迫られる覚悟 一
翌日、紫雲は朝食に蜂蜜と檸檬のジャムを使った粥と果物をいくつか供された。こういう食事は教会にいるときにしか口にしなかったので、随分懐かしく思いながら口をつけた。
給仕はシリアがしてくれたが、食事を摂っている間、有り難いことに彼女は紫雲を悩ませるようなことは一切口にしなかった。白虎と呼びもしない。彼女は給仕だけを粛々としてくれたのだ。
昨夜、ガライと話したあと、目を醒ました元の部屋まで彼に案内されて戻ったが、戻った室内は夜という事もあってか、壁の石の光が弱くなっていた。まるで月夜のように、薄闇が室内を満たしていたのだ。眠るにはそのくらいの灯りが丁度よかった。明るいままだったら眠ることは出来なかっただろう。
それなのに朝は目が醒めると、まるで朝の光を壁が素通ししているかのように室内は眩しかった。ただそれも、すぐに気にならなくなったが。目が慣れたのか、光量が落ちたのかは知らない。そのせいか、爽やかな朝だと実感した。
本当にここは、不思議なところだと思う。
紫雲が食事を摂ったあと、シリアは食器を下げてから再びやってきて、そのまま中庭に誘われた。天気もよく、中庭が綺麗だからと誘われたのだ。
実は紫雲は昨夜、あまりよく眠れていない。色々なことを一気に知らされたせいか気持ちが高ぶって、寝台に入っても落ち着くことが出来なかったのだ。眠っては目覚め、目覚めては眠りを繰り返した。第一、ここは自分に相応しくないと紫雲は思っていたから、余計だ。
内情そんなささくれだった気持ちを察してでもくれたのか、シリアの誘いは有り難かった。早く戻らなければと思う反面、まだ冷静に陸王と向き合えるとは思えない。それに何を話すにせよ、龍魔もガライも相手にはしにくい。その点で言えば、シリアが一番慰めてくれそうだとは思う。そんな事を期待してはいけないのは分かっているが。
食事のあとシリアに案内されて、広大な神殿の中を歩いた。シリアの話では、南の中庭が今は一番、賑やかで穏やかだという事だった。南は火を意味し、夏を司っている赤獅殿の方角にあるからだという。
今、季節は夏だ。夏に入ったばかり。春は蘇りの季節で、夏は栄える季節だから、一番活気がある季節ではなかろうか。空気も熱く暖かく、熱量に満ちている。
神殿の中をどう歩いているのか紫雲には分からなかったが、不意にシリアが語りかけてきた。
「懐かしいですね。こうして白虎を中庭に案内するのは何万年ぶりになるでしょうか」
そこまで言って、シリアは慌てたように振り返った。
「あ、白虎はそう呼ばれるのを嫌がっていましたね。ですがわたくしには、貴方がかつてと同じように獣人の姿をした白虎の姿に映るのです。魂で見ているからですね。少しも人間族の姿に見えません」
「そう言うものですか?」
紫雲が困ったように問うと、シリアは決まり悪げに僅かながら笑んだ。
「えぇ。四方神は人族の姿に見えるのですが、やはり貴方達は違いますね。わたくしには、水盤で見る赤獅も赤獅の姿に見え、黒狼は黒狼の姿に見えるのです。それ以外の姿にはとても見えません」
「そうですか」
複雑な気持ちになりながら、紫雲は小さく吐息を零した。
「だから、というのは失礼なのかも知れませんが、貴方のことは是非に『白虎』と呼ばせてください。わたくしにとって、貴方はそれ以外の何者でもないのです」
「えぇ、そうとしか見えないのでしたら」
「貴方が嫌がるのは分かっているのですが、どうしてもわたくしには……」
「もういいですよ。私も昨日色々あって、なんだか疲れてしまって。どうぞ、好きな名で呼んでください」
苦笑を浮かべると、シリアは心配そうに眉尻を下げた。そして胸の前で手を組む。
「白虎、これから貴方には、いえ、四獣には大変な重圧がかかるでしょう。辛いこともきっと多いと思います。ですが、そんなときはわたくし達のことを思い出してください。四獣を護り、導く者です。わたくしも、ガライ殿も、龍魔殿も。決して見捨てることはしません。いつでもどこでも貴方達のことを考えていますから。……信じてください」
真摯な眼差しが紫雲を見つめた。それに対して、紫雲は小さく頷いて返す。シリアもまた小さく頷き、
「では、参りましょう。ここから中庭はすぐです」
どこか取り繕うようににこりと笑ってから前を向き、歩き始めた。
そうして、本当にすぐに紫雲は風を感じた。中庭から神殿の中に入ってくる風だろう。暖かくて、優しい風のように感じる。
だが突然、草木が見えて、紫雲はそれに驚いた。
何故なら、中庭と神殿の建物の区切りがなかったからだ。回廊になっている途中から、既に蔦と緑に包まれている。だからと言って、手入れを怠っているわけでもないようだった。自然とそうなったように見える。話によれば、ここは神代の時代から存在する神殿だ。長い刻の中で、自然と草木と建物が融合してしまったような、そんな不思議な調和がそこにはあった。全く不自然な感じは受けないし、見苦しくもなかった。
「白虎、ここが中庭への入り口です」
案内されたそこは、蔦植物が天蓋と通路を延々と遠くまで作り上げていた。幅は人が三人は並んで歩けるほどある。長く続く通路の所々からは光が差し込んで、緑を色濃く鮮やかに照らしている。植物が作り上げた通路は一本道ではなかった。まるで迷路のように所々で枝道を作り、湾曲して続いている。どこからか、小鳥の囀りも聞こえてきた。
途中途中の分かれ道から続く果ては、どこへ向かっているのだろうか? 紫雲は時々、辺りを見回してみたが、よく分からなかった。
そんな場所であっても、シリアは全く迷いなく、風がそよぐような軽い足どりで進んで行く。
植物の間から時折開けた場所が覗くが、それらはお目当ての場所ではないようだ。とすると、シリアは紫雲をどこへ誘っていくつもりだろうか。紫雲は見当もつかぬまま、目の前をゆく精霊のあとについて行くしかなかった。
そのまま少し通路を曲がったり直進したりしたあと辿り着いたのは、広く開けた丘の麓だった。これまでずっと天蓋の通路を歩いてきたが、そこはすっぽりと天井も何もない小ぶりの丘だ。下草は自然のままに芝生を作り、広場をぐるりと取り囲むようにして出来た草木の壁には、赤や白の小さい花が満開に咲き乱れている。天からは、陽が優しく丘に光を投げかけていた。辺りは芝生と花の放つ、草の香ばしいような匂いと甘い匂いでいっぱいだ。丘の中央には、白い円卓と椅子が置かれているのが見て取れる。
その丘の広さは、麓から頂点まで二〇メートルはあろうか。
「白虎、ここが南の中庭です。覚えていないでしょうが、この中庭や東、西、北の中庭で、その時の季節折々、四獣はよくお茶を飲んでいたのですよ」
「四獣は仲がよかったんですか? 諍いがあったなどと言うことは?」
「そんな事は一切ありません」
シリアは静かに否定する。それどころか、逆に疑問を投げかけてきた。
「何故、そのようなことを? 諍いがあった方がよかったですか?」
「いえ、そう言うことではないのですが。ただ、なんと言おうか、雷韋君ならまだしも、魔族が仲間にいることが不気味でならないんです。仲間だと飲み込めと言われても、飲み込めない」
シリアはそこで、考え込むようにふと目を閉ざしたが、やがて歩き出した。丘の頂点にある円卓へ向かって。紫雲もそのあとに続く。
時折、絨毯のように地を覆っている白いものは白詰草だった。所々に群れて咲いている。
それらを見て、紫雲はなんとも言えない気持ちになった。丘の麓を囲っている草木にも花が付き、咲き誇っている。地にも花が群生している。そしてその中央に、円卓と椅子が不自然なほど自然に置かれているのだ。当然ここにあるものとして、堂々と鎮座している。
紫雲が辺りを見回しているうちに、円卓へとついた。




