2章 八坂野 市
家につくと、気の重さのせいか空腹感が消え去った胃の中になんとか飯
をかきこみ、呼び出された場所へと向かった。
『八坂野大栄屋敷』と大きく書かれた表札がかけられたそこは、江戸の世
へとタイムスリップしたような錯覚に陥る古めかしき武家屋敷。
「おお、待って居ったぞ!今行く故」
インターホンを押すと、先ほど会話したばかりの声が鳴り響く。
「(ちょっと前まではここで叫ばなきゃならなかったからなぁ・・・)」
少し前、古謝はここで居候しつつ修練を積んでいた。その頃のことを思
い出していると、けやきの素木で作られた棟門が音を立てて開き、
「愁仁殿、何日ぶりかであるな!」
「おう市、元気してたか?って、これはまた」
屋敷から出てきたのは、中学生くらいの少女。
黒のボブカットは前髪が綺麗に揃えられており、時代がかった口調と相
まっていかにも良家の童女と感じさせる。薄水色の小袖は蓮模様の帯をし
っかりとカルタ結びに着付けられ、室内着にしては随分な気合の入れよう
だ。
「ああこれか、母上がうるさくてな・・・来客があればこれを着ねばならんのだ」
ややうんざりといった様子で言う少女―八坂野市に対
して、古謝は突如、天啓に打たれたような衝撃に襲われた。
『女性が普段と違う服装をしているんだ、褒めないといけない』
恋愛経験はあいにくと0だが、見くびってもらっては困る。天啓のままに、
「えっっ・・と、いいんじゃないか、似合ってて可愛いし。俺がここにい
た時はそんなの着てなかったから、なんか新鮮だな」
心の中でガッツポーズを決める。完璧だ。女性に対して非の打ちどころ
のない文句を思いついた自らを激賞せざるをえない。
「愁仁殿、如何した?腐った蜜柑でも食ったか?」
「辛辣!」
引き気味に答える市を見てあえなく沈むモテない(と何故か思っている。
本当に何故か思っている)男。
市は呵呵、と笑いながら、
「ふふ、相変わらずだなお主は。ささ、入れ入れ」
そう言って屋敷に入っていく市に、古謝も続いた。
「・・・・でもまあ、そうか、似合っている・・可愛い、か・・・そうか・・・ふふっ」
「ん?なんか言ったか?」
「な、何でもないぞ」
◇
門をくぐった先にある池泉庭園は、一応江戸時代から存在するだけあっ
て中々本格的なものだ。雅に配置された亀頭石の周りをハスやキキョウの
花が彩り、池には金魚や鯉まで泳ぎ回っている。しかし今目の前を歩く少
女の背中を見ながら進む古謝の心中は、池の水面に映る黒松のように穏や
かではなかった。
居間に入り、2人して座布団に腰掛けると、掛け軸を背にした市はすぐに
話を切り出した。
「それで、話なのだがな」
どう来る・・・!?
家で飯を食っている時からここにいたるまでずっと、『最悪のパター
ン』を想定して脳内シミュレーションを重ねて来た。例えいかなる切り出
し方であろうとも、万全の準備はできている・・・!
ピークに達した緊張で、部屋の空気が張り詰める錯覚に襲われる。
そんな古謝の気持ちなどもちろん知る由もない市は、神妙な面持ちで口
を開いた。
「愁仁殿は、≪境界石≫という物を知っておるか?」
「気持ちはうれしいが、すまない。俺には為すべきことがあり、しばらく
は独りでいた――――え?」
用意していた回答と質問の激しいズレに、市は目をぱちくりさせてい
た。なかなか可愛いじゃないか。
いやそうではなく、
「すまん、もう一回言ってくれないか」
「む?わかった。≪境界石≫という物を、愁仁殿は知っておるか?」
全然関係ない話だった。どうやら自分の心配は全くの杞憂だったらし
い。ほっとしたような、落胆したような。
「よかった・・・・じゃない、きょうかいせき?聞いたことないな。世界
史の教科書に似たような名前があったような気がするけど」
物々しい響きに古謝が聞き返すと、「それは蒋介石であろう」と苦笑し
つつ返してくる市。しかしすぐに真剣な面持ちになり続ける。
「何となくわかるであろうが、超常現象絡みの道具であるらしくてな」
超常現象。
いまや四大女神と言われるようになってしまったあいつらが世界を分割
して支配するようになって以降、その神託により人間は一人一人が固有の
物理現象を起こせる力を得たと言われている。超常現象は物を温めたり、
すごく速く走れるといった日常的なものから、石ころから黄金を作るとか
天候操作なんていうデタラメなものまで幅広く存在するようだ。
「へえー・・・強化アイテム的な感じか?」
「そんな生易しいものではない。この≪境界石≫は――」
軽い気持ちで聞いてみた古謝だったが、続く市の口から出てきた言葉は
まさにぶっ飛んだものだった。
「自分の想像通りに、どんな超常現象であっても意のままに操ることがで
きるようになるらしいのだ」