5.婚約者「婚約破棄はいたしません!」
1.
ヘルファンド公爵邸の客間の一つは、ひどくお堅い印象を与える仕様にしてあった。
あまり曲線を使わない家具に落ち着いた色合い。
飾ってある白百合の花がこの部屋の清廉潔白さを際立たせていた。
ヘルファンド公爵夫人は侍女のティナに言いつけ、スローアンをその客間に通させた。
スローアンは例のヴィクターの件とブリジットとの婚約の件について、直接話をしに来たのだった。
ヘルファンド公爵夫人の方も用件は薄々と分かっていたので、急いで別の侍女のウィニーあれやこれや厨房への注文を伝えると、こそっと逃げようとしたブリジットの腕を引っ張って、急ぎ足でスローアンの待つ客間へと渡っていった。
「お待たせいたしました、スローアン様」
ヘルファンド公爵夫人はぎこちない挨拶をした。
そして変に探りあっても無駄だとばかりに、単刀直入に切り出した。
「こちらに来られたのは、やっぱり例の噂の件でしょうか?」
スローアンは挨拶のために立ちあがっていたが、
「ええ。まあ」
と頷くと、
「ちゃんと本人の口から説明していただこうと思いまして」
とブリジットの方へ歩み寄っていった。
柔らかい物腰だが、何やら圧を感じさせる。
ブリジットは固い表情のまま微動だにしない。
「ブリジット!」
ヘルファンド公爵夫人が何か言いなさいとブリジットの背中を押す。
「はあ……」
ブリジットは困ってしまって生返事をした。
ついさっきの母との会話で、たとえ首尾よくスローアンとの婚約が破棄されたとしても、その後ヴィクターと婚約させられてしまうことが分かり、まだ頭の整理がつかないのだ。
説明ですって? ヴィクター様とのことは完全に自作自演のお芝居ですけどね、それを今ここでスローアン様にばらすわけにはいかないし、かといってそれに全力で乗っかっていいのかも分からないわ!
ブリジットが口を噤んでしまったので、スローアンはちょっと顔を顰めた。
「……? ねえ、ヴィクター・ロイスデン殿のことが好き?」
「え~っと……」
ブリジットは返事に困って、口をもごもごさせている。
ヘルファンド公爵夫人がしびれを切らして、もう一度ブリジットの背中を押した。
「ブリジットったら! どうして説明しないの?」
「……」
ブリジットは泣きたい気分だ。
ヴィクター様が好きかって? だって、「いいえ」と答えたらスローアン様との婚約は継続になっちゃうし、「はい」と答えたら(婚約破棄はいいものの、その後)ヴィクター様との婚約が決まってしまうんでしょう?
どっちがマシかなんて今すぐ決められないわ……。
「なぜ黙っているんです? 私を前に遠慮しているのですか?」
スローアンは少しキツめの言い方をした。
ヘルファンド公爵夫人が焦った。
「すみませんわ、ブリジットったら。わたくしから代弁いたしますと……」
「お母さま! ちょっと黙ってて!」
余計なことを言われてはとブリジットは慌てた。
スローアンは急にふっと笑った。
「ブリジット様。まあ、いいです。あなたが『はい』とも『いいえ』とも言わないので、逆に確信が持てましたよ」
ブリジット様がヴィクター殿のことを好きだなんて嘘、といったロジャーの言葉がスローアンの脳裏に甦る。
「か、確信?」
「ええ。だからもう、今日はお伝えすることだけお伝えできればいいやと思っています」
スローアンは微笑んだ。
この状況で微笑まれると、ブリジットは逆に寒気を感じる。
スローアンはブリジットの手を取ってまっすぐに見つめた。
「はっきりお伝えしておきますね。私はあなたとヴィクター殿とのあんな噂、どっちでもいいんです。私自身は婚約を破棄するつもりはありませんから」
「え!?」
「まあ!?」
ブリジットとヘルファンド公爵夫人は同時に叫んだ。
二人とも微妙な顔だった。
ヘルファンド公爵夫人の方は、自身がお膳立てした婚約が継続されるということでほっとした半面、ブリジットがヴィクターのことが好きだと信じているので、娘の気持ちを想うと微妙だった。
ブリジットの方は、婚約破棄のために変な小芝居まで打ったのに「婚約破棄はないから」と言われたので、苦労は何だったのと絶望していた。
ブリジットは何か言い返さねばと思った。
「で、でも! でも、ですわよ。もし私がヴィクター様と恋仲だったとして、それでもスローアン様が婚約を破棄しない理由ってなんですの? 浮気(仮)されてるんですのよ? 私との婚約には浮気(仮)を帳消しにできるほどのメリットはありませんでしょう? 見栄的なものですか? でしたら、ジェラード公爵家の面目を壊さないくらい、うちからたんまり違約金はお支払いいたしますから」
違約金という言葉が出てきたのでヘルファンド公爵夫人は窘めた。
「こら、ブリジット! 払うのはお父様でしょ」
「おや? ヘルファンド公爵夫人まで婚約破棄を望まれるのですか?」
スローアンが鋭い目を向けた。
「あ、いえ、そういうわけではございませんけど……」
「違約金だなんて下世話なお話は止めてください。婚約に当たっては私だって『妻はブリジット様ただ一人』と相応の覚悟を決めて臨んでいたのです」
スローアンは牽制するようにはっきりと言い切った。
「ま、まあ、スローアン様、なんて男らしい!!」
ヘルファンド公爵夫人は立場を忘れてメロメロになった。
「う……」
ブリジットは母親がうまく丸め込まれてしまったので、状況が悪くなったと冷や汗をかいた。
「婚約は破棄いたしませんよ」
スローアンはブリジットを挑発するように言った。
だからもう、変なこと画策しないでくださいね!
「もちろん、ヴィクター殿とはきっぱり別れていただきます。もしその浮気とやらが本当だったらの話ですけどね。だから、ヘルファンド公爵夫人もよく理解なさってくださいね。娘の恋心に寄り添ってやりたいとかいう配慮はいりませんからね」
スローアンは柔らかく、しかしはっきりと言った。
「ええ! わかりましたわ! こんな風に思われて、ブリジットだって幸せですわ!」
ヘルファンド公爵夫人は完全にスローアンの男っぷりに惚れて、涙を流さんばかりに感激している。
げえええ~。
ブリジットは心の中で膝をついた。
う~ん、スローアン様ってこんなキャラだったっけ!? けっこう強硬派!
ってゆか、『もしその浮気とやらが本当だったら』って、もしや小芝居がバレている!? いやまさかバレる要素はないはずよ、ヴィクター殿とは公衆の面前で想いを伝えあったことになっているのだし。でも、スローアン様が疑っているのはひしひしと伝わってくるわ……。
こりゃ~敵も手強いぞ、という思いがブリジットの中でむくむくと強まっていった。
やばい、私の引きこもりぐうたらライフが危機だわ!!!
何が何でも、婚約は破棄しなくちゃ!
さあどうする!?
次の手を考えるわよ!
ブリジットはきゅっと眉を寄せ、口を窄めた。
「スローアン様。ヴィクター様の件で婚約が破棄されないこと、理解いたしましたわ。では、今日のご用件はこれで終わりですわね。ではお帰りくださいまし」
スローアンは寂しそうな顔をした。
「そんな追い出すような……私は婚約者ですよ。しかもあなたをお慕いしている」
「まあっ♡」
とヘルファンド公爵夫人はスローアンの直球の愛の言葉に、さらにスローアンのことを好ましく思った。
しかしブリジットは取り付く島もない。
「私は忙しいんですの」
部屋にこもりっきりのブリジットが何が忙しいことがあるもんか……。
しかし、確かにブリジットの頭の中は次の手のことでいっぱいで、スローアンの『あなたをお慕いしている』は耳に入ってこなかった。
ヘルファンド公爵夫人は、すっかりスローアンに丸め込まれていたので、ここまで言ってくれたスローアンに冷たすぎるのではないかとブリジットを詰りたい気分だったが、しかし先ほどヴィクターへの気持ちを聞かされた今、ブリジットにも考えたいことがあるのだろうと思いなおした。
「ブリジットもこう言っておりますから、スローアン様、今日のところはお引き取りなさって……」
いまいちブリジットに自分の気持ちが伝わったとは思えなかったスローアンは消化不良な顔をしたが、ヘルファンド公爵夫人にまで言われては仕方がない、帰路につくことにした。
まあでも、よい。
ブリジットには「婚約破棄はしない」とはっきりと伝えることができたのだから。
2.
その頃、ブリジットの父、ヘルファンド公爵は自身の妹の嫁ぎ先であるウィルボーン公爵家に駆けつけていた。
ヘルファンド公爵はブリジットの噂話を聞くや否や、急に険しい顔になって屋敷を飛び出したのである。
ブリジットは父が飛び出して行ったと聞いて、ジェラード家かロイスデン家かとびくびくしたものだったが、事は、もう少し複雑だった。
ヘルファンド公爵が一番に引っかかったのは『ブラッドフォード公爵家とロイスデン侯爵家のつながり』であった。
ウィルボーン公爵と夫人(妹)は屋敷の奥まったところにある客間にヘルファンド公爵を通すと、人払いをした。
「こんな込み入ったときに、わざわざ来てくれたことに感謝する」
とウィルボーン公爵は言った。
「そうね。可愛いブリジットのあんな噂が流れているのに……」
ウィルボーン公爵夫人も控えめに言った。
ヘルファンド公爵はそれには首を振る。
「なに……ブリジットのことはいいのだ。どうせあいつのことだ、くだらんことでも考えているのだろうから」
ヘルファンド公爵は娘のことをよく理解しているようだ。
「それよりも、ブラッドフォード家にロイスデン家の息子が顔を出していたということの方が気にかかってね」
ヘルファンド公爵は低い声ではっきりと言った。
「ああ。ブリジットはロイスデン家の息子とブラッドフォード公爵家で会ったんだってね。しかもロイスデン侯爵は不在で。父親不在で息子が呼びだされているというのは、ロイスデン家とブラッドフォード家の親密さを感じさせる」
ウィルボーン公爵は口元の髭を撫でながら相槌を打った。
ヘルファンド公爵も肯く。
「そうだ。ここまで表立った関係は見られなかったのに、だ」
「噂では、ブラッドフォード家の次女ソフィア嬢が、ロイスデン家の息子と婚約するんじゃないかと言われていたようですわ」
ウィルボーン公爵夫人もそっと口を挟んだ。
「これまで交流のない家同士で婚約話が浮かぶことはあまりない。何かしらの繋がりがあったはずだね」
「そうだ。しかも裏の、ね」
ヘルファンド公爵とウィルボーン公爵は顔を見合わせた
ウィルボーン公爵夫人は口惜しそうに言った。
「ロイスデン家は盲点でしたわ。これまでブラッドフォード家とのつながりがあるとは思っていなかったので、あまり調べていないのです」
「一度洗ってみた方が良いな」
ヘルファンド公爵は大きく頷いた。
ウィルボーン公爵が皮肉げに眼を上げた。
「にしても、よりによってロイスデン家か。君の政敵じゃないか」
ヘルファンド公爵もそれを受けて少し面白そうに口の端を歪める。
「なあに。政敵と言っても、税制上の意見が食い違うだけださ。ははは。というか、ちょうどよい具合に、ブリジットといらん噂が流れているね。うちが調べよう。表立って動いても、(ブリジットの件だと思い)誰も怪しまないだろうからね。時間が短縮くできるだろう」
ウィルボーン夫妻もふっと笑った。
それからウィルボーン公爵夫人が感謝の目を向けた。
「お兄様、ありがとう。こんなにもキャスリーンを気にかけてくれて」
ヘルファンド公爵は敢えて笑って見せた。
「なに。同じ引きこもり娘を抱えている仲じゃないか。そのキャスリーンは元気にしているか」
「ええ。落ち着いていますわ」
「キャスリーンの息子も?」
「……ええ。こんな形の孫ですけれど、孫は可愛いわ」
ウィルボーン公爵夫人は複雑そうな顔の中に笑みを浮かべた。
キャスリーン・ウィルボーン公爵令嬢。
以前、王太子妃の最有力候補に挙がっていた女性。
容姿・家柄・基質と、誰も文句は言わせない確固たる存在感を放っていた。
しかし、ある日キャスリーンは、見ず知らずの貴公子と出会った。
ゆるやかな長い金髪を後ろに束ねた、青い目の、なんとも整った顔立ちの青年だった。
彼は、グレッグ・スラッテリーと名乗った。侯爵家の縁だと言う。
確かに生まれながらの気品のようなものが漂い、流麗な物腰がキャスリーンの目を捉えて離さなかった。
キャスリーンはすっかり恋に落ちてしまった。
王太子妃の第一候補という立場など、もうキャスリーンにはどうでもよかった。
キャスリーンはその恋に溺れ……しばらくしてキャスリーンはおなかに子どもが宿ったことに気が付いた。
キャスリーンは嬉しくて、頬を紅潮させながら、グレッグに妊娠の報告をした。
無邪気なキャスリーンはこれで彼と結婚できると信じて疑わなかったのだ。
しかし、その報告を受けたグレッグは、微かな驚きとともに哀しい目をして、……そして行方を晦ませてしまったのだった。
グレッグから手紙が一切こなくなったキャスリーンは不審に思い、グレッグ・スラッテリーという人を調べさせた。
しかしそんな人物は誰も知らなった。
素性を隠し、その時だけ優しくして……。彼にとって私は、ただの遊びだったということ?
私は騙されていたの?
キャスリーンは絶望した。
急に一歩も部屋からでなくなった娘を心配して、ウィルボーン公爵夫妻が何とかキャスリーンの口を割らせると、キャスリーンは妊娠と相手の蒸発という状況を白状した。
……ウィルボーン公爵夫妻は愕然とした。
王太子妃候補という期待される立場を台無しにされた悔しさもあったが……。
そんなことより、娘を傷つけ、ぽんと捨てた男が許せなかった。
草の根分けても相手の男を探し出し、一言でいい、謝罪の言葉を引き出してやる!
ウィルボーン公爵は怒り心頭で、心に誓ったのだった。
キャスリーンは『病気』ということで屋敷に籠もることになり、王太子との婚約は辞退することになった。
そうしているうちに、ブラッドフォード公爵家のレベッカ嬢が王太子妃候補に挙げられ、やがて盛大な婚約発表があった。
ウィルボーン公爵夫人からこっそり状況を聞かされたヘルファンド公爵は、ある疑念を感じた。
キャスリーンはグレッグと、ブラッドフォード公爵家主催の舞踏会で出会ったという。
そのブラッドフォード公爵家の娘が王太子と婚約した。
初めから、なにか仕組まれていたとしか思えなかったのだ。
お読みくださいましてありがとうございます!!!
凄く嬉しいです!!!
主人公の従姉が出てきました。
やがてブリジットの一連の突飛な行動がこの従姉を救うことになる……はず。
が、まずは次回、ブリジットがまたしても婚約破棄を目指してアホな作戦を実行します(笑)