第五六話 小心と安堵
雷韋や紫雲を置いてきた場所から随分と離れた森の中で、陸王は木に凭れ掛かって座り込んでいた。そこで紫雲に抉られた腹の傷を回復の術で時間をかけつつも、なんとか塞いだのだ。
今、陸王の中は空虚だった。何かを思い浮かべるたびに、それは全て堂々巡りするか、自分への棘となった。結果、それに疲れて思考を放棄する。放棄すると、また廻り巡って勝手に思考が回り始める。思いを巡らせても何もよいことはないだろうに、分かっていながら止められない。
雷韋は陸王を拒絶しないとはっきり言ったが、今になるとそれも疑わしく思えてくる。それでも雷韋の覚悟には、正直驚かされた。
そもそも、雷韋には正体が知られれば拒絶されると思っていたから、今、陸王はこんな風に空虚になっているのだ。
拒絶されることには覚悟があった。
不安も同時に存在していたが、心のどこかでいつかは知られてしまうだろうという頭があったのだ。そちらの方がまだ覚悟が出来ていた。だと言うのに、雷韋は拒絶はしないと言った。そんな雷韋と、これからどう向き合っていけばいいのか分からない。
陸王の中には、雷韋に対する不信があった。
綺麗事なら誰でも言えると。
要は、陸王があの少年を信じ切れていないのだ。
どこまでも真っ直ぐ見つめてくるあの琥珀の瞳に、自分が違う形で映っているのではないかと訝ってしまう。
傍にいたいのに、いたくないと思ってしまう天邪鬼な自分がいた。
いや、やはりそれも違う。魔族であることは陸王の最大の引け目だ。だから正真正銘、真っ向から信じて、その挙げ句、裏切られるのが怖いのだ。
幼心にも裏切られたことは、未だに癒えない心の傷だった。
二度とあんな思いはしたくない。
だから雷韋を信じ切れないのだ。
裏切られないという保証はどこにもないのだから。
鬱屈した心はどこまでも暗い淵に落ち込んでいく。
終わりのない、底なし沼に沈むように。
果たして、ここにいても雷韋は捜し出してくれるだろうか。存外、今頃になって魔族を恐れて、逃げ出してしまったのではないかと。
時間が経てば経つほど、その思いは強くなった。
雷韋はここまで来ないのではないか? 時間が経つうちに、それが徐々に確信的になっていく。陸王は、そうだ、と思った。裏切られる前に、こちらから裏切った方が気分は楽なはずだと。
そんな思いが、未だに癒えない心の傷を更に大きくしていくだけだと気付きもせずに。
陸王は息を静かに吐き出すと、ゆっくりと立ち上がった。
待っていても無駄だと判断したのだ。雷韋は来ないと。陸王の中の情けない小心がそう判断させていた。
端から見たら、実に馬鹿らしい判断を下したのだと気付きもせずに。
この時の陸王には、雷韋が対であるという意識さえもなかったかも知れない。対は信じるものであって、裏切るものではないということも思考の埒外にあったに違いない。
空を見上げると、もう太陽も傾き始めていた。ここへ来たとき、木々の合間から覗く太陽がどの辺にあったか見ていなかった。けれど、随分と経ったような気がする。
一歩歩を踏み出そうとしたところで、背後から微かに甘い匂いが漂ってきた。どうやら風に乗って匂いが流れてきたようだ。
甘い独特な匂い。おそらく、鬼族だけの特別な匂いだ。はっとして森の中で振り返る。姿はまだないが、ほんの僅かずつ匂いが濃く流れてきた。それに伴って、声のようなものも聞こえてくる。その声音には、少し不安そうな響きが混じっていた。
来たのか?
胸中で呟く。
何故?
立て続けに胸の内で呟いた。
本当に陸王には分からなくなっていたのだ。自分の中にある、暗く凝り固まった感情故に。雷韋が陸王になんと言ったかも忘れてしまっていた。いや、その記憶に蓋をしていたのだ。その上から己の暗い感情を上書きして。こんな状態では気付けるわけもない。
そんな陸王の暗い感情を払拭してくれるのは、雷韋の裏も表もない子供の笑顔と、深い琥珀色をした瞳だった。
雷韋が遠くで陸王の名を呼んでいるのがはっきり聞こえる頃になって、始めて陸王の中で甦ったものがある。
紫雲を迎えに行った教会脇での雷韋の言葉。
──例えば、あんたがあんたである限り、俺はあんたから離れない──
──でも、あんたがあんたじゃなくなったら、俺が絶対にあんたをあんたに戻す。そんで、俺はずっと陸王と一緒にいる──
そんな大切な言葉だった。あのとき、陸王は雷韋の琥珀の瞳に支配されたのだ。さっきも全く同じことを言われた。陸王が魔族だということを、雷韋は端から知っていた。それでもそう言ってくれたのだ。
真っ直ぐに陸王を見つめて。
あの日も、今日も。
なんという愚か者だと思った。雷韋が、ではなく、己が。聞いていたはずなのに、聞いていなかった。見ていたはずなのに、見ていなかった。陸王は自分で自分に目隠しをし、耳を塞いでいたのだ。そのことにやっと気付いた。二度も見聞きしていたはずなのに、今更。
声が随分と大きくなって、藪をがさがさ言わせているのも聞こえてきた。
「雷韋、ここだ」
声をかけてやると、
「ん? お? あー! 陸王やっとみっけた! ここに来るまで俺が呼んでたの聞こえなかったのかよ? 陸王のこと呼んでたし、気配は段々大きくなっていくのに返事しねぇんだもんよー」
声変わりもすんでいない声を張り上げて、藪をがさがさやって飛び出してくる。飛び出したのはよかったが、飴色の髪には葉っぱが何枚もついていた。
陸王は雷韋の文句など構いもせずに言う。
「頭が大変なことになってるぞ」
「んん?」
妙な呻き声を出して、髪の毛を確かめる。
「あちゃー、葉っぱだらけだ。ここに来るまで大変だったもんさ」
言いながら、雷韋は確認出来た分だけ葉を取り払ったが、それでもあまりがあった。その残りを陸王が取ってやる。
「あんがと。全部取れたか?」
「あぁ」
妙にほっとした気分で雷韋と顔を突き合わせることが出来て、陸王自身、心の隅で驚いていた。
何かもっと違うことを想像していたはずだ。だが、雷韋の顔を見た途端、氷塊が溶けるようになくなってしまって、それがなんだったか今では確認も出来ない。
「あの二人はどうした」
「ん? 紫雲とあの男の人か? 大丈夫だよ。なんにも心配することない。男の人も俺が解呪して、そのあと大地の精霊で精気を入れてやったから、かなり元気になったよ。村のある方向を教えてやって、金を少し渡して、鍵開け道具以外の俺の荷物は全部あの人にやった。村の方角しか教えてやれなかったけど、多分大丈夫だと思う」
そう言われてみれば、雷韋の格好はすっきりしている。腰に財布と鍵開けの道具が入った入れ物を括り付けているが、それ以外は水袋さえなかった。
「あの男から何か話は聞いたか?」
陸王は少し考えてから雷韋に問うた。
「ん~、それがさぁ、記憶が曖昧だって言うんだよな」
「記憶が曖昧か。だが、妖刀を手にしたことくらいは覚えているだろう」
それに対しては雷韋も頷き、話しだした。
あの男に記憶ははっきりなかったのだというところから。
話を聞けば、どうして妖刀を手にしたかすら覚えていなかったらしい。ただ男の言うには、気が付いたら刀を手にしていて、自分が護衛していたはずの商人とほかに護衛についた傭兵達を殺したあとだったと言うのだ。馬まで首を刎ねてあったと。
その間の記憶は全くないらしい。男はその惨状に恐れをなして逃げ出した。その時はたまたま自分達しかいなかったので目撃者もなかったようだが、自分が斬り殺した者達を見られれば、すぐに近くの町に連絡が届くだろう。仕事を請け負った斡旋所で商人の身元が知れれば、その時の護衛もあっという間に分かってしまう。
結果、男はどこを目指したわけではないが、その場から逃げ出した。手配されないうちにと。そこでまた記憶がふっつりと途切れて、気が付いたら雷韋がいたというのだ。森の中へ入った記憶もなかったが、男に自覚がなかっただけで森に入ってきたのだろうと語っていた。
雷韋の話を聞いて、陸王は僅かばかり考え込む。
「ってことは、俺達と出会すまでのほとんどの時間、あいつは妖刀に意識を操られていたってことか」
「俺もおんなじこと考えた。だからそれ以上は聞かなかったよ。怯えてたし。俺はあの人にはなんの責任もないと思ったから、逃げろって言っておいた。日付の感覚も分かんなかったみたいだし、だからいつ人を殺してきたのかも分かんなかった。第一、あの人だって被害者だ。殺したくて殺したわけじゃないんだ。全部、魔族が仕組んだことだろ?」
「まぁな」
陸王は何も聞き出せなかったことを残念には思ったが、雷韋から聞いた限りでは、それ以上は聞くだけ無駄だとも思った。だから頷いてから、もう一度話を振った。
「で、もう一人はどうした」
「うぇ? 紫雲か?」
「あぁ」
「……知んね」
それは雷韋には珍しく、放り捨てるような言いようだった。
「あのまま見捨ててきたのか?」
「そんな馬鹿なことするもんか!」
さっきの言いようと比べて、今度は半ば怒ったような調子だった。その変化を妙に思ったが、陸王は続けて問うた。
「だったら、どうなった」
「怪我は治ってる。でも、そのあとは知らね。目を醒まさなかったから、置いてきた。でも、あんなことがあって連れてくるわけにはいかないだろ?」
それを聞いて、陸王は本格的に妙だと思った。言いようが、どこかちぐはぐなのだ。感情を捨てたような言い方をするかと思えば、怒ってみたり、言い訳じみていたりする。感情が入っているときの話し方は、いつもの雷韋だ。なのに、紫雲のことは知らないと言った時は、完全に感情が抜けていた。
まるで、何かを隠しているように。
陸王は目を眇めて雷韋を見た。
「本当にあいつのことはどうでもいいのか?」
「そんなの! そんなことないけど、でも、連れてはこれない。俺は、陸王にも紫雲にも争って欲しくないんだ。殺し合いなんて、絶対に駄目だ」
今度の返答には、確たる雷韋の意思があった。
「怪我は治した。でも、目が醒めなかったから仕方ないじゃんか」
雷韋は、本当に苦しげに言う。陸王を見ていなかったが、その表情は苦しくて苦しくて堪らないと言った顔だった。心配はしているが、本当にどうしようもなかったのだと言った態で、陸王はその様子を紫雲を置き去りにしてきた後ろめたさ故と判じた。




