エピローグ ──マサメ、未来へ(完)
ボクはいつの間にか五十代なかばにさしかかっていた。白髪が、はえぎわから目立ちはじめている。女性ホルモンが多いのかな? 抜け毛は少ない方なんだけどね。
敬愛してやまなかった母が、ともに国家という巨大な怪物にあらがった戦友(勝手にそう思っていただけかもしれないけど)、人気コメンテーター山村元刑事が寿命や、病気で亡くなったことを、あまんじて許容しなければならないような年齢に、いつの間にかボクはさしかかっていたんだ。
地球に迫りくるブラックホールを世界に先がけて観測してくれたドイツ人科学者も、すでに鬼籍に入られていた。
美晴は、信じられないことに初孫が誕生したのだという。
ひとつの可能性を秘めた論文を、ボクはさまざまな思いをこめてまとめあげることができた。
あれからジャッキー・ボルレーはワームホールの捕獲に成功し、その実態を解明することに今は没頭している。彼女の夫はブラックホールの現在位置を、正確に把握していてくれている。
重力圧に対抗できる防護スーツの開発は、2.2Gを耐えうるまでに成功し、もはや完成間近である。マサメの願った未来に、ボクたちは着実に近づきつつあった。
ボクの描いた構想は、自在に操ることができて、すべてが天の川銀河の外へと向かうワームホールを搭載した、何万機にもおよぶ核融合ロケットをブラックホールに撃ちこむことであった。宇宙的規模で見れば極小のマイクロブラックホールであったとしても、ロケットのすべてを破壊し、核爆発の強烈なエネルギーとともにスパゲッティのように細く長く変形させて飲みこむに違いない。しかし、その全部、なにもかもをを吐きだすホワイトホールが前方にひかえているのだ。生き残り、吐きだされた無数のワームホールの物質圧搾作用が、微力ながらもブラックホールの軌道を変え、銀河のかなたへとはじきとばす。
もしくは、あまたのワームホールを取りこんだブラックホールが、瞬時に内部から崩壊し、収束、分散をくり返して消滅する。
ボクがはじきだした、ふたつの解がこれであった。どちらかがひとつでも成功すれば御の字、といったところだけれど。
これはまるで、あの、ボクらの青春、「ユーパイプ作戦」みたいな賭け、そのものだけどね。
ワームホールの解析にはまだあと数年はかかるだろうが、ジャッキー・ボルレーのチームなら必ず結果をだしてくれるに違いない。
論文名は『トンデモ科学宣言』とした。
そうだった。あのハジメンの動画で、視聴者がマサメの生きざまを揶揄したように、彼女を汚した、妙に印象に残るフレーズであったんだ。
決して開き直ったり、ふざけてつけたタイトルではないんだよ。目の前で起こりつつある事象に対し、真摯にむきあってみただけのことなんだ。なにしろ相手はブラックホールにホワイトホール、そしてワームホールときている。非常識なトンデモの塊、トンデモの集合体なのだ。
外宇宙から攻めてくるトンデモ野郎どもと対決するには、こちらもトンデモ理論をぶつけるよりほかにない! それがボクのだした結論だった。
このレポートに未来を左右する効果があるのかどうかは正直わからない。だけど、そろそろボクは疲れてきた。老いなんて言葉で片づけたくはないのだが、ふんばりがきかなくなってきた。デスク上の光学ディスプレイ、次世代型ノートパソコンに最終論文を打ちこみおえたボクはつぶやいていた。
「ボクはいつ、謎の失踪とやらをとげるのかな? まだたりないのかな? おまえはどう思う? マサメ……」
「──もう十分だと思うぞ、サトル」
なつかしくも、愛おしい声音がボクの鼓膜を震わせた。幻聴、空耳……にしては、やけに生々しい響きであった。
「嘘だろ?」
ふり向いたボクの背後に光をはらむ、うず巻き状のワームホールがポッカリとうかんでいる。そして、彼女がそこにいた。これは白日夢なのだろう。ボクの青春の幻影が、はにかんだような笑顔をうかべてそこにいた。
「──会いたかったぞ、サトル」
「マサメ……なのか?」
「ああ。やっとこられた」
彼女は、あのころよりいくぶんまるくなり、少しだけ小じわが目だつように見えた。そして背丈が、あのときはボクを見おろしていたはずの彼女が、スパゲッティ現象という魔法がとけたようにボクと正対して、いや、むしろボクより低いように見えた。
「おかしいな、幻覚にしては妙にリアルだ」
「私もそう思う。それにしても老けたなサトル」
まぼろしが、ボクの白髪をなでた。ボクは心臓発作かなにかで死ぬのかな? ああ、これが走馬燈ってやつか? 粋なはからいだな。最期に彼女と会わせてくれるなんてさ。
そうか。これが謎の失踪の正体? そうか、ボクの死を「スラ・リンガン社」の面々がひたかくしにして、研究を続行させてくれるのか。いいぞ! それでこそボクが選んだブラックホール対策チームだ! だけど、ひとつだけ、死んでもいいけど、ひとつだけ──。
「納得がいかない! おまえがマサメなら、なんで今ごろ現れた。なんでもっと早くこない! ああ、老けたよ! もうジジイだよ、ボクは!」
「……私を、待っていてくれたのか? サトル」
「待ったよ! さんざん待ったよ! だってボクからはマサメに会いにいけないじゃん!」
ボクはまぼろしに抱きついて泣いた。
「悪かった。ごめん、ごめんな、サトル」
まぼろしが、あたたかな体温をもったまぼろしが、ボクを抱きしめてくれた。さあ殺せ、今この瞬間にボクは死んでもいい! ──いや、待てよ……この弾力、肉感、息づかい。これは実体だ! リアルにもほどがある!
「マサメ……本当におまえなのか?」
ボクは彼女の体を突きはなしていた。
「ああ。待たせたみたいだな」
「本当に、本当か?」
五十にもなれば、ボクだって世界のありようについて、少しは理解しているつもりだ。簡単には信用できない。これは、ボクが謎の失踪にいたる、どこぞの国のハニー・トラップではないのか? ボクよりも背がじゃっかん低いってのも引っかかる。この女、暗殺者なのか? ボクの過去を調べあげてマサメ、あの「イルミネーター」に似せて整形され、派遣された刺客ではないのか? これは罠だ。誰がだまされるものか!
「本当に、本当だよ。あんたのおかげで元気にくらしてる。もちろん私の家族も、友だちも」
「はん……じゃあ、あの、『トンデモ科学宣言』なんてマンガみたいなレポートが、地球と人類の未来を救うと考えてもいいのか?」
ボクはデスク上の光学パソコンを見やる。たった今、打ちこんだばかりのデータに、現代人の暗殺者が対応できるわけがない。これまでどんな教育をうけてきたのかは知らないが、どうだ、この女、ボクの、この問いにこたえられるのか!
「──ああ。敵対していた国同士も互いに協力しあって、外宇宙へ向けたワームホールを限界まで搭載した核ロケットをバンバン打ち上げたんだ。ネット中継で見たけど壮観だったぜ、サトルのトンデモ科学を世界中が一丸となって実現させたんだよ!」
「マジか!?」
「絶滅にひんした世界中の人類はさ、もう藁にもすがる思いだったんだ……で、ついにブラックホールの軌道を変えることに成功したんだ! 有史以来初めてなんだってさ! 世界中の人々が人種や宗教観をこえて、ひとつの目標へ向かって手を取りあえたってのは! サトル、地球に奇跡がおこったんだよ! これは、私だけの、私専用のサトルがおこした奇跡なんだ!」
女はこともなげに、ボクの求めるこたえを、はねるように、嬉々として語ったんだ。
「《・》私専用のサトル? マジか、マジでマサメなのか?」
ああ、そうであった。いわれてみれば確かに、数万機にもおよぶ核融合ロケットをブラックホールに撃ちこむなんてまね、民間企業「スラ・リンガン社」一社の判断だけで実現できるとは思えない。全世界の核保有国の協力が得られなければ、まず不可能だ。それが本当ならば、よくやってくれた。未来の人類は、よくぞやってくれた! ボクのトンデモ理論を、よく補完してくれた! いつか内閣調査室の相楽さんがミノウタス語いっていたっけ、まさに円満具足だ!
しかし、それ以前にこれは……。
「──がんばったな、サトル。よくやった!」
彼女が、後頭部の張りだしの残照が少し残る彼女が、満面の笑みをうかべる。
「マサメ……」
ああ、マサメだ! 夢にまで見た、これは本物のマサメだ! ボクはどうかしていたよ。マサメがわからないなんて! だけど、三十年も放置されていたんだよ! どうして今まで会いにきてくれなかった! ひどいよ、マサメ……。
「そりゃそうと、私だってつらかったんだぞ。あんたが地球救済の最終レポートを完成させるまで、研究のじゃまをしてはならない! 偉大なる英雄、三ノ輪博士が女にうつつを抜かしていたら人類が絶滅するだろ! 私と一緒に地球最後の瞬間を迎えたい、てなことをいいだしたらどうするんだ! なんて世間さまや息子のサトルJr.にまでいわれてさ……解禁まで何十年も苦しかったよ、我慢してたんだよ、私もさ!」
マサメが、エメラルドグリーンの大きな瞳から、大つぶの涙をひとすじ流した。
そんな──。
「マサメ……じゃ、まさかボクが、おまえを待たせていたのか?」
「そうだよ、最低だ! 女を待たせる男なんてよ!」
マサメがボクの胸をたたいた。あのころのような、息がつまるみたいな剛腕ではなかったけれど。
ボクは自然に彼女の肩を抱きよせ、キスをしていた。彼女は抵抗をしなかった、ボクのキスをうけいれてくれた。
ただ、ちょっとだけ恥ずかしいと思ったんだ。だってボクは五十代なかば、彼女は三十代前半にしか見えなかったから。まるで娘にキスをしているような感覚になってしまう。冷静に考えれば科学的ではない、ただ感情に流されただけの行為だと、ボクは赤面した。
「……すまない。こんな加齢臭じみたジジイにキスされるのは嫌だよな」
「なにいってんだよ。あんたが待ったぶんだけ、私も待ったんだ。私も五十すぎ、あんたに負けないくらいのババアだよ」
「気をつかわなくていいよ、マサメ。どう見ても三十代にしか見えないぞ」
「ふふふ、未来のアンチエイジング技術をなめるなよ」
「アンチエイジング? 嘘だろ?」
「あんたね! この私を信じられないってのか? えっ、サトル!」
えらそうに唇をとがらせる、あのころのままのマサメ。
「信じてるよ! いつだってマサメを信じていただろ? ボクはさ!」
ボクはけんめいにうったえた。だって、マサメだけを守りたくて、ここまで生きてきたんだからさ!
「だったら、疲れている場合じゃないぞ。今すぐ私と一緒にこい。あんたが守った未来で、第二の青春といこうよ!」
「第二の青春……だけど……」
ボクはシングルライフが長すぎた。いくら相手がマサメだとしても、ともにくらせる自信なんてとてもない。そしてボクは「スラ・リンガン社」の社長だ。ボクがいなくなってもジャッキー・ボルレーたちは研究をつづけてくれるに違いない。だけど、社長としての責任を放棄してもいいのか? ボクは……。
「つべこべいわずに、こいよ! グダグダ考えてばかりいたら科学は発展しないぞ! まずは飛びこんでみせろよ。あんたが尊敬してやまなかったお父さん、お母さんみたいにさ! 社長なんて肩書きに縛られる必要はないよ! 社長なんてのは結局、大学の研究室の雑用係みたいなものだろ? いつまでもいいのか? サトルはそれで」
「社長が……雑用係?」
ある意味では、そうなのかもしれない。社長のつとめとは、あまたの社員たちを輝かせ、のびのびと仕事に従事してもらえる環境を整える裏方にほかならない。
笑えるよな。ボクは、この歳になっても雑用係以上でも以下でもない存在だったのか……。
「なぁ、一緒にいてくれよ。サトル……」
未来へのワームホールに向かいつつ、甘えたような声のマサメが、ボクの手を握った。ボクは、ためらいながらも握りかえしていた。
決してマサメに逆らえなかったわけじゃないんだよ。二十代のころのようにマサメのかもしだす圧にやりこめられていたばかりじゃないんだ!
──これは、五十代になったジジイのボクの意志。ボクは彼女と出会えたことを、彼女だけを愛したこと、愛されたことを、死ぬまで誇りに思う。
「最新改良型ワームホールだから防護スーツなんかいらないんだぜ。ねぇねぇ、サトル、すごいだろ! 最新型だよ!」
マサメは嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑ったんだ。
なるほど。こうしてボクは謎の失踪をとげるらしい。マサメとの生活に嫌気がさしたりせず、未来のボクがこの時代に、もしも、帰ってこなかったということが歴史的事実であるとしたなら、ボクとマサメはアンチエイジングの力を借りて彼女のいう第二の青春を享受し、すてきな熟年夫婦になれるということなのかもしれない。
好奇心は猫をも殺す。あの格言に殉じてみるのも悪くない。
ジャッキー・ボルレー、ボクが信頼する「スラ・リンガン社」のみんな。すまないが、あとは頼んだ……。
ボクはいくよ、最愛の女、マサメとともに、未来へ!
──サトル、知ってるか? ミノウタスの古いことわざにこういうのがあるんだ。
「女が心から愛した男に肌をさらすとき、それは初夜、初めての夜だけである。さすれば女は最上級の幸福を手に入れることができるだろう」ってな。私はまだ最上級のしあわせを味わってはいないぞ……責任取れよ、サトル。
「ああ」ボクはうなずいたんだ。
取るよ、責任。あと何年生きられるのかは知らないけれど……マサメ、しあわせを味あわせてやるよ。ボクの命にかえてもさ。だから、ボクもしあわせにしてくれ、なあ、マサメ……。
ボクの大好きなマサメ……。
◆
大きな窓に囲まれ、朝の日差しにあふれる幾何学的構造のこじんまりとした美容室のバルコニーで、コーヒーを飲みつつボクがいった。
「マサメ」
「なんだ?」
「いや、ただ呼んでみたかっただけ」
「面倒くさい男だな」
「ああ。否定しない」
ボクは笑った。だって本当にマサメの名前、呼びたかっただけなんだから。
「そういうときは、名前を呼ぶ前にキスをくれればいいんだよ」
「タイムレスキューにでかける息子が見ている前でか?」
「そうだよ。この子が私みたいないい女をつかまえるためには、必要な儀式だと思うけどな?」
「なるほど……」
ボクは笑顔で、チュッとマサメにキスをした。
──かつてスラリンガンと呼ばれたボクたちの息子、サトル・ミノワJr.は、やれやれといった表情をうかべながら上着をはおり、ミノウタス公国官邸直属機関である、時間省へと出勤していった。
(終)
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『ゴースト・キス ~死人しびとの口吸い~ (改)』
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『狂瀾のあと ~ M・ミュート・モンスター・ミノリ ~ 』
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