被食者 三
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雷韋が流していた血の色は、もう黒から赤に変わっていた。身体から完全に魔気が抜けた証拠だ。それに伴い、出血の量も減る。
ごつごつとした岩穴の牢の地面に、雷韋はまだ意識を失ったままで倒れている。
俯せで倒れているその雷韋の肩を揺さぶる者があった。
揺さぶる手は小さい。
雷韋が、ん、と呻くようにして目を醒ますと、金糸銀糸で模様をあしらった白い服が琥珀の瞳いっぱいに広がった。初めのうちはそれがなんなのか分からなくて、雷韋はぼうっとしていたが、肩をまた小さな手で揺すられた。
「お兄ちゃん、起きて」
小さな子供の声が頭上から降ってくる。
はっきりした記憶ではないが、雷韋は何度か同じ言葉を耳にしていたような気がする。ふと視線を上げると、眩いような白銀の髪を肩まで伸ばした、人間族で言うなら七つか八つほどの子供がしゃがみ込んでいるのにやっと気付いた。それを認識して、雷韋は両手を使って起き上がる。
起き上がり、辺りを見回してやっと牢のようなものに入れられていることに気付いた。ここに入れられるときにでも頭をぶつけたのだろうか。片方のこめかみの辺りがひりひりと痛んだ。触ってみるが、怪我はしていないようでほっとする。入れられている牢獄のようなものは洞窟の歪曲した先にあるのだろうか、ここからでは直接外が見えずに間接的に光が届いている。
「お兄ちゃん、怪我は平気? 痛くない?」
不意に子供が話しかけてきて、そのお陰か、雷韋の頭に漂っていた靄が消え去った。怪我というのは火影で斬った腕の傷だろう。
「あぁ、平気だ。ところでお前、誰だ? ここってどこだ?」
雷韋は辺りを見回しながら問う。すると子供は、幼い声で躊躇いがちに答えた。
「えっと、ここは魔族の巣だよ。時々、ここにどこかから攫ってきた人を閉じ込めるんだ。ここに入れられた人は、あいつの餌なんだよ。そのうち、食べられる」
「餌? え……!?」
餌だという事に驚いたが、それよりも更に驚くことがあった。
小さな子供の背中に、真っ白な翼が一対生えていたからだ。
白銀の髪、白い翼。それに、碧の瞳。この子供は天使族だ。有翼族の翼は大概、黒か鳶色だ。白い翼を持つ者もいるが、有翼族の中には碧の瞳の者はいても、白銀の髪の者はいないと聞いている。それに白銀の髪は天使族に多いとも聞く。その子が着ているものも、法衣のような独特なものだった。
「お前、天使族か?」
慌てるあまり、つっかえがちに問うと、子供はにっこりと笑った。それが答えだった。
「でも、天使族は天慧と一緒に『天界』って言う別の次元にいるんじゃなかったか?」
雷韋の言葉に、ふと天使族の子供は悲しげな顔になる。
「天上にはね、行っちゃいけない場所があるの。そこは結界が切れる場所だって言われてる。僕、友達とかくれんぼしてて、絶対に見つからない場所に隠れようと思って、行っちゃいけない場所に行って、穴に落ちちゃったんだ」
「それで地上にきちまったのか。あの魔族達、陸王を殺したら天使族を食わせてやるとか言ってたな。それがお前かよ」
唇に拳を当てて、雷韋は独り言つように言った。半分は天使族の子供にかけたものだったが、もう半分はほとんど考えながらの独り言だ。
その時、ふと雷韋は子供の方を見て言った。
「そう言や、お前、なんて名前だ? 俺は雷韋ってんだ。鬼族ってい言う、獣の眷属だ」
子供は瞬間、驚いたようにぼうっとした眼差しを向けてきたが、すぐに笑みを浮かべて答えを返してきた。
「僕はアシュラーゼ。みんな、アッシュって呼ぶよ」
「そっか、アッシュか」
雷韋はアシュラーゼの頭を一撫ですると、問う。
「お前はさ、いつからここにいるんだ? 天上界から落ちてきて、どのくらいになる?」
アシュラーゼは少し考えてから答える。
「もう、分かんない。ずっと……ずっと前からだよ。攫われてきた人達は、みんな食べられた。僕はそれを見ていることしか出来なかった」
「お前以外はみんな食われたのか」
アシュラーゼはその言葉に頷くでもなんでもなかった。ただ視線を下に落として悲しい顔をするばかりだ。
雷韋はどのくらいの間、この子が惨劇を見てきたのだろうかと思う。雷韋だって魔族は怖い。人族として、本能的な恐れがある。この子もどれほど怖い思いをしてきたか。そこで雷韋ははっとなる。
神聖魔法はどうしたのかと。魔族相手になら使えると思ったのだ。対魔族専用の魔術のようなものだからだ。それ以上に、神聖語は天使族が普段使っている言語の筈だ。
「なぁ、アッシュ。お前、天使族なら神聖魔法が使えるだろう? どうして使わないんだ? 使っていたら、魔族なんて怖くないはずだ」
雷韋のその言葉に、アシュラーゼは緩く首を振った。
「あいつより、僕の魔力は低いんだ。僕が神聖魔法の詠唱をしても意味ないよ。魔代魔法に負けちゃった」
「そうなのか? 神聖魔法は魔族には覿面だって……」
雷韋の尻窄みの言葉を聞いても、アシュラーゼは首を振った。
雷韋は落胆したように俯いたが、すぐに顔を上げる。
「魔族はいないのか? だったら今のうちになんとか逃げ出さねぇと」
言って、雷韋は牢の格子にしがみ付いた。出入りする扉の鍵を確認したが、そこには鍵穴のようなものがない。扉の格子をがちゃがちゃと押したり引っ張ったりしたが、まるで開く気配もなかった。
「魔代語で封をしてあるから、開けられないよ。僕でも無理」
雷韋の様子を見ていたアシュラーゼが、眉を八の字にして言う。
「魔代語か。参ったな。せめて根源魔法だったらよかったのに」
「お兄ちゃん、ここじゃ魔術は使えないよ」
「え?」
言葉と同時に雷韋は振り返った。アシュラーゼは悔しそうな顔をしている。
「この牢には魔代魔法で術がかけられてる。だからほかの魔術を使おうとしても使えないんだ。ここに連れてこられた人達で、魔術を使える人はみんな試したけど、駄目だった」
「じゃあ、俺も駄目かな。これでも神様認定してくれてるらしいんだけどなぁ」
「神様?」
アシュラーゼがきょとんとして鸚鵡返す。
「そ。生まれ変わりだとか言われた。まだこの世界が神代の頃にいた赤獅の魂を持ってるとかなんとか。いきなり信じられるわけじゃないんだけどさ、それを教えてくれた人の言うことに何から何まで矛盾がないんだよ。変だと思うところも全部きちんと説明がついた。だから、もしかしたらもしかするのかなって思ってる。うん」
雷韋は自分の言葉に自分で曖昧に頷いた。
それを見て、アシュラーゼが問うてくる。
「じゃあ、お兄ちゃんは何が出来るの?」
「俺が得意なのは精霊魔法だ。ほかに、根源魔法と召喚魔法も使える。あ、神代魔法も一応使えるけど、今の俺じゃ、何が起こるか予測不能だ。俺が未熟だから、光竜が使ってたようなでかい魔術を自在にってわけにはいかない。残りは人間達の盗賊の技だな。俺は盗賊組織で育ったんだ。だからこの鍵が普通に鍵穴でもあれば抜け出せたけど、鍵穴がないんだもんなぁ。その上、魔代語で封じてあるとか。これじゃ、出たくても出らんないよ。……って、全然、神様っぽくなくてごめんな。まだ俺も実感ないんだ」
へらっと笑う雷韋にアシュラーゼは首を振る。
「うぅん」
アシュラーゼは首を振って、それでも雷韋を見つめてくる。
「ねぇ、お兄ちゃん。魔族が戻ってくるまでここにいるの? 戻ってきたら、食べられちゃうんだよ?」
雷韋はそれに対して軽く笑顔を見せた。
「勿論、黙ってなんていないぜ。こうなりゃ、力技だ」
雷韋は左手に火影を召喚しようと集中した。頭の中に火影の赤い姿を思い浮かべる。すると、掌に火影が現れた。現れはしたが、どうしてか火影本体よりも先に反応する火が顕現しなかったが。
それを不思議に思いながらも、
「召喚なら出来るのか。召喚獣はどうだろう」
ぶつぶつと呟いて、言霊封じになっている術を顕そうとしたが、それは出来なかった。魔方陣も召喚円陣も展開しない。




