなに絶対のものなのですか?」
「互いがいなければ生きていけないくらいには」
紫雲はそれを聞いて「そんな馬鹿な」と思ったが、シリアの銀緑色の瞳はどこまでも真剣だった。その瞳には嘘も偽りもない。彼女が本気で言っているのだと分かる。陸王と雷韋の関係性を。大げさなことは一つもなく。
であるなら、紫雲は自分自身の処し方に迷った。どう考えても、陸王と紫雲は敵対する。紫雲にとって陸王は何があろうとも、殺す対象なのだ。だがそうしたとき、雷韋も道擦れで死んでしまう。それ以上に、四獣だとも言うのだ。一人拒否しただけで均衡が崩れると。四獣がいなくなれば、羅睺は嬉々として動き出すだろう。自分を殺めようとする陸王もいなくなるのだし。
だったらどうする?
紫雲は席に着くこともなく、立ち尽くしたまま考えた。
自分と陸王の間に蟠りがなくなれば、それでいいのか? どうやって。陸王は高位の魔族よりも高次元の生物だという事が分かっている。羅睺の直系なのだから。その陸王は羅睺を殺す定めを負っているとも言う。その為に、羅睺は少しずつ心を病んでいった。その羅睺を殺すことが出来るのが陸王だ。何もかも、始めから決まっている。それ以上に、四獣が光竜の懐より排出されたのは、羅睺が世界を破壊しようとするからだ。羅睺が狂うから、四獣が排出されたのか、陸王という父親殺しの子供が生まれるから羅睺が狂っていったのか。鶏と卵だ。それでもどのみち、陸王自身は羅睺とは相対しなくてはならない。血縁のあるなしに関わりなく、羅睺は既に狂っている。四獣が解き放たれたのがその為だというのなら、その通りにしなければならないだろう。その役目を務めるのなら、陸王と反目し合っていては駄目だ。
そう頭では理解出来るが、感情がまだついて行ってくれない。それはおそらく、陸王もだろうと思う。己が何者なのか、なんの為に生まれたのかを知らされれば、混乱する。雷韋も同じくだ。いきなり神だと言われても理解出来るわけがない。理解はしても、戸惑うだろう。どうしていいのか分からなくなるだろうから。少なくとも紫雲はそうだ。感情の処し方が分からない。思考と感情が折り合わないのだ。
「白虎は黒狼のことを知らなすぎるからでしょうか」
シリアが急にぽつりと口にした。




