迫られる覚悟 六
瞼を開けると、紫雲は言った。
「ですが、もういいです。これから私の身に何が起こるとも知れませんが、時間がないのですよね。色々と。だから今のこの時期に私をここへ連れてきた。だったら、向き合うしか私には手がないじゃないですか」
「そうですね。時間をあげられなかったのはわたくし達の落ち度です。それはいくらでもお詫びしましょう。ですが、これ以上は何を言っても堂々巡りになります。分かってください。……ごめんなさい」
シリアは視線を俯けるようにして、そう言うのが精一杯という風だった。
実際、彼女らにとっても、紫雲のこの時期というのは全く間の悪いものであったのだろう。それはシリアが言っていたとおりでもある。本当なら、もっと信頼関係が構築されるまで時間をおいた方がいい。だが、それは出来なかった。魔族の動きと紫雲が陸王達の前に現れた時期が、一緒くたになってしまったからだ。それは彼女らの責任ではない。飽くまでも間が悪かっただけだ。その事は紫雲にも理解出来る。
どうしようもなかったのだと。
だから、紫雲はもうこれ以上考えるのを諦めた。目の前の現実に対して、嫌だとばかり言っていられない。目を逸らした分だけ、何かが悪い方向へ転がる気がする。だから、自分の気持ちをもう考えない方がいいと思った。だったらいっその事、現実を見据えるだけにしようと思う。
紫雲は再び立ち上がると、シリアに陸王達のもとへ戻りたいと伝えた。
彼女は頷き、
「龍魔殿かガライ殿のどちらかが、黒狼達の近くに転移の門を開けるはずです」
そう言って、紫雲と同じように立ち上がる。
「転移の門をどこにでも開けるとは、よく出来ていますね」
やや、嫌味な言い方をする。それでもシリアは小さく笑うだけで、気分を害することはなかったようだ。それどころか、優しい笑顔を見せる。
「あの二人にとって、世界のどこに転移の楔を打ち込んだかを覚えることなど児戯に等しいのです。それだけ長い間、この世を見てきたという事でもありますが」
優しい笑みの中に、ほんの少しだけ切なさが滲んだ。
その笑顔の意味は、この世界にとっての良いことも悪いことも見てきたという意味だった。世界を見守り、時には流され立ち止まり、それぞれの思いが積み重なっている。そう言う意味の笑顔だ。
紫雲には計り知れない時の中を生きてきた者達の軌跡が、転移の楔となって現れているのだろう。実際、龍魔は世界のどこにでも転移の門を開くことが出来ると言っていた。それも長い時をかけてきたからこそ、出来たことなのかも知れない。
それを思うと、膨大だ、と思う。
彼女らの生きてきた時間が。
その時、唐突にシリアが紫雲に向けていた顔を別の方向へと向けた。紫雲もあとを追うようにして、シリアの向いた方向に顔を向ける。
向いた先、丘の麓には龍魔とガライが立っていた。ここまで紫雲がシリアに連れられてきた、天蓋の通路の出口に立っているのだ。
それを見て紫雲は瞬時に、シリアに自分の身の振り方を決めさせるよう龍魔が仕向けていたのかも知れないと思った。飽くまでも勘でしかないが、そんな気がする。シリアが三人の中で一番当たりが柔らかいだろうからだ。諦めからであろうが、現実と向き合うように仕向けられていたのかも知れないと思うと僅かばかり腹が煮えたが、すぐにそれは新たな諦めに取って代わった。どうであろうが、掌の上なのだ。彼女らは無駄に長い時を生きていない。頑固な石頭をどうやって懐柔すればいいか、龍魔もガライも事前に考えていたのだろう。その為の緩衝材として、役割はシリアが担うことになったのだ。これまで自分達を見てきたと言っていたが、本当によく自分のことを知っていると紫雲は思う。打ち込んできた楔を一つ残らず覚えているように、紫雲をどう懐柔すればいいかなど、それこそ児戯に等しく簡単なことだったろう。これまで現れたという四方神達も、この三人によって懐柔され、掌の上で踊らされていたのかも知れない。取り違えという不幸が起こったことは、彼らにもどうしようも出来ないことだったかも知れないが。それとも、この三人なら取り違えも含めて、全てが掌の上のことだったのか? 世界が滅びる危険さえあったというのに?
紫雲には、彼らが何をどこまで考えているのか、全く読めなかった。だからシリアに問うた。
「教えてください。貴方達は何を考えているのですか」
その問いに、シリアはきょとんとした顔をする。
「『何を』とは?」
「全てです。私が現実と向き合うように仕向けたでしょう。この場合、貴女が私の混乱のはけ口となったように」
紫雲の言葉の中に怒りを感じたのか、シリアは薄く笑う。
「全ては光竜の思うままにです。白虎に時間がなかったのも、光竜の定めたところでしょう。申し訳ないとは思っていますが、わたくし達はそれを受け入れて、貴方にもそれを受け入れて貰わなければならなかっただけです」
「長く生きている分だけ、役者が上という事ですか」
紫雲は目を眇めてシリアを睨み付けた。けれど、それも笑みに受け流されてしまう。
「わたくしは白虎と話をしていて、一つも嘘は言っていません。全て事実を言いました。その上で、白虎は現実と向き合うと決めてくれたのでしょう?」
「貴女達の役者ぶりは凄いですね。それが『魂を選定し、管理の名の下に時に縛り付ける者』と言う貴女の役割という事ですか」
「そうですね。ですから、白虎の言葉はお褒めの言葉と受け取っておきます」
そう言って、笑みを深くする。その様は、紫雲の方が晴れ晴れとするくらいさっぱりとしたものだった。はっきり言って、毒気を抜かれた気分だ。
「それでは参りましょう。鏡の間へ」
鏡の間とは、あの銀色に輝く水盤があった部屋のことだ。
「転移の門を開くためにも、黒狼と赤獅が今どこにいるのか知らなければなりません」
「あの水盤なら、彼らを映し出せるという事ですね」
「その通りです。あの二人がどこにいるのか分からなければ、転移の門を開くことも出来ませんから。それに、白虎の服も修繕してあります。旅を続けるにあたっても、着替えた方がいいでしょう」
そう言うだけ言って、シリアは足先を龍魔達の方へと向けて歩き出した。
紫雲は深い溜息をついてから、精霊のあとを追うしかなかった。
これ以上を考えるのは、正直馬鹿らしいとさえ思ってしまった。おそらく無駄な思考になるのだろう。本当に、提示された事実だけを見なければ、馬鹿馬鹿しくてやっていられない。




