死神と少女と猫又と
【中編】
「厚かましいわね。」
「それも、否定はしないよ。付け足すなら、自分勝手なんだよ。なので無理矢理にでもジブンのやることに付き合ってもらおうかな。」
なんで私が語気を強めても、のらりくらりといなされるのに、この少年の言葉は穏やかでも有無を言わさぬ強さがあるのだろう?もし疑問が解消されたところで、この少年のように言葉に力を込められるというわけではないのだろうけど。
「じゃあ、態々(わざわざ)断りを入れたりせずに、勝手にすればいいじゃない。」
「あなたの了解を得たと思えれば、心おおきなく勝手が出来るから。」
「無理矢理得た承諾で、心おおきなく振る舞えるんだったら、最初からそんな承諾に意味なんてないでしょ。」
「違いない。アヤツ、おんしの変な気の回し方に意味はないという良い例だな。おんしのお節介も同様だと思うぞ。」
「二対一とは、分が悪いね。まぁ、確かに、出来もしない気配りの真似ごとなんかしてないで、とっととやることをやってしまったほうが良さそうだ。」
「そういうことだな。小娘も強がりか何かは知らないが気持ちが固まっているというなら、時間を使うだけ無駄であろう。ただでさえ小生からすれば無駄な時間なのだ。」
「分かったよ。」
「相も変わらず、私のことを無視するのね。さっきも言ったけど、勝手にすればいいじゃない。何をするつもりかは知らないけど、さっさとしなさいよ。」
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
長髪の少年はそう言うと、肩に担いでいた大鎌を構える。私は、原始的な恐怖心に襲われる。その私の感じたものは、咄嗟に目を瞑ったこと、顔の前に手をかざしたこと、喉の奥から声にならない悲鳴が漏れたこととなって現れた。
胸を押される感触があって、それ以降なにも起こらないので恐る恐る目を開ける。かざした手の隙間から見えた光景は、目を疑うものだった。
倒れ付した私の身体を自分で見下ろしている。
何これ?
私は、ここにいる。
自分の手を見下ろして、自分の身体を触って確認してみる。いつもと変わらない視界といつもと変わらない触覚を感じる。
でも、倒れたところを長髪の少年が抱えているのも、毎日鏡で見てる私と同じ顔をしている。
なんで自分の身体を見下ろしているの?こっちは私だけどあっちも私ってこと?私が二人いるってこと?それとも私は、私じゃないってこと?
解消されない疑問が私の頭の中で、ぐるぐると回っている。
「やっぱり、ちゃんと説明してからにすれば良かったかな。申し訳ない。あなたの身体から魂を抜き出したんだ。だから、あなたはあなたの倒れた姿を見ることになってるんだ。」
一応、疑問は解消される。全てがスッキリするわけではないけど。
「魂を抜き出したって何?」
「そのまんまの意味だよ。身体から魂だけを取り出したんだ。…なんでそんなことが出来るのかって思ってるね。昨晩言ったでしょ。ジブンは死神なんだって、些か威厳というか凄味が足らないらしくて、よく忘れられるけどね。」
「些か?小生は全く足らないと思っておるがな。だから、小生の爪は常に渇くことはないのだからな。」面倒そうに、猫がぼやく。そして私に向かって告げてくる。「それにしても滑稽だな、毎度毎度人間というのは。死ぬことを望みながら、いざ殺されるとなると、怖がるのだからな。」
「煩いわね。死ぬのが怖いわけじゃないわよ。痛いのが怖くて嫌なだけよ。」
「その意味の違いは小生には分からんな。」
またもや器用に肩をすくめると、特に言い返すつもりもなかったのか私の前を横切って少年に場所を明け渡す。
「じゃあこれからあなたの知らないあなたのことを知る旅に行こうか。停学になって少しぐらい夜更かししても影響ないよね?」
失礼ね、そう言い返す前に意識が途切れた。
【4】
目を瞑ってから目を開くまで、どれ程の時間が経ったのかすら分からない。意識が途絶えていたのかすら曖昧で、何か自分の時間を奪われたような喪失感で言い知れぬ焦燥に煽られる。意図せずに深い昼寝をしてしまい、休日を無駄にしてしまったような。そういった焦燥感だ。
そして、私はゆっくりと回りの状況を受け入れていく。
【1】
毎度のことながら、アヤツのせいで余計な事態に巻き込まれつつある。いや正確ではないな、もう巻き込まれてしまった、だな。毎度反省はするのだが、それを活かしきれないのは、小生の不徳故だ。アヤツに死神としての任を遂行させるためには、こうして自殺予定者に干渉するのを引っ掻いてでも止めるべきなのだが。小生にとって人間とは不可解なものだ。小生から見れば、無駄なことに力を尽くすのも珍しいことではない。ただそこには、各々にとって大事な何かがあるらしいということは、最近分かってきた。だから、アヤツのしようとしていることにも何かしらの意味があるのだろうと思うと、引き留めることに躊躇を覚え、制止の言葉に力を込められず、アヤツの思惑通りにことが進むのだ。その結果、小生の貴重な時間は奪われ、周りからは役立たずなどと揶揄される。腹立たしいことこの上ないが、小生も気持ちを決められずにこうした事態を甘受する結果となっているだけに、強くは言えず、八つ当たりの相手を探すので手一杯だ。そして今も反省を活かせずに、毎度の事態、自殺予定者に関与する事態、に巻き込まれているというわけだ。
「ショーセイの貴重な時間て大概が昼寝の時間でしょ、時間を割いてもらってるのは悪いと思うけど…ねぇ?」
「ねぇ、なんだっ!一日の中でもっとも麗らかな時間に微睡む至福さとその重要性を理解出来ん奴に何を言っても無駄だ。」
「まぁ、至福なのは分からないわけじゃないし、何を大事にするかはそれぞれだからね。ただ幾ら腹が立つからって八つ当たりはよくないよ。」
「おんしがそれを言うのか。腹立ちの殆んどはおんしが理由だろうがっ。」
「それに関しては、ことあるごとに謝っているつもりなのに。」
「改めるつもりのない謝罪などなんの意味もなかろう。…もう良いわ。平行線の言い合いなんて不毛なことで疲れるのも馬鹿馬鹿しい。」
アヤツが余計な口を挟むから、話の腰を折られたな。
少し、小生のことについて触れておこう。
小生は、猫として生を受けたが、今は猫又という妖に身を落とし、出来の悪い死神の手伝いをしている。名をショーセイという。元々は違う名を与えられていた。が元々の名付け親であるアヤツがその当時の記憶をなくしており、今はそう呼ぶのだ。小生の名はショーセイ、それでいいのだろう。
そして、行動を共にしているアヤツのことだ。
「え、ジブンのことも紹介してくれるの、ありがたいな。でも、『出来の悪い』は酷いよね。」
「煩いわ。おんしは小娘に行う儀式の準備をとっとと進めろ。おんしがまごつくと小生の昼寝の時間が減る。」
「今は昼じゃないけどね。」
「些末なことをぐじぐじと。いいからさっさとしろ。それとも小生に止めてほしいのか。」
小生の引っ掻く真似を大袈裟に飛び退いて避けるとアヤツは横たわった小娘に向き直る。
フンッ
小生がアヤツと出会った時、アヤツはまだ普通の少年であった。そして、他の人間を救うために命を落とした。
その後、記憶と引き換えに死神となったのだそうだ。そうだというのは、アヤツが死んでから、再び死神となって小生と出会うまでに二年という空白の期間があって、その間の出来事は伝聞でしかないからだ。記憶をなくし自分を知る者のいない中で、アヤツは名をも無くしていた。そこで空白の二年の期間、小生が思い出す時に呼んでいた言い方をそのまま名前にしてやった。元々の名は知らぬ。人間の名などに興味なんぞないからな。アヤツに混乱を招きやすい名前をつけてしまったとも思うが、小生のことをなどと小生が自身のこと『小生』と呼称するからなどと安易な理由で「ショーセイ」という名前を小生につけているのだ、お互い様であろう。
さて、小生と死神となったアヤツが再会したのは、単なる偶然などではなく、死神の役割を担うにあたって、手を貸してくれる者を探していたところ、妖に身をおとした小生に白羽の矢をたてたらしい。それを承諾して以降、死神の役目であるところの自殺者の魂の浄化をするために、奔走している。…はずだ。成果をあげたことはないので、小生自身のことなのに懐疑的にはなる。役立たずと言われるのも致し方ないのかもしれないな。小生に対して悪意を持って発せられる言葉を甘受するつもりはないがな。大体、アヤツのよく分からぬ思惑で失敗ではなく、態と魂の浄化に至らないようにしているのだ。役立たずというより、反乱分子というほうが、しっくりこよう。
「ショーセイ、変な言い訳をするのは、らしくないよ。」
「まぁの、些か潔さに欠けていたな。」
「しかも、締め括りが反乱分子って。ジブンはそんな危険なものじゃないよ。」
「それは、おんしにその自覚がないってだけであろう。」
「うーん、でも自ら命を絶った魂は罪を雪いで、輪廻に戻っていくんでしょ。なら、そもそも自ら命を絶つ人がいなくなれば、罪を雪ぐ過程を経ずに輪廻は正常に廻り続けるってだけのことなんじゃないの?」
「それを小生に訊くのか?そんなの分かるわけがなかろう。」
「まぁそうだよね。でもここまで特におとがめなしできたんだから、そう悪いことでもないってことなんじゃない?」
「だから、小生に分かるわけがなかろう。それよりも、油を売ってないでおんしの準備を進めんか。」
「あぁ準備なら終わってるよ。」
「それをさっさと言わんか。小生は先程から時間が大事だと言っておろうが。」
「それは、そうなんだけど、ショーセイが聞き捨てならないこと言うから。」
「もう、ご託はよい。はようせんか。」
「ご託は非情いな。でも確かにこうしてして言い合いをしていても、何にもならないね。じゃあ、移動しちゃおうか。」
「今回は、どこに行くのだ?」
「ショーセイでも少しはそういうことに興味があるんだね。」
「そんなわけなかろう、ただ今度は何処に連れていかれるのか、確認しておこうと思ったに過ぎん。」
「そっか、今回は時間を遡ってみるつもり。」
「まさか、試してみたいからなんてつまらん理由じゃなかろうな。」
「やだな、ショーセイ。意味があると思うからだよ。一回ぐらいやってみたいって気持ちがないと言えば嘘になるけど。」
その言葉を聞くと一気に気が萎える。
「大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫なんじゃない。遡ったところで、干渉したりすることは出来ないんだから。ただ単にこの娘が知らなかった過去のことを知れるってだけだから。」
「この小娘が自分の知らなかったことを知ってしまって、その後の人生が狂ってしまうことはないのか?」
「ショーセイは優しいね。」優しいなどと言ってくれるなっ、という小生の非難を綺麗に無視してアヤツは続ける。「あるかもしれないけどね。そもそもこの娘の人生は行き止まりだったんだ。正確には、行き止まりにしてしまおうとしていた。狂った道筋だとしても、前に進むのか止まるのかの選択を用意しようかと思って、ね。」
「安易で余計なお世話で残酷だな。」
「かもしれないね。」
「自覚しながら、それでもこちらの話に聞き耳を持たないのが腹立たしい。もう良い。早くせい。」
「さてと、じゃあ、…よいしょっと。」
起こる事象の絶大さに対して、その気の抜けた掛け声は、小生を脱力させる。
時を遡るのは、初めてだ。でも一瞬で数千キロ、数万キロの距離を飛び越える時もこんな感じなのだ。
アヤツが舞うように大鎌を振るう。その刃先が妖しく紫色に光りながら宙に複雑な軌跡を描く。徐々にその軌跡が輝きを増していく。
役立たずと揶揄されようとも、特別な力を宿していることは、紛れもない。その力の使い方が間違っておるのかどうかも分からん。ただなんというか、無駄遣いなのでは、と危惧するのだ。それと、そうした貴重な力が小生の昼寝の時間を奪っていくことに釈然としない思いを抱いてしまうのだ。
と、光が弾けて、景色が一変する。
時を同じくして、小娘がゆっくりと眦を開けた。
【2】
「何、これどうして私の家にいるの?」
小娘がたっぷりと時間を使って、周りの状況を確認してポツリと漏らす。
少し古めかしいが小奇麗にしたシンク。空間の中心に飾り気のない四脚のテーブル。木目のはっきりした濃淡のある正方形の板が敷き詰められた床。小生にはどこにでもあるような台所の風景にしかみえないだけに小娘が自分の家だと特定した理由は分からぬ。
特に知りたいとも思わないので追及などはしないが。
「ここに見てほしいものがあるから。」
「私の家で今さら何を見せようっていうのよ。」
そんな状況にあっても、アヤツの言葉に咄嗟に反論するあたり、小娘にもそれなりの反射神経や順応性は備わっているらしい。
「さっきも言ったでしょ。あなたは何も分かってないんだ。だからね、こんな身近なところにさえ気付いてないことがあるんだってことを手始めに知ってもらおうと思って。それとね、あなたが考えてるあなたの家とは違ってると思うよ。」
「どこがどう違うって言うのよ。」
アヤツが無言で指し示した壁を、小娘が億劫そうに振り返る。
「…なんで…」そして、目を見開いて呟きを漏らす。「…なんで、カレンダーが一週間前になってるのよ。」
前時代的な日めくりカレンダーを指差して小娘がアヤツに詰め寄る。
「見たまんまだよ。」
「だから、どういう意味か聞いてるのよ。母は几帳面で毎日ちゃんと日めくりカレンダーを破くし、ここ最近の破いたのを入れたゴミ袋は私が出したのよ。」
「察しが悪いのぉ。ならば、その事実が起こる前の状況に置かれているってだけだろうが。」
あまり口出ししたくはないのだが、相手の理解が遅いと苛立って仕方ない。
「事実が起こる前?」
「阿呆、ここまで言ってやって分からんのか。時間を遡ったってだけだろう。先ほどまでいた場所が夜で今が昼になっていることである程度は察せられるだろうが。」
「久々に、ショーセイの『阿呆』を聞いた気がする。」
アヤツの訳の分からん感慨は優しいね発言の仕返しに、綺麗に無視してやる。
「時間を遡っただけ?そんなの普通起こらないのっ。そんなのに巻き込まれたら、混乱するに決まってるでしょ。それを許さないってどんだけ了見が狭いのよ。」
「その混乱を解消するために、小生が分かりやすく説明してやったのだろうが。」
「分かりやすくなんかないわよ。回りくどくて、分かりにくいわよ。」
「二人ともその辺で。無限に時間があるんだったら、面白いから延々と聞いていたいんだけど、時間が限られているから。」
「ちっとも面白くないわよ。」
「面白くなどなかろうが。」
思わず口をついて出た言葉は小娘と同列の訂正になってしまった。多少なりとも情けなさを覚える。
「そこは意見の相違ってやつだね。でも、言い合いが終わったんだったら、ここで見ておくべきものを見てもらいたいな。」
反論したいことばかりだが、小生が時間を浪費させたりしては意味がないのだ。口をつぐむ。あとで一言言ってやろうとは思うが。
小娘も、何か言いたそうな表情を浮かべるが口を真一文字に結んで、何かを我慢したようだ。何を我慢したかは分からんが、小生が堪えたことと大差ないのだろう。それはそれで腹が立つのだが。
「で、何を見せるつもり。」
嫌そうな表情で、煙草を投げ捨てるかのような言葉が耳に残る。
「その前に注意点を二つだけ。」
「何よ。」
「一つは、今のあなたは魂だけの存在になっている。頭から伸びる結び目がある線のようなものが、魂と肉体とを繋ぎ止めているんだ。細く見えるけど、ちょっとやそっとで切れることはない。けど、ジブンの持つ鎌の刃に触れると切れちゃうから気をつけて。」
「触れたら、どうなるのよ。」
「さっきも言ったけどジブンはこんなんでも、死神なんだよ。」
全部を語らずとも、意味は怖いくらいに分かるのだろう。小娘が思わず大鎌から一歩遠退いている。アヤツには変な凄みがある、それが死神に相応しいのかと問われれば、正直小生には分からん。だが、それが死神の仕事に全く活かされていないのが腹立たしい。
「それともう一つ、これは注意点というより理解しておいて欲しいことなんだけど、ジブンの経験上最適と思う処置をあなたの魂に施している。そのためにあなたはこの世界のあらゆる物質に干渉できない。」
小娘の反応で一つ目の注意点は充分に伝わったと判断したのだろう、アヤツはそのことに言及せずにもう一つの注意点を小娘に伝える。
「干渉出来ないって何?」
「たとえば、その辺の壁とかを触ってみれば分かるよ。」
「何これ、気持ち悪いっ」
言われるがままに壁に触れようとした小娘が、その手がすり抜けていく様を見て手を引っ込めながら、そんな叫び声を上げる。
煩いとは思うが、その気持ちが分からんわけではない。小生も壁をすり抜けられるようになってからすぐは、その違和感に慣れず戸惑ったものだ。慣れてしまえば便利なものだがな。まぁ小娘にいきなり霊子を自由自在に扱えと言っても無理だろうがな。
「あっ、でもなんで足の裏は床を抜けていかないの?」
床に足を何度か降ろしながら、疑問を口にする。
「初心者仕様というやつだな。」
「初心者仕様?」
「小娘には、難しいことを説明しても分からんだろうから簡単に言ってやると、重力のかかる向きにだけすり抜けないようにしてやっている。」
小娘は小生の説明に多少不満そうに眉を顰めた。が、特に反論することなく、再度壁に向かって手を突き出すとすり抜けていく様と、足を踏み降ろすと床で止まる様を確かめて、変、と小さく、短い呟きを漏らす。
小生からすれば、小娘の方が明らかに変な存在なのだが。これは口にしないでおいてやる。
「ねぇ、もし死んじゃっても、こんな風になるの?」
不安なのか期待なのか、微妙な表情で小娘が訊いてくる。小生はそれをそのまま放置してやるほど小生は、優しくない。
「死んだ後にこんな状態で、遺された者達の生末を見守れるなんて、淡い期待を抱くでないぞ。死とはそのまんまゼロになることだ。積み重ねた記憶なども全てな。輪廻とやらは生まれ変わりではあるが、記憶を持たぬまま生をやり直すのだ。以前の生と関連を持つことも出来ぬ。当然、縁の者たちの行く末に思いを馳せることなど出来ぬ。大切だと想うものがおるのなら、その生があるうちに大事にすべきだろう。」
「ショーセイ、優しい忠告だね。」
小生の喋り終わりを待っていたらしいアヤツは、そんなことを口にしてくる。何をどうしたら今の発言が優しくなるかが、小生には理解できん。アヤツも含めて人間とは理解不能な存在だ。あまりにも素っ頓狂な発言に怒りすら湧かん。
「そこがお母さんの部屋でしょ。」優しいらしい小生の言葉を受けて何故か俯く小娘に、アヤツが話しかける。「見て欲しいもの…違うか、見た方がいいと思うものが、そこにあるよ。」
「何があるっていうの?」
顔を上げても強気な目線の戻らない小娘は、その目線と同じように力のこもらない疑問を虚空へと、放り投げる。
「それは見てもらった方が良いと思うよ。」
感情を込めず答えも用意してやらず突き放す言葉で、それでも小娘の疑問を掬い上げる。
アヤツの声をうけた小娘は納得したわけではないのだろう、葛藤と躊躇いを感じさせる間をおいて、襖の引手に手を伸ばす。
その手は引手に触れられず、襖の先にすり抜けていく。
「そんな面倒なことをしなくても、ただ進むだけで良いのだぞ。」
「この状態に慣れてないだけよ。」
小生の忠告に対して顔を赤らめた小娘がそんな反論をしてくる。
特に取り合ってやる必要も感じないので、その声を後頭部で受けながらアヤツが指摘する部屋へ入っていく。さらに悪態のようなものも付け足されているが取り合わないと決めた今、振り返るに値しない。
台所もそうであったが、この部屋は尚更一般的な日本の家庭の部屋といった様相だ。
広くない部屋に木のタンスが並べられその並びに、手狭な部屋に不釣り合いに大きな鏡が嵌った最低限な装飾しかない質素な鏡台があるその質素な誂え
なため鏡が大きくとも小じんまりとしたこの部屋に溶け込むのであろう。、多少手狭に感じるが小奇麗に置かれたタンスが全てアヤツの胸辺りまでしかないことも相まって、小奇麗に整えられている部屋のため圧迫感はない。
爪がとられるから小生にとって少々苦手な畳が敷き詰められている。ただ温かみを感じる雰囲気は嫌いではない。これで座布団でも敷いてもらえれば、丸くなってひと眠りするのも悪くない。
そんな小生の思い描く座布団に正座して、仏壇に正対する女性の背中があった。
小生は知らぬが、話の流れから小娘の母親なのだろう。
「今更、母親の姿なんか見せて何があるっていうのよっ」
霊体となっているのだからひそませる必要もないのに、小声で小娘が非難めいた声を上げる。まぁ、ギャーギャー騒がれるよりマシだがな。
「もう少し見守ってみてよ。」
小娘に目をやることなくアヤツが言い放つ。アヤツの横顔は何の感情も現れずに、小生の目からも冷淡に映る。
「だから何があるっていうのよ。」
アヤツの反応が癇に障ったのだろう、小娘が幾ばくか声を高くする。
「さっきも言ったけどジブンの口から聞くより、その目で見て確かめた方が良いと思うよ。」
そんな小娘の様子を歯牙にもかけずに、それ以上の会話を拒むようにアヤツは言葉を置く。
アヤツの言葉に含まれるそうした意図を小娘も汲み取ったようで、不満そうな顔のまま押し黙る。
二人のやり取りが一応の収束を迎えたのを確認して、正座する女性の背中に目を向ける。微動だにしない女性の背中に僅かながら興味を覚えて、多少の後ろめたさは感じつつも、正座するその横に回り込む。
見上げた横顔は神妙そのものといった表情で、その神妙さがそのまま部屋の雰囲気となって重苦しい沈黙を生んでいる。その空気から静寂だけを取り除くように小娘の母親が語り始める。
「響子がピアノをやめたいって。」一瞬だけ苦渋に歪んで唇を噛みしめるかのような悔いを感じさせる間があって、語りは続く「やっぱり私の夢を押し付けてただけだったのかな?あの子がまだちっちゃい頃にピアノに興味を持ったことをこれ幸いなんて、ピアノを習わせたのが間違ってたのかな?それで今まで無理をさせてたんだったら、なんのための母親なんだろうね。しかも才能に恵まれた子に産んであげることもできなかったってことだもんね。…ごめんね、あなたに話しかける時、私、泣き言ばっかりだ。」
言うとおり湿っぽさを含んで、言葉は遺影に向けられている。
死んだ者の写真を飾る意味も、仏壇なるこの場違いに豪奢な家具を置くことも小生には理解はできない。それでも死んだ者に敬意を払うという姿勢は嫌いではない。
それが写真に語り掛けるという行動に繋がっているのだとしたら、何の意味もないと頭から否定することでもないのかもしれない。
「…ごめん、もう大丈夫。」その言葉が出てくるまで小生すら茶々を入れる隙もないほどの重い空気が静かにその場を沈ませていた。「あの子にこんな姿を見せてられないわね。…それにね、あの子には強くなって欲しい。例え夢が叶わなかったとしても、また別の夢を見つけられるような、そんな強さを身に着けて欲しい。そのためには、私もあの子から見たら強くある必要があるもんね。分かってるよ、大丈夫。今日も愚痴を聞いてくれてありがとう。」
遺影から目を逸らさずに涙を拭う。指の腹で涙を拭き取る仕草は学校の屋上でで小娘が見せたのと全く同じだ。これが血の繋がりというものなのだろうか、人間の親子とは不思議なものだな。
涙を拭ったことで何かを吹っ切ったのか、小娘の母親は毅然とした表情で立ち上がり、襖の前で成り行きを見守っていたアヤツと小娘をすり抜けて襖を開け放って、出ていく。重たそうな手提げ袋を持って小娘の母親は戻ってきた。仏壇の手前にある台座の脇に
袋を静かにそっと置くと、台座の前に膝を着いて腰をを下ろす。台座の引き出しを開け、その中身を袋にどんどん入れていく。ふぅ、立ち上がった小娘の母親は重そうな手提げ袋を息を吐き出しながら持ち上げて、和室から出ていく。
その母親に物言いたげな表情で小娘が躊躇いがちに掌を差し出す。襖が閉まると同時に掌を握り、僅かに項垂れる。
「見てみてどうだった?」
その言葉に小娘がハッと顔を上げる。そして呆けた表情から勝気な表情に戻るまで数瞬の間を要して反論を始める。
「……何よ、こんなのあんたが見せてるまやかしでしょ。お母さんがこんなに弱いわけがない。」
「ジブンに出来るのは、時間を溯ったり距離を跳び越えたりすることだけで、まやかしを見せたりは出来ないよ。それにあなたは、あなたのお母さんのことをどれだけ知っているの?」
「ずっと、母子家庭だったんだから、知らないはずがないでしょっ」
「それはただ近くにいて生活してたってだけでしょ。知ることとは違うと思うよ。」
「……」
ぴしゃりとしたアヤツの言葉に小娘は反論の言葉が迷子になったかのように黙る。それでも、納得いかない表情でアヤツを睨め付ける。
「折角の時間旅行をこれで終わらせるのも勿体ないから、もう少しあなたのお母さんについて見てみようか。」
その視線を物ともせずに、近所へお出かけに行くような軽さでアヤツが提案する。他の意見を聞き入れるつもりのない発言を提案と言って良いかは甚だ疑問だがな。
「また、私を気絶させるの?」
反論は叶わなくても、不満だけは主張したいのだろう小娘の物言いには棘がある。
「いや、今回はここから。」
アヤツが唐突に襖を引き開ける。
そこは先を見通せないほど、空間が歪みでうねり続けていた。
「なんで、開けられるの?」
「最初から用意していたのか?」
全く別の疑問が小娘と小生の口から同時に上がる。思わず小娘の顔を見ると目が合う。
その様にアヤツは小さく肩を竦めながらも答える。
「だって、ジブンは、死神だから。」
何の答えにもなってないだろうが。と喚いた小生を小脇に抱えてアヤツが歪んだ空間に飛び込んだことで、小生の指摘は掻き消された。
【3】
「何よ、また私の家じゃない。」
周りを一瞥しただけで、小娘が不満そうに漏らす。
場所がどこであろうと、不満が解消されるということもないのだろうが。
小娘の不満など知ったことではないが、あんな大仰な仕掛けでまた小娘の家の台所に戻されても釈然としないのは同意だ。
それでも、窓から射し込む陽射しが柔らかい為に夕方であるらしいことが分かる。日めくりカレンダーに目を向ければ先ほどの台所より四日ほど日付が進んでいる。あの一瞬で時間を4日推し進めたということなのだろう。さらっととてつもない。小娘の見慣れた場所にばかりに連れていかれていることで、拍子抜けしてしまうというのも分からんでもないがな。
「別のどこかに見てほしいものがあるのなら、そこに行くんだけどね。」
小娘は一層憮然とした表情でアヤツに視線を向ける。
「またお母さんの姿を見ればいいの?でどこにいるのよ?」
「お母さんはまだ、いないよ。」
「じゃあ、なんでここに連れてきたのよ。」
「まだ、ね。ほら。」
ガチャ。
アヤツの言葉が合図であったかのように玄関から鍵の開く音がする。
「…ただいま。」
かろうじて聞き取れる言葉が件の母親の帰宅を知らせる。
小生ですら腹立たしくなるほど、アヤツの掌の上。状況の把握、不満の解消、目的の示唆。全てが完璧に充たされているわけではないが、連れてきた場所で起こることに耳と目を向けさせるには不足のない時間。その時間を逆算しているから、小生たちは母親の帰宅前に転送させられている。小生が面白くないと騒ぎ立ててもどうなるものでもないが、そういったことが分かってしまうから快くはいられない。
ふぅ
小娘の母親は小生らの前を重い足取りで通り過ぎると、それと分かるため息を漏らして、雑に椅子に腰かける。
同じような雑さで、隣の椅子に鞄を置く。
そのあとは突いた肘で額を支え深く項垂れる。
疲労感だけが漂う姿。その肘の先に強い酒が注がれているグラスがあっても違和感のない雰囲気。
小娘は母親のその様に、少なからず衝撃を受けているようで、凝視して固まっている。
「何かあるのか?」
「別に。」
小生の言葉に我に返り、取り繕い切れないまま素っ気ない一言を返してくる。
小娘が呪縛から解放されたのが引き鉄かのように、その母親も項垂れた姿勢から顔を上げる。
前触れなく、鞄に、手を突っ込むとスマートフォンを取り出す。
その画面を見て、軽く顔をしかめると電源を入れて液晶に明かりを灯す。表示結果に怪訝な表情を浮かべると画面を操作して耳に当てる。
「もしもし。」
それまでの雰囲気と打って変わって、余所行きの佇まいで電話に向かって話しかける。
「…警察…ですか。」先ほどの怪訝な表情より更に深く眉を一瞬しかめて、電話口に独り言を漏らす。言葉に詰まったものの、それを取り繕うように話しを続ける。「…恐れ入ります私、飯窪加奈子と申します。そちらのお電話から何度かご連絡を頂いていたのですが、所用で電話に出ることが出来ませんでした。ですので、私宛にご連絡頂いた方にお繋ぎ頂きたいのですが。」
澱みのない話し方を聞けば、小娘の母親はこうした電話対応が日常なのだろうと簡単に想像できる。そしてその電話中に名乗った、加奈子というのが小娘の母親の名前なのだろうが、小生にとってはどうでも良いことだ。
「飯窪です。」
繰り返し名乗った家族の名前も、小娘と小娘の母親のものなのだろうが、同じく小生にはどうでも良い。
アヤツにとってどうかは分からんがな。
「…はい。」
電話の相手から少々お待ちくださいとでも言われたのだろう、小娘の母親は黙して電話を耳に当てた状態で固まっている。口調にはおくびにも出さなかった不安が所在なさげに彷徨っている視線には色濃く表れている。
「あ、もしもし、いえ…。…そうです。」
応対する前に小娘の母親は電話を持つ手に若干力を込め、僅かに唇を引き結ぶ。
「…娘がですか?……何かの間違いってことはないでしょうか。あの娘に限って……」
人間の中では聡明そうな女だ、願望ゆえにあまりにもありきたりな言葉を選んでしまったことに気付いたのだろう。尻切れな発言で口を噤む。
「…でしたら、誰かに唆されたってことはないでしょうか。その……」
望みを捨てきれずに縋るように繋げる言葉。でも、それに意味がないことにも思い至ってしまうのだろう。聡明であっても間違いを犯さないとは限らないということか。
冷静さを欠いていれば、特にな。
そんな母親の様子を小娘は見ることなく、ただ目を伏せている。
「…そうですか、お店の方が一部始終をご覧になっていたのなら間違いないです…ね。根拠もなく補導したりはしませんもんね。申し訳ありません。」
見えない相手に頭を垂れるかのように、顔が伏せられる。
「お気遣いありがとうございます。」
感謝を返しても、深く項垂れた顔はあげられないまま、小娘の母親は電話に応じている。
「…分かりました、お手数とご迷惑をお掛けして誠に申し訳ありませんでした。今から伺いますので、もうしばらく娘のこと宜しくお願いいたします。」
謝罪や詫びと言った言葉は、何度も口にしているのだろう澱まず口を吐く。その声が掠れて震えのは、隠し切れていない。泣き出す数瞬前の小娘と変わらない声の揺らぎ。
通話が終わったのだろう、耳に当てていた電話をだらんと下す。床に落ちないのが不思議なほど力の込もらない掌の中で電話が辛うじて留まっている。
その右腕の動きを最後に身動きどころか身じろぎ一つしないまま、小娘の母親は椅子に座って項垂れている。
母親の方に動きがなさそうなので、小娘に目を向けてみる。
小娘も母親同じように項垂れている。
理由までが母親と同じではないだろうが。
母娘揃って、微動だにしないのでは見るものもないな。騒がしいより大分マシだがな。
ふぁぁ
ついつい、退屈過ぎて欠伸が漏れてしまう。小生にとっての至福である昼寝の時間を、アヤツに奪われ続けておるしな。
「ショーセイらしくない言い訳が多いよね。」
ふいにアヤツは屈んで、小生に耳打ちする。
うるさいわ。
自覚はあるが、認めてはやらん。アヤツが屈んだことをこれ幸いとアヤツの背中に飛び乗る。アヤツが
背筋を伸ばす前に、細かな歩幅でアヤツの左肩へ移動する。
「そんな意地の張られ方されても。」
しつこいぞ、そもそもこんなとこまで小娘を連れてきているのだ。小生に構ってる暇があれば、小娘の様子でも注視しておけ。丁度良い位置にあった、アヤツの頭を小突く。大して痛くもなかろうが、アヤツは、小生が小突いた辺りをさすりながら、身体を起こす。
アヤツは返事を返す代わりに小さく肩を竦めて小娘とその母親へと向き直る。
アヤツとのつまらぬやり取りの間も、母娘に動く気配はない。
きっかけの見えない、この静止画のような状況が変わるまでただ待ち続けるしかないのか、うんざりと目線を落とす。
小生とていくら手持無ち沙汰とはいえ、こんな訳の分からん上に元の世界への戻り方も分からん空間で、昼寝を決め込むほどの豪胆さは持ち合わせておらん。普段なら何もすることがないというのは歓迎すべきことなのだが。だからこそ、こんな場所で暇を持て余すのは、不本意極まりない。
この状況を生み出した腹いせにアヤツの頭へ飛びのる。
小生の移動にアヤツは無反応で、母娘に目を向けたままだ。頭にのった後に頻繁に首を振られても居心地が悪いだけだがな。
視界が急激に高くなって角度が変わっても母娘の姿勢は変わっていない。小生が何かしらのきっかけを与えてやりたくなるほどのまどろっこしさだ。
退屈すぎてアヤツの頭の上で、顔を腹に埋める。
っ
顔を埋めてから暫くの間を置いて、アヤツの頭の上であれば微睡んでしまっても良いかと思考を纏めた頃に、カタンッと木と木のぶつかる音が鳴る。
やっとか
意図せずとも不平の込もってしまう独り言は、どう控えめに言ってもボヤキでしかないだろう。
ため息交じりに漏らさなかったのが小生なりの気遣いではある。どうでも良いことだがな。
「ジブンはショーセイのそういう努力は嫌いじゃないけどね。」
つまらないことを言ってくれるな。
強めにアヤツの頭を蹴って、床に飛び降りる。
「ショーセイって悪く言われるのも嫌いだけど、褒められるのも苦手だからなぁ。」
小生が蹴ってやった側頭部を左手で摩りながら、アヤツはさらにつまらないことを言い重ねてくる。
断定的な言い方は非常に気に入らないが、小娘の母親が動いたというならアヤツの戯言に付き合ってやるより、その動向に注視する方が幾らかマシだろう。
「ショーセイの中でのジブンの扱いは、本当ぞんざいだよねぇ。」
アヤツのつまらぬボヤキは、小生の頭の上を通り過ぎていく。底意地の悪い心地で仮想で形を与えたアヤツの言葉の行方を目で追ってやる。
諦めきったという体でアヤツが大袈裟に肩を竦めたのを多少満足した心地で横目に見ながら、小娘の母親の行方を追う。
すり抜けるまでもなく開け放たれたままの襖の先にある和室。そこには小さく頼りなく、背筋はしゃんと伸びているにも関わらず、崩れ落ちそうな背中があった。弱音を吐いてはいても遺影に向かって毅然と正座をしていた前回とは違って、遺影の前に項垂れて座り込んでいる。
簡単な上に、つまらない未来予想に小生は多少なりともうんざりする。なぜなら人間が弱音を吐くよりもさらに落ち込んだ時に口にするのは泣き言くらいしかないだろう。
小生の萎えた気持ちはこの部屋をもう一段階沈ませる。
そうした静寂はこの部屋に入るのを躊躇わせるもう一枚の扉になるのだろうか。アヤツも小娘もこの部屋になかなか足を踏み入れてこない。
その重々しい静寂を小娘の母親が、打ち破る。。
「…あの子、今日万引きしたん…だって…」
弱弱しい、静寂を打ち破ったのが嘘のような心もとない震えた声がそれでも空間を満たしていく。声が聞こえるだけで空気が軽くなったりするわけではない、むしろその独白で空気は湿り気を帯びて尚のこと、重く沈んていく。
「あの子ね、あなたと笑った時と怒った時の顔がそっくりなんだよ。やっぱり親子なんだなって思う。あなたの子なんだって思えるのが本当に嬉しい。………でも今回ばかりはあなたに似ていることが、こんなに辛く思えるなんて想像もしてなかった。あなたと同じような表情で悪さをしたって思うと堪らないの。あなたが、万引きとか誰かを傷つけるようなことをするなんて想像出来ないもの。でも、あの子はあなたがしていたような表情で、万引き…したんだね。」
体の他の部分は微動だにしないのに、スカートの裾を握りしめる拳だけがその声と同じく小さく震えている。
ほら見ろ、小生が嫌いな人間の姿を見ることになった。
小生らに弱音や泣き言なんぞ無縁だ。
それを聞かされるなんて不快で居心地が悪いだけのものでしかない。
「常にああいうものを抱えていても、普段は億尾にも出さないのも人間なんだけどね。」
いつの間に入ってきたのか、アヤツが小生の横に立ってそんなことを囁いてくる。
「たまに漏らすからといって泣き言が耳障りよくなるものでもなかろう。」
「それは、まぁそうなんだけどね。」
アヤツが曖昧な言葉を選んで反論を諦めたのは、小生との言い合いが平行線になることが分かっているからと小娘の母親が口を開き始めたことからだろう。
「…私一人で育てて見せるなんて、思い上がりだったよね?今更だけど、私はあの子のことをどれだけ見てたんだろうって、考えちゃった。さっきの警察から電話で『うちの娘に限って』なんて言いかけたけど、私は響子のことをどれだけ分かっているのかな?って。それを言って庇ってあげられるほど、私はあの子のことを分かってない。その上、盲目的にそれを言ってあげることも出来なかったよ。たった一人の母親がこんなんじゃ娘も真っ直ぐには、育ってくれないよね。」
どんな力で押さえつけられたら、あんな風に項垂れることになるのか。そのまま座布団ごと畳にめり込んでいきそうではある。
子供なんぞ独り立ち出来るようにだけしてやれば、それ以上親にすべきことなんぞありはしないだろうに。
「ショーセイ、人間はかなり複雑な社会を形成して生きているから、独り立ちには小生が考えている以上に時間がかかるんだよ。」
アヤツが腰を屈めながら小生の耳元に口を寄せながらそっと囁きかけてくる。
子供を独り立ちさせるのにこんなに思い悩まねばならないような複雑な社会は、人間に必要なものなのか。
釈然とせん。
「少なくとも今、この社会の中で生きている人達は、この社会の中で生きる術しか知らないだろうね。ショーセイの考える独り立ちのように、どこか野に放たれて自身で食糧を確保して、食べていくことのできる人は多くないと思うよ。」
それで独り立ち出来ていると言えるのか。
「人間のそれは生活に必要な衣食住をこの社会の中で、確保することなんだよ。」
そうなのか、でもこの前連れていかれた場所では、食糧が安定して行き渡っているようには見えなかったがな。人間のやることは、解せぬことばかりだな、どうでも良いがな。
「どうでも良いと言い続けているのに、人間のことをあれこれ気にするあたりがショーセイらしいよ。」
ムキになって反論するのを待ち望んでいるのが、丸わかりだ、戯けが。
小生はアヤツとの会話を打ち切って小娘の母親の方へと居直る。
「あなたとの子というのが、こんなにも誇らしいのに、私はちゃんと導いてあげられなかった。ごめんね、ちゃんと育てみせるって約束したのに。…本当にごめんね。」
小生には分からぬ。一人前とされる大人が迷子になった子供のように、弱弱しい声を発することが。
ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン、ボーン
全く同じ間で何故か懐かしさを感じさせる重たい音が9回鳴り響く。
パーン
その最後を締めくくるかのように乾いた音が続いて響く。
見やれば、小娘の母親の両頬が薄紅色に染まっている。
「のんびりしてる場合じゃなかったわ、もう行かなきゃ。毎回こんな泣き言ばかりでごめんね。それでもあなたのおかげでなんとか母親を続けられてます。ありがとう。」
さっきまでの弱弱しさとは打って変わった、言葉。
まさか両頬を叩いたことで切り替えたとでもいうのか?
「人間って、だから面白いと思う。ショーセイは独り立ちした人間が弱弱しい声を発することで、一人前ということに疑問を感じたようだけど、(こうして些細なことで切り替えられることが人間の強さなんだと思うんだよね)」
アヤツの耳打ちが終わる前に小娘の母親が襖の手前で振り返って仏壇に語りかける。
「それと、今回あの子が万引きとしたの財布なんだって。あの子が今使ってる財布って私があなたのをお義母さんから貰ったあの財布なのよ。そこだけは感情的になっちゃうかもしれないけど、許してね。」
その言葉を仏壇に向けてそっと呟いて、、。タンスの脇に置かれた鏡台に向かって座る。引き出しを開けて細々とした瓶やら何やら色々取り出す。鏡台に置かれていた円柱状のものから白い布らしきものを引き出すと、それで顔を拭い始める。目と口の周りを丹念に拭ってから、鼻筋と口周りを拭って一通り拭ってその布らしき物を鏡台の脇に置かれていたごみ箱に放って、しげしげ自分の顔を角度を変えて確認してから先程鏡台の上に出した細々した物のうちの一つの蓋を開け底にあるものをぬぐいとりながら顔に塗りたくっていく。「折角綺麗に拭ったのに、「」「また何かを顔に塗りたくるのか?本当に人間のやることは訳が分からんな。」「うっさいわねぇ分かんないなら、大人しくしてなさいよ。」小娘が眉を吊り上げて挑みかかるように噛みついてくる。「女は外に出る時、身だしなみに気を遣うものなのよっ」小娘が説明のつもりなのかよく分からん言葉を叩きつけてくる。小生と小娘がそんなやり取りをしているうちに口を春に咲く花のように塗った小娘の母親が立ち上がっている。。些か退屈していた小生としても、有難い変化だ。ふはぁぁその退屈が具現化したような欠伸が漏れる小娘の母親が動く気配があるということは、アヤツも移動するつもりということであろう。こんな得体の知れないところに取り残されたら堪ったものではない、少々慌てて、アヤツの左肩に飛び乗る。
。
無人になった小娘の家で、静寂が天井から舞い落ちて、降り注ぐようだ。小生ですらついつい発する言葉を見失う。
ああした母親の姿を見せられて、小娘がどんな顔をしているかを見てみたくなって振り返る。
小生の視線の先では、つい今しがた引っ叩かれたかのように、左頬を押さえた小娘が、黙して項垂れている。
小娘の母親がいなくなって時間が折り重なる度に、静寂が積もっていく。何かの足止めになってしまうのではと危惧するほどに。
「さて、もう少しだけ、お母さんの姿を見守れば、あなたを警察署に迎えに行くことになるよ。」「えっ過去の私自身に遭遇するってこと?変なことにならないんでしょうね。」訝しげな目線を向けてくる小娘に
「警察署に行った時、自分と遭った記憶なんてないでしょ?」「先に言ったけど今のジブン達は、何かに干渉したり出来ない、魂だけの存在だから、姿を見られることはない。
。」アヤツが応える。小娘の訝しむような目線が和らぐことはなかったが、フンッ疑り深い奴だ。
放っておけば、しんしんといつまでも降り積もりそうだった静寂をアヤツが断ち切る。
「なんなのよこれ、さっきのといい今のといい、私のお母さんの弱い姿を見せてどうなるっていうのよっ。」
打ちひしがれていたように見えた小娘が、咄嗟に矢継ぎ早に言葉を並べたことには少なからず、驚嘆を覚える。まぁ、口やかましいってだけではのことではあるのだがな。
「何になるかはジブンには分からないけど、あなたはこうした母親の姿を知らずに自ら命を絶とうとしていたんでしょ?ジブンはそれを独りよがりって言うのだと思っていたのだけど。」
相も変わらず穏やかな口調で痛烈だな。苦みと痛快さの綯い交ぜになった想いに思わず顎の下を後ろ足で掻いてしまう。
当の小娘といえば、アヤツの言葉を持て余したように、また項垂れて口を噤んでいる。
「もう一つジブンにはよく分からないのだけれど、今しがたみたお母さんの姿は弱い姿だったの?ジブンはてっきり強い姿だと思っていたよ。」
追い打ちをかけるその言葉を、妙に納得する心地で聞く。先ほど小生に向けて言いかけていたのはこれか、と。だとしてもな、新たに湧き上がった疑問は後回しにすることにして、アヤツがどうするつもりなのかを見極める心地で涼しい顔を見上げる。小娘は眉を吊り上げてアヤツに食ってかかる。
「……もう良いわよ。お母さんのことは分かったわよ。私はお母さんのことを分かってなかった、そういうことでしょ。」
押し黙っていた小娘がその黙っていた時間の分だけ重くなっていたかのようにおずおずと口を開く。
「そう、でもあなたのお母さんのことを知ってもらうというよりもあなた自身のことを知ってもらうためなんだけど。それにこの程度のことでお母さんのことを知れたなんてのは思い上がりだと思うよ。」
さらに突き放す。小娘を黙らせ項垂らせるのに十分な衝撃をもって。
「まだまだ分かってないと思うんだよね。あなたにとってのあなたではなく、他の人にとってのあなたというものが。だから、もう少し付き合ってもらおうかな。」
強制する要求の語尾を“かな”なんぞにしたところでな。
本当に今更、今更だが呆れつつ溜息が漏れる。
「えーと、ここが良いかな?」
小娘の返事がないのを良いことに、無遠慮にずかずかと和室の奥に進むと仏壇の隣の襖の前に立って大鎌を構える。
あれだけ大きな大鎌を普段は小生にすら意識させない。根っからのむっつり体質なのか、攻撃性の皆無がそうさせるのか。
眼前で真横に掲げた大鎌を回転させる。その動きに合わせて、ぼぅ、と大鎌が紫に発光し始める。
鎌は向きを変えた大小の円を中空に描き、僅かに軌跡を残しながら消えていく。
パシッ
打ち止めとばかりに垂直に立てた状態で景気よく回っていた大鎌を両手で受け止める。それと共に紫色の発光が弾けて霧散する。
「さて、と。」
まるで料理の仕上がりを確かめる為に鍋の蓋を持ち上げるような気軽さで、襖を引き開ける。
うっ
開けた先には、光が満ちていて思わず顔を背ける。
その襖の先の様子にうまくいった、なんて呟きながらアヤツは小娘に近づいていく。
「もう少し、付き合ってもらいたいんだよね。このままだとあなたのお母さんがあなたに向けて抱くものを中途半端に見せたことになっちゃうから。」
「これ以上何を見る必要があるっていうのよ。」
「あなたが見たいと望むような楽しいものではないだろうけど、これまであなたが見ようとしてこなかったことを見てもらおうとは思ってるよ。これまでのだって、そうだったでしょ?」
「こんな風に母親を覗き見る必要があるのかって、言ってるのよっ。そもそも見ようとしてこなかったことっていうのは、自分の大事にしてたものをぞんざいに扱われたから結構簡単に母親が感情的になるって、そんなこと?そんなことを見る必要ってあるっ?。」
「必要か不要かは自分で考えたらいいと思うし、お母さんが感情的になるなんてことしか見つけられないならそれはそれで良いと思う。ただあなたのお母さんの断片を見せるにしても、こんな一部だけっていうのは、ジブンの矜持が許さないんだよね。」
「なんであんたの矜持に私が付き合わなきゃならないのよっ。」
やれやれ小生は早いとこ昼寝に興じたいのだがな、そうした未練を振り払う心地で2本の尻尾を大きく振って立てる。
「アヤツ、こんな小娘に自分の根源を見て受け止めることなんぞ出来るはずもなかろう。おんしは本当に無駄なことに時間を割き過ぎる。」
「どういう意味よ」
「言った通りだ。物事の本質を見極める目を持たないようなお子様に、事実を見せてやったところでただ眺めるにすぎん。小娘と意見が揃うのは不本意極まりないが、これ以上時間を遡ってまで、母親の姿を小娘に見せる必要なんぞなかろう。」
態々小娘から視線を逸らしながら、聞えよがしにアヤツに進言する。
「まるで私のことをお見通しみたいに言わないでよっ。」
「小生らの方がおんしのことを分かっておらんというなら、その襖の先で証明すればよかろう。その行く先がどこかは小生は知らんが、どうせおんしに縁がある場所に決まっておる。そうした場所で示せないのであれば、他のどこでもおんしらしさを示したりできんだろ。」
「分かったわよ。行ってやるわよ。」
畳を踏み抜きそうにドタバタと足音も口も喧しく襖の光へと飛び込んでいく。
分かりやすい人間を煽るのは容易い。普通こんな得体のしれない光なんて警戒してしかるべきだろうに、躊躇わずに飛び込んで行ったからな。
あからさまな強がりのその様に、不覚にも吹き出しそうになる。
「娘の前では虚勢を張り続ける母親と訳の分からない強がりを振りかざす小娘、似た者母娘と言ったところだな。」
アヤツは小生の独り言にアヤツが、だね、と小さく首肯する。
「しかしまったく面倒ごとに巻き込んだ上に詭弁なんぞ小生に使わせるな。」ごめん、アヤツの小さな謝意「ふんっ、少しでも謝罪の気持ちがあるなら、一つ聞かせろ。」
なに?僅かに気の抜けた表情で先を促がす。
「小娘の母親が精一杯張っていた虚勢をおんしが暴いてしまって良かったのか?」
「んー、駄目だったのかもしれないね。」
「なんだそれは、余計なお世話の上に、他人の努力を台無しにしたということか?」
「その言い方、的を得ているけど元も子もないなぁ。」アヤツが頭の後ろを掻きながら苦みを覗かせる「でもねー、あの娘に知って欲しかったんだよね。母親があの娘の前で凛々しくいられるのは、決意と努力の賜物でそれこそが母親の強さなんだってことをね、余計なお世話って言ってしまえばそれまでなんだけど。」
「ふん、おんしのしていることなんぞ、大概が無駄なことだからな、今更気にするようなものでもなかろう。ただ小生にはおんしが言う人の強さというのが腑に落ちん。どちらかと言えば弱さとも思えるのだがな。」
アヤツは虚空を見上げ、少しだけ考える仕草をした後、口を開いた。
「これは僕の勝手な持論なんだけどね、人の強さの一つは虚をあたかも実に見せられることなんだと思ってる。強がり、虚勢、見栄、誇張、あまり良い表現で使われる言葉ではないけど。でも、そうした虚が時には人には必要みたいなんだよね。自分を奮い立たせるため、守るべき存在を安心させるため、後進の者の導となるため、に。
そしてね、人は努めてその虚を実にし続けたりする、その虚が誰かの実になり続けるなら、もう虚とは言い切れないんじゃないかな。と思うんだ。
辛いと思うんだよね、実力が伴わない自分を偽るのって。そして偽り続けるのなんて、ただ苦しいだけだと思うんだよ。
だからそれを続けられることは強さなんだと思うんだ。」
「本当はボス猫の器でない猫がボスを名乗って、群れの者からボスだと思われ続けるなら、群れの者にとっては紛れもないボスだということか。」
【5】
小娘の母親がスクッとたち上がって、タンスの並びに置かれた鏡台の前に座る。自身の顔を映しながら、真剣な表情で顔に何かを塗りつける。縫っていた物の蓋をパタンッと閉めて、何度か顔の角度を変えて確認して満足そうに大きく頷いた後に、立ち上がって先程のテーブルに戻って、椅子の上に置いていたバックをひょいっと持ち上げて、玄関に向かってずかずかと小娘の母親が歩いて行く。
「そんなところかな。」少しの戸惑いを曖昧な表情と言に隠しながらも、肯定する。
玄関の扉の脇の棚の上にに置いてあった先程色々な物を詰めていた重そうな手提げ袋を持って扉の脇に置かれた傘立てから、黄色の傘を抜き取り扉を開け放ち、パンッと傘を広げて後ろ手に扉を閉める。ガチャガチャとドアノブ辺りで、音ををさせる。「雨降ってるみたいね。」小娘が嫌気を隠しもせず不満の声を上げる。小生も妖になる以前は、雨を苦手としていたから気持ちは分からんでもない。アヤツは、ひょいっと廊下から玄関に飛び降りて小娘へ振り返って「さぁ、お母さんを追いかけよう。」有無を言わさぬ、素早さでとっと玄関のドアをすり抜けて外へと出ていく、「ねぇ、雨降ってるんでしょ?」」「今の小生達に雨なんて、どうということもない。」小娘が出て行こうとしないから、小生が態々説明してやらんとならん、面倒くさいことこの上ない。アヤツめっ気付いていながら、小生に押し付けおったな。後で髪を毟ってやる。すり抜けるとわかっていても目に見える障害物をすり抜ける時ついついぶつかった時の衝撃に備えて、身体を固くして身構えてしまう。ドアをすり抜けて広がった視界にアヤツの背中を捉えると、目掛けて、うっすらと出来始めている水溜りを避けつつ走る。アヤツの歩いているために、後方に跳ね上がった、左足のふくらはぎを足掛かりにして、アヤツの身体を駆け上がる。一気に左肩まで、到達すると、「ふざけおってとおもいながら、サラサラと揺れる黒髪へと左前脚を伸ばす腹立ちのままに何度も繰り出すが手応えがないために、、一向に苛立ちがおさまらん。たまたま、黒髪の向こう側のアヤツの左頬に届く。「ショーセイ痛いよ。「うるさいわっ小娘なんぞ、小生に押し付けおって」当の小娘は、母親の黄色い傘を興味深そうにみつめている。「小娘、なにをしておるのだ?」「うん、雨が降ってる時って、傘の上ってこんな風になってるんだね。」何が面白いのかは分からんが、嬉々としてそんなことを言ってくる。「雨粒が傘にぶつかって傘が一瞬たわむ様がそんなに面白いか?」「普段見られないものがみられないものがみられることが新鮮なんじゃない。」「猫なんかにこの感動は分かんないわね。所詮猫だもんね。」「なんだ、小生を愚弄しておるのかっ。」「ショーセイ、ジブンの耳元で言い合いをするのをやめてくれないかな?」「フンッ喧嘩を吹っ掛けてきたのは、小娘の方ではないかっ。」アヤツの頭を左前脚で一発小突いておく。少し距離が離れた前方にいた小娘の母親が道の脇にある白い骨組みに緑色の布を張った庇が道の上までせり出している建物にひょいっと入る。「どうするの、私達も入るの?」「ううん、お母さんの行きたい場所はここじゃないはずだから、少し進んでおこう。」小娘の問い掛けにアヤツは答えつつ、ことば通りにその建物を通り過ぎる。小生は少しばかりあれだけの荷物を持って行く場所というのが気になってアヤツの頭に飛び乗って建物を覗き込んでみる。季節を無視した花々が並ぶ気持ち悪い場所であった。「なんなのだ、今の気味の悪い場所は?」「花屋さんだよ。」「春も秋も一緒くたになっておって気色悪いな。」「なんなのよ。情けないわね花屋くらいで狼狽えちゃって」「黙れっ小娘。」「そんな可愛らしい声で怒鳴られても、全っ然怖くないんですけど。」「なんだとっ小生をまたも愚弄するのかっ」「馬鹿にしてないじゃないっ」「声が可愛いって褒めてるんでしょっ。」「煩いわっ。」「小娘のように半人前の人間に可愛いなんて、称されることが侮辱なのだっ。」「あんた達なんか、出来損ないの死神じゃないっ。死神の役割をちゃんと果たしたことないんでしょっ」「アヤツ、おんしのせいでこんな小娘にまで小生が馬鹿にされるではないかっ。」腹いせにアヤツの頭を左前脚で小突く。「言い争いはそっちでやっててよ。」顔をあげると、小娘の母親が、白い紙にくるまれた数本の花を携えて、きしょくの悪い建物から出てくるところであった。重そうな手提げ袋と肩から掛けたバッグと持ちづらそうにしつつ、何も残すことなく運んでいく。
「なんで小娘の母親は、あんな大荷物で移動しているのだ?」「必要だからに決まっているでしょっ。「人間は
色々な乗り物を使うのに、あんな動きづらそうなまま歩かねば、ならんのか?」「うちには車がないんだから、しょうがないでしょっ。」「お母さん、車が嫌いだから運転したくないんだって。」「うちの勝手でしょっ」「だまってなさいよっl」「猫のくせに煩いのよっ」腹が立つ小娘の言葉「黙れっ。」言い返して腹立ちのままに左前脚を振り上げる。勢いをつけて、振り下ろす。
「ショーセイ、痛いな。」アヤツが非難めいた声を上げる。「ショーセイ、憂さをジブンで晴らすのやめてくれないかな?」ふと顔をあげると、小娘の母親が歩きにくそうにかどを曲がって姿を消す。アヤツがおいかけて同じ角を曲がると古めかしい塀にまで瓦屋根をのせている通りだった、「寺か?「うん、そうみたいだね。」アヤツがそんな風に答えてくる。小娘の母親は正面に見える本堂らしき建物にむかうつもりがないらしく、右に曲がって石の階段を昇っていく。その後をおいかけて、広がった光景は、墓石が所狭しと並ぶ、場所だった、「墓か?」「だね。」アヤツが小生の独り言に一々同意してくる。見れば分かることに同意なんていらん。アヤツの頭から飛び移るのに丁度いい高さの墓石が並ぶ不自然な光沢の墓石は濡れて、氷の表面のように滑りそうな気がしてならない、その印象が小生に墓石に飛び移るのを躊躇わせる。その一つ一つに何かが刻まれている、人間達にに意味があるものであるのだろうが、し小生にはさっぱり意味が分からん。意を決してアヤツの頭から手近な墓石に飛び移る。小生の危惧は杞憂に終わってぼせきの上に降り立つ。「あんたなんてことをしてんのっ」「墓石の上に乗るなんて罰当たりねっ」小娘が喚いてくる。「うるさいのぉ」「そういうところは所詮猫ねっ。」「小娘っ、所詮って言ったか?」「人間のしきたりなんぞ、小生の知ったことかっ。」小生と小娘が言い合いをしてるうちに小娘の母親がとある一つの墓石に近付いていく。小生には分からんが、立ち並ぶ他の墓石とは何かが違うのだろう。アヤツが小娘の母親に近付こうとしているのが丸分かりだ。墓石からアヤツの頭に飛び移る。小娘の母親は墓石のすぐ脇にある石の小さなテーブルのような物の上に重そうな手提げ袋を置いている。「あれらはここの墓で使うものだったのか?」「みたいだね。」小生の呟きにアヤツが律義に答えてくる。小娘の母親は、手提げ袋から白い何かを取り出し、それを両手に嵌めて更に手提げ袋から透明な液体が入ったペットボトルも取出す。そうした作業を傘の柄を首で挟みながらおこなっているので、見ているこっちがまどろっこしい。「何で小娘の母親は、あんなに作業をしづらそうな姿勢で作業しておるのだ?「」ああしてないと、雨に濡れちゃうからねぇ。」「フンッ、こんな雨降りの日に日に態々やろうとするから、苦労するのではないか。」「うっさいわねっ。」「人間の事情も分かんない猫は黙ってなさいよっ。」「あまりにも無駄に思えて口にしてしまっただけだ。」「フンッ半人前の小娘が小生に対して偉そうな口を叩くなっ」「なによっ、あんた達なんて聞く限りでは、ポンコツじゃないっ。」「ポンコツって言われたのは初めてだけど、違いない。」「アヤツよ、何故、アヤツよ、あっさり同意しているのだっ、小生は認めんぞっこのアヤツはいざ知らず、小生は、断じて、ポンコツなどではないっ。」小娘の母親が透明の液体が入ったペットボトルを持ち上げて蓋を外して。その中身を墓石にどぼどぼとかける。「あれは水か?」「おそらくはそうじゃないかな。」アヤツが小生の独り言に一々返事をしてくる。「フンッ既にびしょ濡れなのに態々苦労して
水を運んできて墓石を濡らすなんて、小娘の母親は阿呆なのか?」「うっさいわねポンコツ猫っ」「お墓を掃除するんだったら、雨水で済ますわけないじゃないっ。」「小娘っポンコツ
猫とは、小生のことであるまいなっ」「取り消せっ今すぐにっ。」「あんたもお母さんのことを阿呆って言ったことを取り消しなさいよっ。」「ショーセイ、分が悪そうだね。」「なんだアヤツ、小娘の肩を持つつもりかか。」肩入れなんてするつもりはないけど。」「ショーセイの方が先に暴言を口にしてたからねぇ。」小生達のこうしたやりとりのうちに、小娘の母親は、手提げ袋から白い布を取り出し、それで、墓石を磨いている。墓石の上下に重なって重なっている土台になっている石かから人間達が工事とやらをする時に境界に並べる物のような形をした銀色の物を抜き取り。逆さにして、手近な砂利に中身を零している。上下数回振って最後の一滴まで切るようにして元の場所に戻して、ペットボトルの中身を注ぐ。そこへ、花屋とやらから持って来た花を挿す。手提げ袋から白い紙を数枚を取り出して、土台墓石の土台の石の上に置いていく。そのかみの上に手提げ袋から取り出した果実を置いていく。。缶を取り出し、プシュッと音をさせて土台の石の上で紙がおいてない場所に置く。土台の石にくっつくようにある上の石に何事か刻まれいる面と同じ向きに、妙な形の穴が開いた石の上に小娘の母親は、中央に突起がにある皿を置く。その突起?燭を突き刺す。その?燭に火を灯す。緑色の線香を数本持って?燭の火に突き入れる。火がついた線香を持ってないもう片方の手で扇いで火をついているか消えているか微妙なほど微かなほど小さくして妙な穴にその線香を寝かせて置く。小娘の母親は手を合わせて墓石に語りかける。「あなた、家でも聞いてもらったんだけど、響子が万引きしたんだって、この後迎えに行ってくるね。あなたの命日である今日、そんなことをするなんて私の接し方がそんなに悪かったのかな?」小娘の母親の声は、降りしきる雨のせいではないだろう、湿って小さく響く。小生らは、背中しか見えんが小娘の母親は、「おいアヤツ、この位置からでは小娘の母親の背中と傘しか見えん。回り込め。」アヤツが素直に移動すると小娘の母親は、傘の下で手を合わせていた。人差し指の腹と親指の腹でで涙を拭っている。小娘の母親のすぐ後ろに控えていたため、小娘も聞き洩らすことはなかろう。小娘が聞き漏らそうとも、小生の知ったことではないがな。「やっぱりショーセイは優しいね。」「アヤツ、黙れっ。この長い時間が無駄になることを危惧したにすぎん。」フンッ聞き洩らしていなかったか。
「お母さんって思った以上に弱い人だったんだね。」
「ジブンはとっても強い人だと思うんだけど。」「どこが?ここでも家でも泣いちゃって。」小娘が口にした、小娘の母親を揶揄するような言葉に、アヤツが反論する。「あなたの前では弱みを見せずに毅然とし続けていたんでしょ。」小娘は首肯して、アヤツの言葉を肯定する。「あなたがお母さんの泣く姿を見る度に狼狽するから、こうした姿を知らなかったんだろうなと簡単に想像出来たよ。」「ここで見てほしいことはお終い。」」アヤツはふぅぅぅと大きく息を吐く。一仕事終わりとでも言いたげに。「この後も小娘の母親の後をつけるのか?」まどろっこしい小娘の母親の母親の行動を見るのに飽き飽きしていた、小生がそう訊くと「この後は警察署に響子さんを迎えにいくだけだから、もういいかなって思ってるよ。」そうアヤツが答える。「もう一箇所だけ別の所に行きたいなって思ってるよ。。」はぁぁあ。これでもかというほどに盛大に溜息をついてやる。右肩に担いでいた大鎌を地面と垂直に立てた状態で眼前に持ち上げた大鎌から、アヤツがパッと手お離す。大鎌が一瞬だけ直立する。その後、バランスを崩し倒れ始めたところをアヤツが右足で柄を正眼に構えて目を見開く。パッと突き出した両手を開いて大鎌から手を離す。大鎌は、直立した状態でそのまま落下する。地面に大鎌の柄の先端が触れた瞬間、そこを中心に半径5メートルほどの鈍く紫色に光る二重の円が生じる。と垂直に眼前に持ち上げた大鎌から、アヤツがパッと手お離す。地面に大鎌の柄の先端が触れた瞬間、そこを中心に半径5メートルほどの鈍く紫色に光る二重の円が地面に描かれる。
大鎌が一瞬だけ直立する。その後、バランスを崩し倒れ始めたところをアヤツが右足で柄を払う。回転しながら、アヤツの顔の辺りまで上昇してきたところでアヤツが両腕を空に向けて突き上げるとまだ回転し続けている大鎌に向かって振り下ろすその勢いを受けたかのように、、更に回転速度を上げた大鎌は柄の先端と刃の先端が鈍い紫色に発光し始める。それに呼応するように地面の円の光の輝きが増す。小生達を包むような紫の光の丸い柱となったこの領域は小生にとって初めて見るものではない。「なんなのよ。これ。」だから小娘のように慌てふためく必要がない。「何するつもりっ。」「もう一つ別のものを見てもらおうかな?と思って。」「これは死神の能力だけど、心配しなくていいよ。あなたに危害を加えるために使っているわけじゃないから。」「そんなことを言われても安心できるわけないじゃないっ。「違いない。」アヤツが小娘の非難に同意した瞬間。紫色の光が爆ぜた。小生はあまりの眩しさに目を瞑る。目を開けると、そこは、穏やかな陽が照る。大きな建物の敷地らしく思い思いに歩く人々の姿は、至る所に植物が植わっている様子は公園と呼ばれる場所の雰囲気に似通っている気がする。
思い思いに歩く人々の中から
母親と父親と思しき人物に片方づつ両の手を引かれて歩く幼い娘の背中をアヤツが指し示して、「この人達を見てて欲しいんだ。」と、小娘に告げる。
「この人達誰よ?」小娘が訊く。「あなたとは直接関わったことのない人達だね。あなたの演奏を観ていた人達だよ。」
」
それで、そんな人達を私に見せてどうすんのよっ。」アヤツの回答が気に食わなかったらしく小娘が声を荒げる。
「三位だったあのお姉ちゃんみたいにピアノが弾きたい。」「優勝したお姉ちゃんじゃなくて?」真ん中を両手をひかれながら歩く幼い娘がそう口にする。「三位だったお姉ちゃんって私のこと?」小娘が訊く。「そうだよ。」「ジブンには芸術のこととかは分からないけど、そのことに精通した専門家が認める演奏とそのことを知らない人を惹き込んで、何かを決意させてしまう演奏どっちが優れているなんて決められるものなのかな?」アヤツの問い掛けに小娘は黙して俯いただけだ。小娘が何を想おうと小生の知ったことではない。
「うん、だってね、優勝したお姉ちゃんのピアノはいっぱい叩かれたみたいに疲れちゃった。でも三位のお姉ちゃんのピアノ、お父さんが寝る時にご本を読んでくれるみたいで、お母さんが寝るときにお歌を歌ってくれるみたいだったんだもん。」母親と思しき女の問い掛けに、幼い娘がその歳相応らしく体全体で頷いてみせる。続ける幼い娘の精一杯の説明を両親と思しき男女はにこやかに聞きながら穏やかな陽射しの中をそれに相応しいお似合いな団欒といった雰囲気で歩いていく。街中に紛れてしまえば小生に見分けることは出来んだろうその親子の意図せずに後ろ姿を見送る。小生の足となっているアヤツがそこで立ち止まったからな。
「だって。」アヤツが小娘に視線を投げ掛けながら肩を竦めてみせる。
【余談】
小生達が一向に濡れぬことに雨粒共が腹を立てた訳ではなかろうが、一層雨の降りが激しくなる中、傘に落ちた雨粒が傘の上を丸い形のままで転がるでもなく滑っていく様に小生も同じように滑ってみたいといういう欲求が生まれて小生が思いついたままを口にする。「小娘の母親の傘に飛び乗って滑り降りるのも面白そうだな。」「ショーセイ、無駄に驚かせるだけだから、そういう悪ふざけは勘弁してもらえるかな。」「フンッ口にしただけであろうが。」「ショーセイだったらやりかねないでしょ?」「フンッ些末なことをグチグチと、煩いのぅ。」傘の下で小さく身を縮こまらせ、しゃがみながら墓に手を合わせたまま『あなたごめんなさいあなたごめんなさい』と唱え続ける、小娘の母親は雨粒でもかかったのかビクッと背と肩を強張らせて、手首に巻かれた時計に視線を落として唐突にスクッと立ち上がって「あなた、行ってきます。」と声に出して、小さく頭を下げて踵を返す。
誰も止める者がいないここではいつまでもしゃがんで手を合わせて謝り続けていそうだった、(現に小生達がここに戻ってくるまでこうし続けておったのだからな)
、立ち上がって背を向けて歩き出した小娘の母親の後ろ姿をじっと見ている小娘の視線を遮るように小娘の目の前へとアヤツが数歩分の距離を大鎌を後ろ手に持って大股な横歩きで移動して小娘の目の前に立つ。
雨が降り頻る中で小娘とアヤツが向かい合う。そこそこ長い時間を小娘と共に行動してきたが、この二人が向かい合って話すのは珍しい気がする。「今あなたがお母さんに掛けたい言葉は『ありがとう』と『ごめんなさい』とどっちなの?」「そんなの分かんないわよっ。」小娘が全てを拒むように目を瞑って髪を振り乱しながら、叫ぶ。「今のあなたに謝意って言葉はぴったりな気がするんだよね、謝意って面白い言葉だと思うんだよ、感謝の心、詫びる心って一見すると相反する意味合いを一つの言葉に持たせているところが面白いと思うんだよね。」「でもね」「感謝の気持ちって何かをしてもらってありがとうって過去にあったことに抱く気持ちでしょ?謝罪の気持ちって過去に自分のしてしまった過ちを詫びる気持ちでしょ、過去のことに抱く気持ちってところは共通しているような気もするんだよね。感謝の気持ちも謝罪の気持ちも自分のありのままの気持ちってところは一緒な気がするんだよね。謝罪の気持ちって過去に自分のしてしまった過ちを詫びる気持ちでしょ過去のことに抱く気持ちってところは何一つ変わらない気もするんだよね。」「ありのままの気持ちを伝えたいってところは全然相反してなんかないと思うんだよね。」「意地っ張りのあなたにはどっちも素直に口にし難いでしょ?」
アヤツが小首を傾げながら訊いた言葉に小娘が視線をそっぽに投げ捨てながらうん、そうかもね、と首肯する。フンッアヤツめっ何が『ジブンは口下手だから』だっこうやって言い聞かせられるのであれば、何の為にあっちこっちに行ったのだっ。大概にしろよっ雨音は強いまま小生達を濡らせぬまま包み続けているが、二人の会話を遮るほどではないのが、幸いかもしれんな。小生にとってはどうでもよいがな、聞き逃しても痛くも痒くもない会話だからな。
、「生きてきた時間と経験したことが判断基準を増やし、選択肢をも増やす、寛容さをも大きくし、だからより良いと思える判断が出来るようになるんじゃない?。あなたには、物心ついたときから現在の17歳という年齢まででの経験でしか世界を見れないように。
まぁ、お母さんのほうが達観してるって事実が気に食わないのなら、認めないなり諦めて受け入れるなり違う方法なり好きにすればいいと思うけどね。
「諦めた上で短絡的に人生が虚しいなんて決めつけて命を絶つなんて早まった判断をしなければ、、人生経験でいつかお母さんを追い越したり出来るんじゃない?今回見てもらったことのようにあなたには気付いてない,知らないことが沢山あるんだから」小娘の目から大粒の涙が零れ落ちる。小娘が慌てて指の腹で涙を拭う。フンッ慌てて拭いたところで誤魔化せるものではなかろう、阿保らしい。
「そもそもね、生きている意味なんて関わった誰か一人が死んでほしくないなんて望んでくれたら、それで事足りるんだよ。」「そんなことだけでいいの?」「どうせ『こう生きていきたい』なんて意志や『こんなことを成し遂げてみたい』なんて希望を持てずに生まれてくるしかないあなた達人間にとって生きる意味なんて後付けでしかないんだから。」「私は誰からも認められるピアニストになしかないりたかった。そうなれない人生なんて無意味だと思ってた。」「勝手にそう思い込んでただけでしょ。自分の思い通りに行かなかったから、無意味ってことにしたかっただけなんじゃない?」「諦めた責任を自分で負いたくなくて責任転嫁してるようにしか見えないよ。」「死にたいと望むのは当人しだいだから、致し方ないとは思うけどね。死んで欲しくない、生きていて欲しいと願うことを誰にも奪ったり出来ないと思うんだよね。あなたの想いを無理矢理捻じ曲げることができないように。」「あなたがこの世からいなくなるの気分が悪いなぁなんて些細な誰かの気持ちの沈みだって死んじゃいけない理由として充分じゃない?」
「だって生きている意味なんて、さっきも言った通り後付けなんだよ。もう生まれて生きてるんだから。」
「だったら、生きてる必要なんてないじゃないだったら死んじゃっても問題ないゃない?生きてても死んでるのと同じじゃない」
「「全然同じじゃないと思うよ。死ぬことに意味なんてないんだよ。ちょっと違うか。生きていることを全うするしかない、死を選ぶべきじゃない人っていう存在は、自分自身で自分が生きていくことに意義は見出せても、自分自身で自分の死に意味を持たせることなんて出来ないんだよ。見守ってくれた看取ってくれた人、生きている意味になってくれた人、が持たせてくれるもんなんだ、死の意味なんて。」遺された人達が言葉は悪いけど勝手に継いでくれるよ。
「あなた達人間はどうして、命の使い方って言うと死に方ばっかり考えるんだろうね。長い時間生きて何かを成し遂げる事を考えない。終わり良ければ全て良しは生命には成り立たないんだと思うよ。」「死んで成し遂げられることなんて何一つないと思うから。」
「ジブンにも分らないでもないけどね。」
「何十年に渡って継続して何かを成し遂げていくことを想像をするより
どう死ぬか
その瞬間だけを想像する方が簡単だからね。」
「完璧な人生を何十年も過ごそうなんて考えるととても辛く難しく思えてしまうから充実した瞬間死ぬ瞬間を想像するように充実した瞬間のことを考えてそうした瞬間を積み重ねることだけを考えてみたら、いいんじゃないかな。そうすれば自分が思い描いた通りの人生を送れそうじゃない?」
「死にたいと望むのは当人しだいだから、致し方ないとは思うけどね。死んで欲しくない、生きていて欲しいと願うことを誰にも奪ったり出来ないと思うんだよね。あなたの想いを無理矢理捻じ曲げることができないように。」
感謝の気持ちって誰かのおかげでありがとうって過去にあったことに抱く気持ちでしょ?謝罪の気持ちって過去に自分のしてしまったことを詫びる気持ちでしょ過去のことに
長い月日誓ったことを守り続けることも、
やせ我慢と虚勢を張り続けることも強さだというなら
「そうしたものを強さとするなら、強いということがどういうことなのかは非常に難しいものだな。単純な膂力とかなら、何者にも決して屈しないなどなら、分かりやすいのだがな。」小娘にも聞こえるように声を張ってアヤツと会話をする。こうしてアヤツを要所要所で手助けしてしまう小生自身に苛立ちを覚えるその苛立ちのままに持ち上げた左前脚をアヤツの額に振り下ろす。「痛っ、ショーセイ、何をするのさ。」フンッ「そうだね。そしてそうしたことを強さと気付くことも認めることも難しいのかもしれないね。」少しだけ虚空を見上げて額をさすりながら「さてと、そろそろ行こうか、色々見て回ったから結構時間かかっちゃったしね。」アヤツがポツリと洩らす。アヤツが右肩に担いでいた大鎌を地面と垂直に立てた状態で眼前に持ち上げた大鎌から、アヤツがパッと手を離す。地面に大鎌の柄の先端が触れた瞬間、そこを中心に半径5メートルほどの鈍く紫色に光る二重の円が生じる。と垂直に眼前に持ち上げた大鎌から、アヤツがパッと手お離す。地面に大鎌の柄の先端が触れた瞬間、そこを中心に半径5メートルほどの鈍く紫色に光る二重の円が地面に描かれる。大鎌が一瞬だけ地面に直立する。その後、バランスを崩し倒れ始めたところをアヤツが右足で柄を払う。地面に大鎌の柄の先端が触れた瞬間、そこを中心に半径5メートルほどの鈍く紫色に光る二重の円が生じる。と垂直に眼前に持ち上げた大鎌から、アヤツがパッと手お離す。地面に大鎌の柄の先端が触れた瞬間、そこを中心に半径5メートルほどの鈍く紫色に光る二重の円が地面に描かれる。
大鎌が一瞬だけ直立する。その後、バランスを崩し倒れ始めたところをアヤツが右足で柄を払う。回転しながら、アヤツの顔の辺りまで上昇してきたところでアヤツが両腕を空に向けて突き上げるとまだ回転し続けている大鎌に向かって振り下ろすその勢いを受けたかのように、、更に回転速度を上げた大鎌は柄の先端と刃の先端が鈍い紫色に発光し始める。それに呼応するように地面の円の光の輝きが増す。小生達を包むような紫の光の丸い柱となったふぅうぅぅやれやれだ。やっと終わりか。
「どっか行くの?お母さん、追いかけなくていいの?」「この後はあなたを警察署に迎えに行くだけだから、その時のことを第三者で視線でどうしても見たい?」悪戯っぽくアヤツが小娘に訊く。ううん、小娘が
首を横に振って否定の意思表示を見せる。
「お母さん、ここに来てたから、あの時遅かったんだ。お父さんまたね」小娘がポツリと呟く雨粒共のせいで地面に叩き落とされることなく湿気を大量に孕んだ空気を震わせ、小娘の母親が手を合わせていた墓石にむ向かう。届いたのか小生には分からんがな。
【4】
眩しさについ閉じてしまっていた眼を開けるとそこは、怯んで再度目を閉じてしまうようなやっぱり眩しい場所だった。
熱がないことは共通しているのに、全く別物と感じる光。
招き入れるような光と刺すように全てを暴き出すような光。それはその役割を知るからその印象も引っ張られているだけなのかもしれないがな。
そして、その光の眩しさに慣れて目に飛び込んでくる光景は人間にとっては衝撃的なものだ。
どのくらい衝撃的かと言えば…
「なんなのよこれ、この変態、こんなものを私に見せて何になるっていうのよ。」
一足早く来ていたために一足早く衝撃から立ち直った小娘が、アヤツにムキになって詰め寄るぐらいではあるらしい。
「うーん、変態って言われてもね、あなたに見て欲しいものがここにある以上仕方ないよね。」
小娘に食ってかかられたところで、アヤツの口調は乱れず、穏やかなままだ。変化らしい変化といえば、小首を傾げたくらいのものだ。小娘としてはそうしたアヤツの態度も面白くはないのだろう。だから、益々小娘は語気を荒くするのだろうからな。
「何が仕方ないよっ、ここって産婦人科じゃない。どこでも行けるあなた達はいつっもこういったところを覗き見してるってわけね。やっぱり変態じゃない。」
勝手に盛り上がる小娘に更に詰め寄られて、迷惑そうな視線をアヤツは小生に投げかける。なんで小生かっ。
迷惑しているのは小生の方だっ。
無駄なこととは分かっているから、声に出すことはせずとも胸中で悪態を吐くことは我慢できずに。
分かっているのだ、小娘がムキになればなるほど、無駄な時間が伸びていくだけなのは。それでも小生に仲裁してやる義理などないのだ。無駄なことをして小生の時間を奪っておきながら、小生に尻ぬぐいさせるとは、どういう了見なのだっ。
にゃはぁぁぁ
それを多少は分からせてやるつもりで、大袈裟にため息を吐く。アヤツに利かないのは承知の上だ。
盛大に吐き出した息を吸い戻した直後、小さく息を吐きつつ、床とアヤツの胸を蹴って、アヤツの肩に飛び乗る。唐突に視界に入った小生に身を引いた小娘に畳み掛ける。
「小娘よ、この出来損ないはいざ知らず、小生が人間の女の裸に興味を持つと本気で思っておるのか?」
小娘が口を噤んだのを見て、アヤツの頭に飛び乗る。出来損ないってかなりひどいよねというアヤツの呟きは取り合わずに、体を丸めお腹に頭を突っ込む。
この後、どうなろうと小生の知ったことではない。
穢れも澱みすらも許さない空気の居心地の悪さと馴染み深いアヤツの頭の上という相反するものの中で、馴染み深さに意識を委ねる。
この居心地の悪さ、特有の薬品の臭いがなくとも誰かに説明をしてもらわずとも病院の中と分かる。
小生がこうなる前なら、近づくことすら叶わなかったろう。望んで近づくこともないがな。
ただここは小生の知っている病院の内部とはどことも違っている。強いて言うなら診察室と手術室を合わせたようなそんな部屋だ。
ショーセイはやっぱり勘が良いよね、などと小生の考察を肯定するアヤツの言葉が挟まれる。
アヤツに付き合わされて無駄な見識が広がっただけのことだ。喜ぶようなことではない。それでも、この状況が人間にとってどういったことなのか、が分かる。
そもそも小生でも他の者に腹を晒すことには抵抗がある。
体の中でもっとも軟らかいそこは、強者に無抵抗であることを示すために晒す箇所だ。
人間に猫と区分されていた頃の習性は、今なお小生の中に残り続けている。
ましてや雌、いや女か。子を宿す箇所。
人間は普段衣服というもので素肌を覆い隠している。そういったことを加味すれば、異常な光景なんだということはすぐさま理解できる。
女が下腹部を晒し、生殖器を器具で検診されるなどというのは。
「これを本当にただ眺める為だけに来たのであれば、小娘はこやつのことを幾らでも変態と罵れば良いと思うぞ。」
退屈凌ぎに、腹いせに、小娘を焚きつけてみる。
対処するのはどうせアヤツだからな。
「正直、ジブンにも嫌なものはあるんだよ。」
微かに俯く仕草は、口にはしない不満を訴えるものなのかもしれない。小生の知ったことではないがな。
「はぁ?」
唐突で回りくどいアヤツの物言いに、小娘は柳眉を顰める。
「ショーセイに引っ掻かれるのとか、話し相手に一方的に詰られるとかね。」
さらに柳眉の顰を深くして、怪訝だと無言で訴える。
「あなたのルーツを過去に遡って見ようとしている時に、無駄足を踏んだりしたら、ショーセイの爪が襲ってきて、挙句にあなたに変態扱いされてまともに口を利いてもらえなくなるってこと。あまりそうは見えないかもしれないけど、それはジブンにとっては嫌なことなんだよ。」
「だから?」
「つまり、無意味なことはしない、小娘の見るべきものがここにあると、そういうことなのだろう。」
怪訝を通り越して不機嫌といった小娘に向けて、アヤツの釈明をしてやる。元々小生が蒔いた種だからな。
「そういうこと。」
吐きたくもない重い溜息が漏れる。
「何に対してかは知らんが、おんしが気を遣おう、気を回そうなどと考えると碌なことにならんな。」
小生の少々辛辣な言葉にもアヤツは、違いないね、と肩を小さく竦めてみせるだけだ。いがみ合うこともないが張り合いもない。まぁ面倒くさくなくて良い。小生の昼寝に対しても、このくらい素直であってくれれば尚のこと良いと思うくらいだな。
「まさか、この女の人ってお母さん?」
最初はその姿から目を背けていた小娘が、目を凝らすようになってから数瞬、唐突に声を張り上げる。
「よく分かったね、知ってるお母さんより大分若いと思うんだけど。」
「だって、今の私と今のお母さんを足して2で割ったような顔をしてる。」
人間の顔なんてどれもこれも大差ないだろうとは、思ったが声にしないでおいてやる。
「あなたは、お母さん似なんだね。」
アヤツは小娘の問いを、柔らかく肯定する。
「お母さんは、若い頃に病気だったの?」
「あなたのお母さんは昔から今に至るまで、ずっと健康だよ。」
「だったらなんで?」
アヤツを見つめている無垢な視線は、単純な疑問だけが込もっているようにしか見えないだからただただ真っ直ぐに射るのだろう。。アヤツが観念したという具合に口を開く。
「あなたのお母さんは、他の人より赤ちゃんの出来にくい人だったんだよ。」
アヤツの補足で、人間たちの情報に晒され続けてきた小生には、これがどういったものなのかは理解できる。流石に目の当たりにするのは初めてではあるが。
同じ人間、同じ女である小娘もそれだけで察せたようだ。
不妊治療。
こんな風に見てよいのか迷うようなものだとは、想像の外だったがな。
「こんなの……」
日常生活のすぐそばにあるものの凄惨さに、困惑と同情や憐みを抱くのか、自分の起源というものを突き付けられた為か、小娘の言葉が続かない。
「そう、でも、こうまでしても子供を授かりたいと願うものなんだね。母親っていうのは。」
時折、アヤツの感情が篭込もらない言葉に何故、慈しみのような愛情が向けられていると感じてしまうのは何故なのだろうな。ころころ表情を変えていた頃と変わらず、アヤツの感情は溢れるほどに豊かだ、と思う。面に現れないため確かめる術はないがな。
読めもしないアヤツの横顔なんぞを眺めていても面白くもない、期待はしていないが変化を求めて小娘を見やる。
当の小娘は、項垂れ黙したまま立ち尽くしている。
諦めの心地でアヤツの頭に乗って、腹に顔を埋める。
今の静けさは、小娘が現実を受け入れるまで必要な時間で、アヤツがこの場所で最も望んだ時間であることぐらいは小生にも分かるからな。
小娘の家での沈黙のように重苦しくないことだけが、救いではあるな。
小娘が黙して俯きながらも、唾を飲み下したり、スカートの裾を握って離したり、噤んだままの口で下唇を噛んだり、目を固く閉ざしたり開いたり、その小さな仕草を一つ一つする度に事実を受け入れていっているのだと思えれば、無駄ではないのだろう。
少なくとも小生はそう思っているからこそ、今のこの沈黙を重苦しいと感じていないのだ。
小娘の小さな仕草が三回ほど廻った頃だろうか、小娘が振り仰いで口を開きかける。
「別にジブン達に無理に何かを言ってもらう必要はないよ。あなたの中で、今まで知らなかったことを知って思うところが生まれたなら、それでいいと思う。」
アヤツが小娘の言をそっと遮る。
小娘が不満を表さず不平を口にせず、素直に黙したのも、「そっと」に含まれるものを感じるからなのだろう。
小娘が顔を伏せて上げるまでの時間で、診察を終え身支度を整えた小娘の母親のここから出ていく後ろ姿が、小生の視界の片隅に映る。
【後編】
「さて、と、じゃあ移動しようか。」
「今度は、どこに連れていくつもりなの?」
若干小娘が怯えているように見えるのも無理からぬことか、こんなものを見せられてはな。
「ちょっとだけ、徒歩で移動してあなたのお母さんを追いかけてみようかな、と。」勝手にすれば」、そんな声が聞こえてきそうな小さな頷きを小娘が見せる。
「小娘の同意が取れたなら、とっとと移動せんか?やはり、この病院という場所の空気は小生に合わん。」
小生が提案すると、「なんで運ばれてるだけのあんたが、指図するのよ。」失礼なことに呆れ顔の小娘が間髪入れずに口を挟んできた。
「指図ではない、妥当な提案というものだ。」
つい先ほどまで、しおらしくしていた小娘に唐突に食ってかかられたために、ついムキになって言い返してしまった。受け流すに限るというのに、小生としたことがうかつであった。どうせこの後の展開は火を見るより明らかだからな。
「何が提案よ。そんなに苦手なら1人外に先に出てればいいでしょっ。」
「小生がはぐれておると、合流するのに一手間かかるだろ。そういうのを配慮というのだ。」
「あんたの口から配慮なんて、どの口がいうのよ。私のことにこんだけ無理矢理干渉しているくせに。誰かの気持ちを考えることの出来る人達がとる行動じゃないでしょ。」フンッ、小生のことを人間何ぞと同じ尺度で考えてくれるなよ、胸中で罵っておく。
「それは、このアヤツのせいだろうが、小生は小娘に興味もなければ、干渉するつもりもないわっ」
謂れのない難癖にはついつい声を張り上げてしまう。案の定の展開ではあるが、こうなってしまっては後ろには退けん。それは小娘も同様らしく顔を突き合わせて睨みあうことになる。
「ショーセイ、ジブンの頭の上に乗っていがみ合いするのは勘弁してもらえるかな。それに、時間の余裕がないから、その辺で切り上げてもらうよ。」
仲裁というよりも、断ち切る言葉を告げると小娘に背を向けることで睨み合いも強制的に途絶させられる。
「アヤツよ、小生の威厳やらなんやらが台無しだ。」
腹いせに左前脚でアヤツの額をペシペシ叩く。
「ショーセイ、気に食わないかもしれないけど協力よろしく。」なんだかんだ言いながら、諦め方を覚えてしまった小生が悪いのであろうな。はぁ、丸く息を吐く。
短くも反論を許さないを決定事項を伝えるだけの言葉に、小生は左前脚を納める。
「ふんっ、分かっておるわ。」
この猫、あとで覚えておきなさいよ、なんて小娘の遠吠えを聞き流しながら、アヤツの頼みを承諾する。
「ねぇ」
アヤツの態度に一旦溜飲を下げることを選んだのか、棘の無くなった声で呼びかける。
アヤツが振り返ったことで再度小生と目を合わせた時には生意気にも一瞬険のある視線を飛ばしてきおったがな。
「気になってたんだけど、なんで壁をすり抜けられるのに毎回態々出入り口を使うわけ?」
予想外の質問だったのか困惑が小首の動きに僅かに覗く。
「うーん、単純にクセっていうのと、厚い壁を抜けている間ずっと視界を遮られるのが、好きじゃないってだけかな。」
その困惑を、小生に気遣うようにゆっくりと顎と目線を持ち上げる動作で飲み込んで、ただ素直な答えを返す。
アヤツはそれでこの問答は終わりとばかりに、小娘の反応を見ずに、踵を返す。
「ふーん」
そんなアヤツの答えで納得出来たのか、小娘は手を後ろ手に組んで小生らの後をついてくる。
事あるごとに文句を言っておった小娘が大人しいのは奇妙ではあるが、静かでよい。
診察室を出る時も、幾つか並ぶ同じような診察室の前を通る時も、診察室の前の長い椅子が幾つも置かれている幅の広い廊下を通り抜ける時も静かであったから、待合室で再度、小娘が声を上げた時は少々億劫さを感じてしまった。
「ねぇ、あそこでお母さんまだ順番待ちしてるけど。」
受付と正対する長椅子に座る母親を指し示しながら、声を上げる。
「そうなんだけどね、あなたのお母さんの行く場所は分かってるし、お母さんに合わせると慌てて移動しなきゃならないから先回りしておこうかな、と。幽霊みたいのが慌てふためいて走ったりするの、滑稽でしょ?」
吐いて出た言葉は多少冗談めかしたつもりなのかもしれんが、真顔のままではその効果も薄かろう。
それでも、小娘は、そうと独り言のように漏らしただけで、あとはまた大人しく後を着いてくる。
病院特有のエントランスを抜けると、初秋の強い日差しが小生達を照り射貫いてくる。
この眩しさに顔を顰めて、まるで睨み返すように太陽を同じように見上げる小生とアヤツは、やはり陽の光は似合わんな。
「残念ながら、ね。」
肩に乗る小生に気遣ったのだろう、アヤツが微かに肩を竦める。
その黒ずくめの格好では、陽の光に似つかわしくありたい思ってるようには思えんがな。
「確かに。」
皮肉を効かせた小生の言葉をあっさりと肯定してみせる。
「ただ、ジブンらみたいのは日陰者で丁度いいとは思うけどね。」
勝手に小生を巻き込むな、とは思うが正論ではある。
正論ではあるが、何とも言えず腹立たしい。
まぁ、夜の方が落ち着くし、居心地が良いのは紛れもない事実だがな。
「で、私たちはどこに向かってるの?」
「ん、あそこのバス停からバスに乗るつもり。」
間近まで迫っていたバス停への小娘の視界を確保するためだろう、半歩ほど身を引いてアヤツが答える。
「そうなのね、結構待つの?」
「そうでもないよ。もう数分じゃないかな?」
「ふーん、ならその間、少しはあなた達のことを教えてよ。」
「何故だ?」
小娘の訳の分からない会話の展開から唐突にされる提案に、思わず声を上げる。
「だって、あなた達は私のことを色々知っているのに、私は何も知らないのってズルくない?」
「小娘の素性を知っていることをズルいと言われてもな。」
「そもそも、ジブンらは人と長く関わるような存在ではないから、素性を知ってもらう必要はないのだけれど。そのことをズルいと思われるとは考えてもみなかったな。」
「なら今、考えてみて。」
「うーんそう言われてもね。大体ジブンらには話せるようなことは殆ど何もないよ。ショーセイは昼寝が好きでそれを邪魔されるのと、誰かに莫迦にされることが嫌い。ジブンには好きなものも嫌いなものもない、ってところかな、出来る自己紹介は。あなたには死神なんて名乗ってはみたけれど、ジブンらのしていることに関しては実はジブン達もよく分かってないしね。」
死神としてろくに魂を回収できたこともないからな。
「そういうことじゃなくて、二人?が出会ったのはいつ頃でどんなきっかけだったとか、。」
『二人』のところで一回小首を傾げた小娘が諦めたように言葉を続けたことが多少気にはかかるが。
「ショーセイとジブンは、猫と人間だった頃に出会っているらしいんだ。ジブンにはその頃の記憶はないんだよね。」
アヤツが小娘の問い掛けに答えだしたので口を挟むのを思い止まっって、アヤツの肩から停留所の脇に置かれたベンチの背もたれに降り立つ。アヤツへの苦言は忘れられないが。
「肝心の記憶がないにも関わらず、こやつは変わらずにずっとお人好しなままだ。記憶を失くすのなら、こんな厄介な性格も一緒に失くしてしまえば良かったものを。」
小娘は小生の言葉に先ほどより深く小首を傾げて見せる。
「お人好し?私の知っているお人好しは、こんなに冷たい感じではないけど。」
「放っておけば勝手に自殺してくれる魂の持ち主に態々関与して、時間を遡るようなことまでする死神に対して、小生はお人好し以外に評する言葉をもう罵詈雑言しか持ち合わせておらん。」
小娘は、つるつるの眉間に深い皺を刻んで納得しがたいという表情をありありと浮かべる。ここでアヤツの擁護をしてやる義理も、アヤツについて詳細に語って、小娘の疑念を晴らしてやる義理も小生にはない。故に、口を噤む。
そもそもアヤツと言えば、小生の嫌味を綺麗に無視して、通りの先と病院とへ首を振って交互に視線を送っている。
「来たよ。」
信号のある交差点を左折してきたバスがゆっくりとその姿を現すのと、病院を囲む植え込みの陰から小娘の母親が飛び出してきたのは、ほぼ同時だった。
降車客もなく、バス停が無人であれば素通りしてしまうバスに乗るために小娘の母親は必死なのだろう。が、2、30分など転寝でもしていれば、あっという間の時間だろうに。
「人は時間に追われることが多いから、その2、30分を貴重と思う人が多いんだよ。」
「何とも忙しない生き物よな。そんなに時間に追われて窮屈とは思わんのか?少なくとも小生はそんな生き方は御免蒙りたい。」
「確かに小生には不向きな生き方とは思うし、窮屈な生き方っていうのも否定しないけどね。だからこそ得ているものもあるんだと思うよ。」
フンッ、つまらぬ人の生き方なんぞに興味はないわ。
そうこうしている間に、小娘の母親がバス停に駆け込んでくる。バス停に到着した途端、膝に手を当てて背を屈め、その姿勢で息を整えている。
人間的な思考と思えるから、非常に気に食わないのだが、先ほどの診察室でのこの女の姿が過ってしまって、ついと視線を上に逸らしてしまう。
その先で、姉妹程度しか歳の離れていない母親を、言いようのない表情で見つめる小娘の姿があった。
それを眺め続けるのも、なんとなく小生の矜持に触れる気もするので、小娘からも視線を外す。結局視線が落ち着いたのは、いつものお人好しで間抜けの顔だった。
何をそんなに穏やかな視線を母娘に送ってるのやら、おんしはこの母娘の父親か。
「止めてよ、ジブンは人間の頃ですら、学生だったんでしょ。誰かの人生を背負うなんて荷が重いよ。」
「それが、人間の魂を回収することを生業にしている者の言うことなのか。」
今更ながらではあるが、呆れて溜息が洩れる。
ピピッピピッピピッ
若干耳障りなウインカー音を鳴り響かせ、その小生の諦観を孕んだ溜息を、綯交ぜにしながら、バスが滑らかに横づけして、停車する。
さらに排気ガスの重苦しい空気が全てを塗り替える。
けほっ。
…色々と台無しだ。
嘆かわしい。嘆かわしくはあるが、それで茫然自失となってしまうほど、未体験のことというわけでもない。それこそ嘆かわしいことな気もするが。頭をブルッと振って後ろ足で耳の後ろを数回掻いて、全ての嘆かわしさを頭から追い出し、アヤツの肩へ飛び乗る。
プー、プシュー
ブザーが一つ鳴ってから、空気の抜けるような音と共に、
四つのガラスの戸を畳むようにバス側面の中央あたりの扉が自動で開く。
呼吸を整えた小娘の母親に続いて、そのドアからバスに乗り込もうと身構えたのにアヤツが踏み出さないために、思わずつんのめる。
「なんだ、乗らんのか?」
「ん?整理券を取るからそれを待ってからでも良いかなって。」
「整理券?人間が長蛇の列を作っている時に配られているアレか?」
「小生もなんだかんだで、人間のことよく知ってるよね。」
「おんしが散々つまらぬところに付き合わすからなっ。そんなことより長蛇の列もないここで整理券など必要なのか?」
「ここで言う整理券は、バスの乗車した場所を示すためのもので、後々運賃を払う時に利用区間を明確にするために使用するんだよ。」
「ほー。」
小娘の母親がバスに乗り込むのに合わせるように向かって右側の変な箱から小さな紙片が吐き出される。
それをすっと抜き取って、バスの後方へ移動していく小娘の母親。それを横目に捉えながら、その箱と紙片に触れてみたくて、左前脚を伸ばしてみる。
「ショーセイ、ジブンらには必要ないし、取れないよ。」
「分かっておるわ、ちょっと近くで見ようとしただけだ。」
「早く乗ってよ。乗り遅れちゃうでしょ。」
アヤツに言い返したのも束の間、今度は後ろから小娘が声を上げる。
「煩いわ、分かっておるわ。」
どいつもこいつも。
プー、プシュー
小娘が乗り込んだ瞬間、開いた時と同じ音を出して扉が閉まる。
「扉の開閉の時になるあの耳障りなブザー音はなんなのだ?」
「開閉するから気を付けてね、の合図だよ。」
「随分と過保護だな。」
ガクンッ、唸るような低いエンジン音の後に一度揺れてから、バスは静かに走り出す。アヤツの肩に乗って移動するのとは別の滑るような移動は、なんというか、心躍るな。
「ショーセイの発言って、取り付く島もないよね。一応重大な事故が起きないようにって配慮からされてること
だと思うんだけどね。」
「そんな事情は知らぬよ、小生にとっては喧しいだけだ。」
小生の止まり木と化しているアヤツの肩は、それでも諦観を伝えがん為だろう、申し訳程度に上下する。バスの揺れということにして、綺麗に無視するが。
そんな小生とアヤツのやり取りの隙に、小娘の母親は右側の後ろから二列目の席に腰かけ、窓ガラスに額を押し当てた姿勢で虚ろな目で視線をただ外に投げかけている。そんな母親の脇に立ち、小娘は気遣わしげに見下ろしている。
「あの一帯だけ辛気臭いな。」
「辛辣だね。」
「仕方なかろう、事実だ。」
否定も肯定もせずに、小娘とその母親から距離を置きつつも、得も言われぬ表情でアヤツはその母娘を見つめている。
まぁ、小娘のための時間旅行だからな。
「ところでアヤツよ、このバスというヤツは、なんでこんなに無用な柱や手摺が至る所にあるのだ?」
「うん?あぁ、今はガラガラだけど、朝と夜にはかなり混み合うんだよ。そんな時に立ってる人たちが倒れないように、掴まれる所を幾つも用意している。空いている時には無用だけどね。」
「小娘が学校に通う時に外から見てたあの光景か、様変わりし過ぎてて同じものとは思えんな。」
混雑時に手摺に掴まる人間が容易くは想像できないから、至る所にある手摺り、柱は邪魔くさく映る。特に天井付近に梁のように渡された鉄棒からぶら下がる、揺れる手摺が気になってしょうがない。
「のう、アヤツよ、あの手摺はあんなに不安定にしておく必要があるのか?」
揺れる手摺を示しながら訊く。
「うん?吊り革のこと?あの高さに固定した手摺があったら頭をぶつける人もいるだろうし………って、ショーセイ、もしかしなくてもだけど初めてのバスに燥いでる?」
「なんだ、燥いでるとはなんだ。初めて見るものに興味を示すのは罪にでもなるのか?」
「罪って、そんな大袈裟なことではないけど、人間の作るものにそんなに興味を示すとは、予想もしてなかったから。」
フンっ、小生の勝手ではないか。
『確かに』、小生の耳ですら微かに捉える程度の囁きがアヤツの口から洩れる。小生のことを分かられた気になられるのも癪なので聞こえなかったことにして、吊り革とやらに集中する。
バスの停止、発進、右左折の度に横並びで揃って揺れる様は、全ての吊り革が繋がっているのかと疑う程だ。
アヤツの肩から左前脚を伸ばしても届かない距離。
そのじれったさに何かを掻き毟りたくなるが、それを何とか自制して吊り革を見据える。
そしてふと思い出す。
人に飼われ籠に入れられ、鳥のくせに思い切って羽ばたくことも出来ない小鳥たちのことを。色彩が鮮やか過ぎて、小生の食欲をそそることも無かった鳥たちでもある。
あ奴らの籠に必ずといって良いほど、ぶら下がっていた止まり木。それを彷彿とさせるのだ。
小鳥に出来て小生に出来ない道理などないわな。
それが最後踏み切るきっかけになった。
アヤツの肩を蹴って、吊り革に向かって飛ぶ。
前脚を着いた瞬間にその前脚を曲げて勢いを殺ぐ。
後ろ脚を真下に落とすような感覚で身体全体を安定させながら吊り革に着地する。
前脚と後ろ脚が腹の下で一直線になる不安定な、態勢だが吊り革の丸の中に身体がすっぽり納まる。
おほっ
思わず歓喜の息が漏れる。
小生の跳躍の勢いを受けて、小生の乗った吊り革だけが、揃いの揺れを脱して激しく振れる。それでも揺れる向きが他の吊り革と変わらず通路から窓に向かって揺れているのだ、問題なかろう。
この吊り革というのは向かい合わず、横並びになっているため、直接飛び移ることが出来ない。
まぁ、そうした難易度の方が唆られるがな。
さて。
舌なめずりして、一呼吸おく。
吊り革が窓側に触れた時の頂点の少し手前で、飛び出す。
窮屈な姿勢を強いられた止まり木からの脱出。
その反動で体を目一杯伸ばして、密閉空間固有の澱みを帯びた空気を割く。
丸みを帯びたために壁と天井の境界が曖昧になっている部分に取り付けられている--広告と呼ばれる紙を挟み固定する--金属製の縁。そこに右前脚をかける。僅かに遅れて左前脚をそのすぐ下に着けて、折り畳む。さらに背を丸め、跳躍の勢いを殺しつつ両後ろ脚を前脚のすぐ後ろに着ける。数瞬右前後ろ足首を金属製の縁に引っ掻けつつ、態勢を整え(首を捻り、背を反らして、先ほどまで居た吊り革の隣の吊り革に向かう姿勢を整え跳躍ぶ。
飛び出した時の勢いを利用し、体躯を捻って水平にした体を目一杯伸ばして吊り革の円に向かう。
突っ張った状態の両前脚を円の下側の縁にぶつけて少し体を起こしそのままの姿勢で、吊り革を両前脚で下向きに押す。胸の辺りまで輪っかに乗せる。振り子の動きの限界間際で吊り革の動きの勢いが弱まったところで両後ろ脚をを吊り革の輪っか上げてによじ登る。反動で後ろ向きに大きく揺り返す吊り革に不安定な態勢で耐える。小生の乗った吊り革が他の吊り革の動きに紛れる頃には、小さく息を吐く。最後のところが些か不格好になったがな。
にゃっ。
息を吐くと同時に、小さく歓喜の鳴き声を上げることを小生といえども、堪えることは出来なかった。
「あのさ、」
不意に下から掛かる声へと顔を
向ける、集中し過ぎていて全然気付かなかったが、いつの間にか小生の真下まで移動してきたのだろう、アヤツが小生を見上げていながら見下しているような不可思議な目線で続ける。
「ショーセイ、殆ど実体化までして何してるの?」
一通り達成感に浸ることが出来て冷静になってみれば、小生は本当に何をしているのだろうな。欲望のままに行動しただけと言ったらそれまでのことだ。しかしそれをそのまま口にすると小生の崇高さが損なわれる。
「己の可能性を確かめてみようと思ってな。」
「ショーセイ、そういうことじゃなくて、『一人でに揺れる吊り革』なんて怪談話が生まれちゃうかもしれないから、出来れば大人しくしててもらえるかな。」
小生の思考を凝らした返答を素っ気なく一蹴にしよった。ならばと言い返す。
「小生の至上の喜びを奪っておるのだ、この程度の暇つぶしくらい大目に見れんのか。」
「そういう言い方されるとジブンがすごく悪いことをしていて、ショーセイの言い分が正しい物言いに聞こえるから不思議だね。でもショーセイって、死神の使い魔って扱いなんだから、やっぱり人目を忍んで大人しくしていて欲しいんだけど。」
小生がくぐった後、ひと際激しく揺れる吊り革を指し示しながら、言葉を締めくくる。
ふん、嫌味な言い方だ。
「そもそも、死神の本分であるところの魂浄化もろくすっぽ出来ておらん奴に、使い魔の何たるかなどを説かれても、聞く耳なんぞ持てんわ。」
「それは随分と耳が痛いね。」
一度小さく肩を竦めた後、この会話は終わりとばかりに口を閉ざして、小生に向けていた視線を母娘へと注ぐ。
耳が痛いなどと心にもない言葉は、単に会話を打ち切る為のもので全然響いてないのがありありと分かるのが腹立たしい。
しかしそれ以上に腹を立て続けているのも馬鹿らしいので、色々と癪ではあるが、アヤツに倣って母娘へと視線を向ける。
そこには小生が吊り革への挑戦を始める前と寸分違わぬ姿のままの母娘がいた。
「なんだあの母娘は、……あれだ、あの子供の遊びでもやっておるのか?」
アヤツの肩へと飛び移り問うてみる。
「子供の遊び?」
「1人が振り返って見てない隙に大挙して押し寄せる、あれだ。」
「…もしかして、だるまさんがころんだのこと?」
顔を僅かに伏せた思案顔の末、アヤツの出した答えは小生の望むものだった。
「そう、それだ」
小生の考えを汲み取れた事で晴々とした表情をしていても良いアヤツが、気遣わしげな視線を向けてくる。
「ジブンが言えた立場ではないけどショーセイの冗談のセンスが、随分と残念なことになってるねぇ。」
「憐れんだ目で小生を見るな。」
「しかも、嫌いなんて言いながら、人間の子供の遊びにまで精通してるんだからね。」
「煩いわ、数十年も人間の直ぐ傍で暮らしておったのだ、嫌でも覚えるだろう。門前の小僧なんたらというだろうが。」
「そういう言葉がするりと出てくるところをジブンは言ってるつもりなんだけどね。」
「小生が人間に詳しかろうが詳しくなかろうが、人間を好いておらぬことには、変わらぬわ。」
「そうだね、自称人間嫌いのショーセイ。」
声を荒げて言い返してしまえば、何かに負けたことになる気がして押し黙る。それでも何もしないのも癪に障るので、アヤツの肩を強めに蹴って空席の背もたれに飛び移る。
着地の衝撃を躰全体を丸めることでいなす。その時に下がって跳躍方向に向いた頭を擡げて振り返る。
強く蹴った肩を摩ってるアヤツでも見れれば、多少なりとも溜飲が下がるというものだ。
その刹那、一連の変化が起こる。ピンポーンと奇怪な音が響き、頭上の窓と窓との間のでっぱりが人間どもの使う文字を浮かび上がらせるように紫に点灯、「次停車します。お降りの方は、バスが止まってから席をお立ち下さい。」などと車内全体に少し不自然なヒトの声が満ちる。気付けば社内中にあるでっぱりが全て紫に灯っていた。
思わず背筋がビクッと竦む。そうした条件反射を抑え込む心地で、軽い跳躍で後方に僅かに下がって、次に備えて体を幾分沈める。
「何、やってのんよあんたは。人外の者だなんてふんぞり返ってるくせに、バスの停車ボタン程度に動揺するなんてみっともないわね。」
母親の傍で母親から片時も視線を外さなかった小娘が、いつの間にか小生らの傍らにいて、敵意を剥き出しにした言葉をぶつけてくる。
「小生が動揺なんぞするわけなかろう、そもそも小生らがいつふんぞり返った態度をとったというのだ。」
その敵意に思わず、反射的に言い返す。
「はたから見ていても、思いっきりビクッてなってたわよ。誤魔化そうとするなんて尚更恥ずかしいっ。」
(ショーセイの尊大な態度を「ふんぞり返った」って表現するのは概ね間違ってない気はするけどね。)
何故か二方向になった反論にいちいち付き合うのは面倒なので、黙殺する。
「小娘、母親のことはもう良いのか?」
「……」数瞬の逡巡の後、何かを諦めたような溜息を一つ吐いて「家には、もっと最寄りのバス停あるのに、母さんもう停車ボタンを押してるんだよね。以前は違う場所に住んでたの?」怪訝そうに微かに顔を顰めて小娘が問いかけてくる。
「住んでいる場所は変わってないよ。ただ寄りたいところがあるって、それだけのことなんじゃない?」
そっ、小娘は短く素っ気ない相槌を残すと、母親へと向き直る。気づかわしげに母親へと注がれる視線をついつい小生も追いかけてしまう。
小娘の母親は変わらず窓に額を押し付けた格好で虚ろな視線を、社外に向けている。玉突きのように今度は母親の視線に誘われ、車外へと目を転じる。
等間隔に植えられているのだろう並木が次々とバスの後方に流れていく。
自らの脚で駆けずに流れていく景色に意識が向いてしまえば、微かに眩暈を感じるような違和感を覚える。目に映る景色と小生の体の動きが一致しないことによる違和感。この乖離はアヤツと連れ添うようになってから、かなりの時間が経つにも関わらず、埋められないものの一つだ。人の作り出した乗り物に乗って外の景色に意識を向ければ眩暈を伴う違和感に必ず襲われる。
違和感を拭いたくて首を振って、左前脚を舐め耳元から髭までを数度擦り、右前脚でも同じように数度こする。この顔洗いの時に、ついつい左前脚から始めるのは特に意識しているわけではないので、小生の癖というやつなのだろう。
髭の感覚がすっきりしたことで、意識が少しだけ鮮明になる。少なくとも眩暈と思しきものを感じなくなる程度にはな。
小生が顔洗いをしていた間に、バスの速度も大分落ちたようで、並木を通り過ぎるまでの時間が延びている。
小娘の母親に目を戻せば、虚ろに外に向けていた目をバスの先頭に向け、鞄の持ち手を両手で握りしめて降車の準備を整えている。
小娘の母親を越えて外を見やれば、目に見えて次の並木に到着するまでの時間が間延びしていく。
そして、バスは完全に停車する。
バスの前方左側、運転手の向いの扉が誰に触られるでもなく、折り畳んで開く。
「乗る時は、真ん中あたりから乗り込んだのに、降りる時は前方からなのだな。」
「バスによって色々あるけどね。このバスはそうみたいだね。」
特に尋ねたつもりのない独り言ではあったが、アヤツが律義に答えを用意する。
『中学校前』
抑揚のない些か不気味な声が車内に響き渡る。
「中学校前です。」
その後を同じ言葉の質感のある声が追いかける。
小娘の母親が座っていた座席から進み出て、運転手の脇に置かれた箱に硬貨と紙片を一緒に入れて、小さく頭を下げてバスから降りていく。
「お賽銭というヤツか?」
「ああ、形態はそちらに似てるけど、電車で切符を買うのと同じ意味合いのことだよ。」
「乗った分だけ金を払うヤツのほうだったか。」
「運賃の支払いとお賽銭を一括りにするなんて罰当たりもいいとこね。」
「金を上から投入して、頭を下げておるのだ。概ね変わらんだろうが。」
「猫ごときに労いを含んだ感謝と神様への礼の区別を付けろって方が無理な話ね。」
途轍もなく不快な一言を残して、小娘が先にバスを降りていく。
腹正しさを目の前で揺れるアヤツの無駄に長い髪を引っ掻き倒すことで、晴らす。
「ショーセイ、ジブンの髪で憂さを晴らすのはやめてくれない?」
「煩いわ、普段小生に迷惑を掛け倒しているのだから、この位我慢せい。」
「無茶苦茶だなぁ。」
小生が引っ掻いて乱した髪も首筋に手を差し込んで、軽く持ち上げた後、払って一度撫でつければ、元の毛艶を取り戻す。
「フンッ、その程度で元に戻るのだから、口答えも文句も言うでないわ。」
「元に戻るから何をしても良いって、引き続き無茶苦茶な言い分だなぁ。」
「つべこべ言わんでよいわ。小娘の母親の後を追うのだろう、とっととせい。」
不満そうな鼻息がアヤツから洩れるが、華麗に無視して小娘の母親に目をやる。
その足取りには一切の迷いがない。通い慣れたということなのだろう。小生にも記憶がある。まだ猫だった頃の記憶だが。日課として通っていた路というのは、特に歩みに意識を向けずとも目的地まで辿り着ける、それがもっとも自然な歩みでもあったのかもしれない、と。
そんな小娘の母親の歩みを見ていたら、小生も自分の足で歩きたくなって、アヤツの肩から飛び降りる。
どうということない家並み。
適当な曲がり角を二つ三つ曲がれば、見知った家並に出くわすのでは、と思えるような既視感とも懐かしさともとれるものが去来する。
見覚えのありそうな街並みだからこそ、細かな違いが寄せ付けない違和感として感じてしまうのかもしれんな。なわばりの外と内、そんな違いに近いのかもしれん。
居心地の良さはなく、かといって警戒心を掻き立てられるわけでもない。
それが散歩、散策といった塩梅を満たすのかもしれない。
道の脇にの塀に駆け上がる。
アヤツの頭頂部を横目に、暫し歩き、アヤツの肩に降り立ち、アヤツの数歩分の歩みの後は、また塀に戻る。
2本の尻尾をアヤツの頭へと交互に打ち付けてみたりする。
「ショーセイ、もしかして上機嫌?」
「何がだ?」
「散歩みたいに歩くなぁと思ってね。」
「ふんっ、至高の昼寝の時間を奪われて、上機嫌に振舞える小生の寛大さをもっと称えても良いのだぞ。」
「そうだね、ショーセイは寛大だね。」
「莫迦にしておるのか。」
アヤツは小首を傾げて見せるが、それがそもそも莫迦にしてるように見えるがな。言い返して不毛の言い合いも面白くないので、無視しておく。
「そういえば、小娘の母親はどうした?」
「え、lショーセイが塀の上から見てくれてるんじゃないの?」
「何故、小生がそんなことをせねばならんのだ?アヤツが勝手にお人好しを発揮してこんなことになっておるのだ。小生が手を貸してやる謂れなどなかろう。」
「そう言われると弱いよね。」
「本当、間が抜けてるわよね。、出来損ないって言われるのも納得よね。」
小娘がここぞとばかりに口を挟んでくる。
「それはまさか、小生を含めて言っておるのか?」
「どうして含まれないと思ったの?」
「小生は同行しているだけで、小生の任務ではないからな。」
「言い訳とか言い逃れとか格好悪いわね。」
せせら笑うような表情に、思わず罵りそうになるが、小娘ごときムキになる小生ではないわ。
「おんしの母親を見つけてくれば良いのか?」
「出来るのならね。」
「ショーセイ。」駆け出しかけた小生を呼び止める制止の声。「行く場所は分ってるんだから、ムキになって追いかけなくても、大丈夫。」
「ムキになどなっておらん。」
アヤツを一睨みして、また歩き始める。
小生の発言をこれ幸いと、小娘の喋る隙を用意したことに、遅まきながら気付いたからだ。
同行者二人、どちらとものことを考えると苛立つことばかり。下らぬことを考えるのを止めたくて、足の裏に意識を向ける。
最近めっきり少なくなったブロック塀の感触は、細かくもざらつく感じが懐かしく、悪い気はしないものだ。
その上面が屋根のような形状になっていて傾斜があって、多少歩きづらくても全力疾走するわけでもないからな。
自分の好きな速度で、歩いていれば散歩気分も蘇る。
自然と欠伸も漏れるというものだ。
「あんた、まじめに捜す気あるの?」
小娘が下から険悪な声で喚いてくる。
「アヤツが行く場所は分っていると言っておったろう?聞いてなかったのか?」
小バカにした言葉を置いて歩を進める。
「聞いてたわよ」
小娘の言い返す言葉に、態々耳を傾けてやる謂れはない。
そのまま、さらに歩を進めること数歩、とある民家の陰から雰囲気の違う建物が見えてくる。
大きさは立ち並ぶ民家と大差ないにように見えるが、真っ白い壁。その角にだけこげ茶色のレンガが埋め込まれている。ごげ茶色の格子の枠組みの大き目の窓ガラス。
こげ茶色の屋根。その軒先にぶら下がるこげ茶色の板に、のたくるような白い文字が刻まれた看板。
出入口なのだろう、正方形のガラスが8枚はめ込まれたやはりこげ茶色のドア。その手前には軒先に吊るされた看板と同じくのたくる白い文字が刻まれた看板が置かれている。その看板の脇を通り、ドアに手をかけようとしている小娘の母親の後ろ姿が目に留まる。
「早くしろ鈍間ども。小娘の母親が店に入ってしまうぞ。」
「店?」
間抜け面で小娘が訊いてくるが、華麗に無視しておく。
「そう?じゃあ、急ごう。」
アヤツが走り出したことで、小娘も不満顔ながらも駆け出す。
あっという間にとろとろと走るアヤツを小娘が追い抜いていく。
「小娘に走り負ける死神、様にならんの。」
「普段から走らないからね、当時も今も。」
走りながら竦めた肩でいなされる。
「なんで、病院からここまで莫迦正直に移動してきた?アヤツならひとっ飛びってことも可能であったろ?」
「病院で受ける衝撃から、家に帰りつくまでのお母さんと同じ時間を歩んでみるのも良いのかなと思ってね。ショーセイもバスとここまでの道のりは楽しんでいたみたいだから、悪くなかったでしょ?」
フンっ
「さっさと追いつけよ。」
会話を続ける気を奪う返答に、言葉を投げつけて小娘を全力で追いかける。この塀の不安定さの中ではであるがな。
小娘の背中が見える頃に、小生が道として利用している塀が横断する道路に沿って、90度曲がってしまって、目的の場所に到着する道としては諦めるしかなさそうだった。横断する道路の先には、小生の今、乗っている塀と同じような塀が続いているのが見てとれる。
(気は進まないが…)
少しだけ顎を上げて、鼻息を強めに漏らす。
意を決して、頭から真下に向かって身を躍らす。垂直に切り立つ塀に両前脚を引っ掛け、両後ろ脚を前脚の外側に並べると前脚を離し、後ろ脚で塀を蹴る。
背を丸め、足を折り畳むことで、地面の降り立った衝撃を緩和させる。その丸まったことで躰に溜まった力を一気に躰を伸ばすことで駆け出す。一瞬で全速力へ。その勢いのまま道路を渡り切り向かいの塀を駆け上がる。
ふぅ。
妖に身を堕としても、猫であった頃に苦手だったものは変わらず得意ではない。
地べた、特に道路の真ん中は、外敵に襲われやすく人間の乗った何かに轢かれる危険の伴う場所だからな。
塀の上の全力と道路を渡るときの全速力で小娘に追いついていたようで、塀の下から小娘が軒先と入り口前に看板の出ている建物を指し示して、それ?と訊いてくるので、鷹揚に頷いておく。
「待つ?」小娘が再度訊いてくるが、必要なかろう、と答えておく。小娘が見るべきもの、があるとアヤツはここに連れてきておるのだろうからな。
すり抜けるか不安なのだろう、おっかなびっくり右手を突き出し、確かめながら、店の扉へと横向きに沈んでいく。小娘の体が完全に店内へと沈み込んだところでアヤツがようやく到着する。
「やっと着いたか、本当に鈍間だな。」
「もう中に入っちゃった?」
容赦なく叩きつけてやった言葉も意に介した様子もなく自分の気になることだけを訊いてくる始末だ。
「面白くないの。」投げやりな心地で、勝手に飛んでいけと呟いた言葉だけを何故か、何が?などと受け止められたようだが、答えてやる気になどならん。
後ろ脚で砂をかける心づもりで、アヤツに尻をむけ店に向かう。
扉をすり抜けた先の店内は、入り口で立ち止まる小娘のせいで全然見渡せない。ただ物が焦げる寸前のような香ばしい匂いが鼻を撫でる。発生源を突き止めたい欲求も生まれるが、小娘の脇をすり抜けながら、障害物を越えたことで広がる店内店内の内装に目を魅かれ、目線を配ってしまう。
角を丸く加工した木製の光沢のあるこげ茶色のカウンターとテーブルと椅子と棚。それらと同じ色の床と柱と窓枠と梁。その梁から吊るされている幾つものランプも全体的にこげ茶色で窓部分は薄く透き通る茶色。そのさらに上では、こげ茶色のシーリングファンがゆっくりと回っている。それと白い壁。そして所々に鮮やかな黄緑色の観葉植物が映える。外観の印象をさらに洗練して持ち込んだようだ。
店奥に歩を進める。
塀の上のざらついた感触を喜んだ小生ではあるが、木の床なんて何時踏んだかも思い出せない心地よさに、ついと無意味に左前脚を上げては下してを繰り返したりその場でくるくる回ったりして、感触を楽しんでしまう。
その欲求を優先させた行動をとっていると角が丸みを帯びるテーブルの脚が気になって仕方ない。
バスでつり革と戯れた時のように、人間の目には触れずほぼ実体化した状態で、とある一つのテーブルに近づく。そして思い切ってテーブルの脚に首筋を擦り付ける。案の定、心地よい。
「」「ショーセイ、バスでもそうだったけど、本当に何をやってるの?」
小癪にも呆れた声でアヤツが漏らす。
「煩いわ。」首筋から肩までの心地よさを堪能しながらも、言い返すことは忘れない。
「なんかショーセイって時折、凄く猫っぽいよね。」
「阿呆なのか、小生は生まれてこのかたずっと猫であろうが。」
「そうだね。」言葉と同時に小さく竦めた肩が発せられた言葉と同じように同意なのかもしくは否定なのかが、分らん。どうでもよいがな。
「このお店ってこんな前からあるのね。」
小生らのやり取りの間も熱心に店内を見回していた小娘が声を上げる。
「なんだ、小娘には馴染みの場所か。」
「おばあちゃんがいない時に、ちょっとサボらせてって言う母さんと何回かご飯を食べに来たことがある。」
変わらずに懐かしそうな視線を投げ続けながら答えを寄越す。
「そうか。」思い出話に適した返す言葉なんぞ持ち合わせていないから相槌だけを置く。
いち早く何かに気付いたらしき小娘がさらに店の奥に足を踏み入れる。
人間の胸の高さあたりまで積み上げられえたレンガとその上に並ぶ白い植木鉢、その鉢植えから零れるように繁る観葉植物。それらに目線を遮られた空間。そこにに項垂れ一つの椅子に腰掛ける小娘の母親とこげ茶色のエプロンにに白いシャツが映える女がいた。
レンガと観葉植物の句区切りを迂回して、エプロンの女の顔を見上げる。たれ目に嫋やかさを、太目のキリっとした眉毛に強い意志力を感じさせる、そんな女だった。
「ランチの時間はもう終わってるし、落ち着いたら声をかけてよ、ゆっくりで構わないから。」
氷水が注がれた薄い琥珀色のコップを置きながら、小娘の母親にそんなことを告げる。
項垂れていた姿勢から背を丸めるまでに更に頭を垂れていた小娘の母親は、そのまま二度体全体を使って頷く。
それを見届けると、一度だけ口を強く引き結んだ後、エプロンの女はそこから離れていく。
小娘の母親は左手でスカートのすそを強く握りしめ右手の拳の甲を口に押し当てるとぼろぼろと泣き出す。
静かな慟哭。
大粒の涙が滴り落ちて、スカートに歪な丸い染みを作る。そして滴り落ちる度に、だただ静かにじわじわと染みが広がる。
氷がが溶けたために、水滴のたくさんついた琥珀色のコップがカランと鳴る。エプロンの女が蛇口を捻ったのだろう、盛大な水音が響く。大き目に取られた窓から昼下がりの陽射しが鳥の鳴き声を伴って注ぐ。
あまりの、でも静かな光景に立ち尽くしていた小娘が、徐に母親の元に歩み寄り始める。
霊体と実体の切り替えが面倒なので、踏み出したことで姿を現した小娘の足の裏に体当たりを見舞う。
バランスを崩してよろめいた小娘が不服そうな目線で見下ろして、不満そうな口ぶりで「何なのよ。」と言葉を向けてくる。
「小娘こそ何のつもりだ?」
「え?」
食ってかかられると思っていなかったと謂わんばかりの間抜け面に変わる。
「」小娘は勿論、小生らも過去であるここでは何物にも干渉出来んぞ。そもそも小娘はあの母親にどんな言葉をかけるつもりだ、あの女はおんしに会えぬと泣いているのではないのか?『私はこうして生まれてきて、いずれは私と会えるから、安心して』などとでも言うつもりか?それは悪い冗談にしか聞こえぬのではないのか?」
小娘が小生に向けていた視線をふいっと逸らす。
「こんな弱い母さんの姿を見せられたら、思わず声をかけたくなるじゃない?」
憎まれ口は、いかなる時も口を吐くらしい。
「あなたの家でもここでも、あなたはお母さんを弱いと言うんだね。」
そこへアヤツが口を挟む。
「だってそうじゃない、普段偉そうにしてるくせに、私の知らないところでは、泣いてばっかりで。」
「こうして涙に暮れることが多いお母さんが、あなたの前では毅然とし続けている。それは弱さなのかね?もっと違う呼び方をするものなのかね?」
投げっぱなしたアヤツの言葉をどう拾うかなど小生には関係ない。小娘が下唇を噛みしめ、俯き黙している理由など更にどうでもよい。
小娘も黙り、その母親が静かに嗚咽を噛み殺す中で、香ばしい匂いが句店内に満ちていく。
思わず、欠伸が漏れる。
咽び泣く女がいるこの空間で、眠気を覚えるほどに暇を持て余している小生は、やはり、紛ごうことなき妖なのだな、と思う。
匂いの発生源も気にはなるのだが、このまどろみに身を委ねてしまいたいとも思う。
ふと見やれば小娘は心配そうに母親に視線を注ぎ、アヤツは一歩引いた位置で小娘越しにその母親に視線を注いでいる。結局は、母親以外を見るなんて選択肢はないようだ。
小娘の母親は変わらずに、スカートを握り、拳を口に押し当てたままだ。そして変わらずにぼろぼろと涙を流している。正直、小生は人間の涙というやつが苦手だ。正視に耐えない、どうしてよいかわからなくなるのだ。
そもそも小生らは涙なんぞを流さぬし、そうまで悲痛な思いを抱くことなぞ、誰か近しい者を亡くした時ぐらいだからな。
アヤツといると人間のそうした場面に遭遇することは多いのだがな。だからといって慣れるものでもない。
殊勝な真似事で、小娘の母親に視線を送り続けてみようとも考えないわけではなかったが、何故小生がこんな苦手なものを見続けるなんて苦行じみたことまでしなければならないのか、と思い至ってしまえば馬鹿らしくなる。
そうして、視線を外そうとした刹那、唐突に小娘の母親が「ガバッと顔を上げる。
お手洗い借りるね。」
顔を上げた勢いで立ち上がると、指の腹で数度涙を拭いながら、バックを持って店内に入ってきたのと反対側にある扉へいそいそと消えていった。
扉を暫くみてから、思わず小娘をジロジロと見てしまう。
思うことは同じだったらしく、小娘越しにアヤツと目が合う。
「何よ、二人して、気持ち悪いわね。」
その様子に気付いた小娘が、辛辣な言葉を寄越すが発見した面白さの方が上回って気にもならん。
「いや、やはり母娘だと思ってな、の、アヤツ?」
「だね。」
アヤツから短い同意が返ってくる。
「何がよ。」
不満げな声が再度、小娘から漏れるが、小生が言ってやれる言葉などない仮にあったとしても小生が態々言ってやらんとならん義理などはないからな。そもそも先ほどの小娘の母親の姿と初めて会った時屋上での小娘の姿を重ねられるのは小生とアヤツの視点だからこそだからな。
壁すらすり抜けられる小生らが、揃って扉の前で小娘の母親を待つのは、ひどく滑稽な気もするが、どうやら人が入っている便所は、侵してはならぬ領域らしいからな。
用を足すだけの場所が、何故、神格化されてしまうようになるのか、やはり人間のことはよく分からんな。
益々香ばしい匂いが満ちていくので、発生源が気になってそわそわしてしまう。ただ扉の前からも立ち去りがたくて結局動かないことを選んだ形になった。
小娘の母親が声を殺して咽び泣いていた時と変わらず、鳥のさえずり、氷水の氷が溶けて鳴る音、蛇口からの水音、床の軋む音、が時折響いて巣静けさに染みわたっていく。それは小生にも浸透して再度、欠伸を誘う。
ふわぁ
盛大に漏れた欠伸で緩慢になる意識を、左前脚で顔を洗って繋ぎとめることにする。
髭がすっきりすれば否応なく意識も少しははっきりする。
丹念な小生の顔洗いが終わるのと同時、示し合わせたように何食わぬ顔をして小娘の母親が出てくる。
先程までの、静寂の号泣がまやかしであったと主張するかのように。それでも目の充血という名残は消し切れてはおらぬが。
「お手洗い、ありがと。アイスコーヒー貰ってもいい?」
後ろ手に扉を閉めながら小娘の母親がエプロンの女に声をかける。
「もうちょっとで出来るから、座って待ってて。」
視線を向けずに、エプロンの女が声だけを返す。
「淹れ方変えたの?」
「変えてないわよ。あんたのことだからだいたい、このくらいかなって事前に用意したってだけよ。」
苦笑い交じりにエプロンの女が答える。
「…めん、ありがと。」
小娘の母親が微かに俯いて、小生が届くのかと心配になるほどか細い声で応じる。
「素直にお礼なんて、洗濯物干しっぱなしなんだから、やめてよね。」
「…そっちこそ私のお礼を珍しいことみたいにするのやめてくれない?」
女たちの会話が軽口の応酬になった途端、湿っぽかった店内の空気が乾いていく。
そして、小娘の母親は便所に行くまで座っていた席に戻る。椅子を小さく引いて腰掛けると視線を陽光の射し込む窓に顔を向けて、風景の中に目線を溶かしている。
ようやく、外の天気と店内の空気感が一致して、窓の形をした陽だまりが非常に魅力的な場所に思える。
昼寝の誘惑が増していく中で、また欠伸が漏れる。
この空間に寝ていて取り残されるのも馬鹿らしいので、アヤツの頭の上に移動する。
アヤツの頭の上で店内を見渡せば、カウンターの中にある、変なところで膨らんだりした高さのあるガラスの容器を木の枠で支えたがもの目に飛び込んでくる。たとえるなら--「砂時計の化け物みたいなものがあるな。」
そしてそれこそが、香ばしい匂いの発生源らしかった。
「砂時計の化け物ね、いい得て妙だね。大きくて奇妙な形をしているもんね。」
「あんたたち、コーヒーの水出し器も知らないの?長く生きてそうなくせに無知ね。」
すかさずアヤツの同意と小娘の揶揄が飛んでくる。
「浅学な者がたまたま知った知識をひけらかす傾向にあるのは今も昔も変わらんな。」
「うっさいわね。」
言い返してきた小娘の脇を、エプロンの女が、夕日を金属に混ぜたような色の真鍮製、のマグカップだけを銀色のトレイに載せて通り抜ける。微かに氷がぶつかる音と、木の床を軋ませる足音が後を追いかける。
小娘の母親のもとまで歩み寄ると、発せられたぶっきらぼうな「はい。」という言葉とは裏腹に、優しくそっとマグカップを置く。
「うん。」
小娘の母親は、1回頷くとごくごく喉を鳴らして一気に飲み干す。
「本当はもっと香りを楽しんだり、ゆっくり味わって飲むものなんだけどね。」
マグカップをテーブルに戻した小娘の母親に苦笑いを向けながら、エプロンの女が、許容と諦めが入り混じった声をかける。
「しょうがないじゃん。私、コーヒー苦手だし。」
その苦味が抜け切らないかのするように、しかめっ面のまま小娘の母親がエプロンの女に言い返す。
「」知ってるわよ。なのに嫌なことがあったら、その苦手なコーヒーをブラックで一気に呷るとか、あんたって本当にわけわかんないわ。」
エプロンの女が苦味が濃くなった笑みを浮かべる。
「コーヒーの苦味を飲み干せば、大抵の嫌なことも飲み下せる気がするのよ。いいでしょ。」
「「あんたに提供したコーヒーだから、あんたがどう飲もうとあんたの自由よ。飲む理由は全然理解出来ないけどね。」
諦めも行き着くところまで行き着くと笑顔を呼ぶらしいな。今のエプロンの女の表情がまさしくそんな感じか。
小娘の母親がバックに手をかける。
「お代はいいわよ、また旦那さんとご飯食べに来てよ。」
「ありがと、うん、今週中にはお邪魔する。」
「」だから、洗濯物干しっぱなしなんだって。
出しかけていた財布をバックに戻すと、、小娘の母親は、いーっと歯をエプロンの女に見せて、バックを手に立ち上がる。
出入口の扉の前まで行くと、振り返って、「ありがとう、本当に助かった。」言葉を残す。
小娘の母親の飲み干したマグカップを片付けながら、エプロンの女は「はーい。」とだけ答える。
「もう、洗濯物の話はしないのだな?」聞こえぬのは承知で、エプロンの女に問いかけてみたくなる。…アヤツと付き合うようになってから、小生も無駄なことをする機会が増えた。情けないことだ。
そして、また小娘の母親を追いかける。
「もう、帰るだけ?」
「きっとね。なんで?」
小娘の問いかけにアヤツが答えつつ、訊き返す。
「もう充分よ。」
拗ねているのか、受け入れた上で言っているのか判断のつきかねる顔で、小娘はポツリと答える。
「人間はよく『家に帰るまでが遠足』って言うでしょ?家に着くまでは、見届けてもいいんじゃない。」
アヤツの言い分は小生からすれば、滅茶苦茶な気もするが、小娘への答えとしては十分だったらしい。
「勝手にすれば。」
そっぽを向いたまま歩き続ける小娘の歩調が速まる。
それでも足の運びは自然で、ただ単に家路を急いでいるという風にも見えなくはない。
前を見れば、小娘の母親も小娘ほど速足ではないにしろ、自然に繰り出される足運びは帰り道をなんとなく連想させる。これで陽が傾いていたりすれば、しっくりくるのだろうが、今はせいぜいが昼下がりだ。
別に太陽に恨みなどないが、眩しさでついつい睨め上てしまう。陽の光を受けても影を落とせない我が身を少しだけ呪わしく思う。小生の尻で揺れる2本の尻尾も同様だ。
結局、知り合いの亀すら看取ることになったからな。
まぁ小生のことはよい。
小生が珍しく感傷に浸っていた間に母親より前を歩いていた小娘が前方の角をひょいっと左に曲がって姿を消す。
続いて、母親、アヤツと姿を消して、最後に小生が角を曲がる。
その路地の突き当り。小さな門の脇で、こっちを見つめて門と供に待ち構えるように立つ小娘の姿。
速度を上げて、アヤツと小娘の母親を追い抜き、小娘の元に辿り着くと、声をかけてみる。
「ここが…」
「うん、私の家、私の記憶より大分奇麗だけどね。」
自嘲気味に呟かれた言葉にどんな想いを込めたかなど、小生には知る由もない。
(こんな外観だったのか。)
改めて家を見上げながら思う。前回訪れた時は唐突に台所に出現して、仏壇のある部屋の襖から出ていったからな。
小娘の母親の足音が近づくと一歩下がって、思わず道を空けてしまう。それは小娘もアヤツも同様だったらしく、玄関までの短い段差の両脇に並んでしまう。
そうした小生らの前を通って、門、玄関のドアを開けて家に入っていく。その後ろ姿をいまにも呼びかけそうな視線で小娘が見送る。
玄関のすぐそばに立っていると家の中の小娘の母親と高齢の女の声が漏れ聞こえてくる。
「ただいま。」「おかえり、それでどうだった?」「今回も駄目だったって。」「そう、……まぁでも今回がたまたま駄目だったってだけだから、気にすることなんてないわよ。」「母さん、そんな気落ちした顔で慰めてくれなくても、私は大丈夫よ。」
あっけらかんとした小娘の母親の声で締められる会話、それを玄関の扉の前で聞く小娘の顔は何かを堪えるように俯き目も口も堅く閉ざされている。
アヤツが言う、小娘の母親の「強さ」に小娘が何を思おうと小娘の勝手だ。
「このすぐ後に、泣いて喜ぶあなたのお父さんと、お父さんのあまりの喜びように、一緒に喜ぶこも泣くことも出来なくなって、お母さんが苦笑いをするなんて一幕もあるんだけど、それも見たい?」
そんな小娘に、アヤツがそう声をかけるが、もう、いいわよ、と不貞腐れた小娘の声が返ってくるだけだった。
【5】
手術室や処置室と呼ばれる場所ほどではないにしろ、病院内の別の場所の空気だって好きではない。人間以外の生物の存在を許さない、不自然に澄み渡った空気だから、小生と相容れないのも、当然なのかもしれんがな。
不自然な衛生さを象徴するかのような白い壁と天井。埃一つないリノリウム張りのクリーム色の床。外から吹き込む風がレースのカーテンを揺らすが、その風すら外から運ぶ色んな物、たとえば匂いすらも、削ぎ落されているように感じてしまう。
麗らかな昼下がり、弛緩し切った空気が漂ってもよさそうな中でも、どこかそれを許さない張り詰めたものがある。命、痛み、苦しみ、そうしたものが常に付き纏う病院の空気のせいか。
天敵に襲われる可能性もないくせに、清潔さを装いながらも、死という不穏なものを孕む行院という場所の空気は、やはり嫌いだ。
そんな病院の空気に馴染むかのように、目の前には、明らかにやつれ、ベッドで上体を起こした姿勢で虚ろな視線を窓の外にただ向ける小娘の母親の姿がある。
生気と活気を感じられないその様子が、病院に馴染むと思うのだろうか。生気と活気を失う状態だからこそ「、ここにいるのであろうがな。
喫茶店で見た小娘の母親より明らかに、表情の変化が乏しいのに、強烈な感情に支配されているようにも見える。
なのに、生気も活気も感じられない、虚ろさだけがある。だから、
「これがお母さん…。」
小娘からこんな言葉が漏れるのだろう。
「そうだよ、あなたを妊娠して5ヶ月になる紛れもないあなたのお母さんだよ。」
存在感を失った、霞がかったようになった母親を見て、その母親同様、茫然として言葉を失くす小娘。そして…
「…このお母さんの、どこが強いっていうのよっ。あんた言ったわよね、お母さんは強いって。こんなにやつれて、気力もなくして、こんな姿のお母さんにどうやって、強さを感じろっていうのよっ。」
受け入れ難い現実を目の当たりした時に、八つ当たりは本当に都合が良い。まぁ都合が良いだけだがな。アヤツに食って掛かったところで、母親が見るからに弱っていることは、揺るがんからな。
あまりの生気のなさに、呼吸する度に口や鼻が僅かに開いたり閉じたりする様、胸や肩が上下する様が不思議な気さえする。
腕に刺さって伸びる管の先に吊り下げられた点滴から落ちる一滴一滴の滴のほうが、血液よりもよっぽど小娘の母親を生かしているように見える。
それほどに血の気がない顔色。
小娘が狼狽えるのも、分からんでもない。
突然吹き込んだg強めの風がレースのカーテンを大きく持ち上げ、小娘の母親の髪を靡かせ、病室の空気をかき混ぜ、そのまま溶けたり、再び窓から飛び出し行く。
そうして入れ替わっても空気は不穏で
小生の苦手なままで、重苦しいままだ。小娘の母親はここに監禁されているのではと疑いたくなるほど、重く変化のない空気。
コンッコンッ
遠慮がちなノックの音が、そんな空気と莫迦げた妄想を払う。
「…はい。」
口を開くのも億劫そうに、小娘の母親がノックに対してeそれだけを返す。
首を巡らせ、視線をノックされた先に向けるのもゆっくりした動きで、億劫と感じた返事と相まって、一つ一つの動作に辛さが滲む。
小娘の母親の返事を待って、ドアがそろりそろりとスライドして開く。
「失礼するよ。」そうして入ってきたのは、高齢の夫婦と思われる男女だ。女が一歩引いた位置にいるのが、まさしくという感じだ。
男の方は、厳めしく、女の方は柔和な面をしている。人間の顔の特徴を、瞬時に確認するのは猫の頃の習性だ。餌をただで寄越す者かどうか、危害を加える輩かどうかを見極める必要があったからな。
「お義父さん、お義母さん。」
「具合はどうかしら?」
柔和な婆が、その面の印象を違えずに気遣わし気に小娘の母親に声をかける。
「大丈夫です。…その、…お通夜も、お葬式も何も出来ずに、…お世話になりっぱなしで、…すいませんでした。」
途切れ途切れに絞り出される、、小娘の母親の悔恨の言葉。その響きに心情の全てが滲むかのようだ。
頭頂部を向けるほどに、深く頭を垂れて、固くシーツを握りしめる様を見れば、そんなものは一目瞭然だがな。
「謝らないで頂戴、体のことなんだから。それに何より、参列したくても出来なかった加奈子さんの方がお辛かったでしょう?」
「かなこ?」アヤツの顔を見上げて、疑問を口にしてみるが、「お母さんの名前よ。」小娘が答えてくる。「そして、少し黙ってなさいよ。」余計な一言も付け加えてな。怒鳴り返さなかった、小生の寛容さに感謝しろよ、小娘め。
「そんなこと…。」
小娘の母親の言いかけの言葉は、躓いたまま、続かない。それでも懺悔するかのように縋る視線が、口ほどに物を言うのだ。
「妊娠悪阻を、つわりの少し悪くなったものと認識することも多いが、加奈子さんのように食べ物を全く受け付けなくなるケースもあるし、あまり楽観できるものでもない。何より担当医が絶対安静と言ってるなら、それに従えばいい。」爺は言い含めるようにゆっくり言葉を積み重ねる。そして続ける。「あいつが死んで、加奈子さんがどれだけ惜しんで、悼んで悲しんでくれているかなど誰にでも分っている。夫婦だからこそ、葬式なぞに頼らずとも、葬る方法もあろう。そうやって弔ってくれれば、それで十分だ。葬式だ、喪主だなんて形式に囚われる必要などないし、参加出来なかったと悔やむ必要もない。」
労わるように語りかけていた婆とは違って、武骨に投げっぱなされた爺の言葉は一直線に小娘の母親を支えるのかもしれない。
「そう仰って頂いて、本当にありがとうございます。でもなかなか妊娠出来なくて、出来たら出来たで、こんなタイミングでこんなことになって…」
「どんなに医学が進歩しようとも、やっぱり子供は授かりもので、いくら医学が発展しようとも、妊娠出産には命の危険が伴うってだけのことだろう。医療に従事するものとして、諦観して良いことではないのかもしれんがな。」爺が自嘲するように言葉を締め括る。
「大分お痩せになりましたねぇ。」
そして、気遣わし気から悲し気まで憐憫を深めた婆の言葉が爺が締め括った話を引き継ぐ。
「もともと太りづらい上に、点滴生活になってしまったからってだけですので。」
なんの繕いも出来ていない、言い繕いを、小娘の母親が口にする。
それを指摘するでもなく、そうですかと小さく呟かれた婆の言葉を最後に沈黙が訪れる。
小生の嫌いな病院の空気を纏い、小娘の母親の明らかに芳しくない体調、そして切り出そうとしながらも、澱むその回数毎に、沈黙は重さを増していく。
「おい。」、業を煮やしたらしい爺が婆に声をかける。
婆は一度、渋面を作ると一度を顔を伏せて、意を決したのか口を開く。
「…分っています。…加奈子さん。」
その呼びかけに、小娘の母親は、はい、と律義に答える。
「あなたの体調がこんな時に、酷な提案をするんだけど、…赤ちゃんを諦める気はある?」
静かに紡がれた言葉は、小娘の母親が息を飲んだ気配がはっきり伝わるほどの静寂が横たわっている。
「それって…」「それって。」
小娘の言葉と小娘の母親の言葉が被る。
小娘の母親の言葉は、そこで一旦途切れたが、小娘の言葉は止まらない。
「それって、私のことを見捨てるってこと?私なんかいらないってこと?私の存在を否定するような話を、そんな普通の顔をして話さないでよっ。」
悲痛な絶叫となって響く。
その声が届く相手は見当違いの小生とアヤツだけ、だがな。
そして、小生はこの絶叫の矛盾を放置は出来ないのだ。
その理由は小生にも分からんが、アヤツに感化されたかな、胸糞悪い。
「小娘、おんしが屋上でしようとしたことと何が違う、いや、婆の話はそれより幾分マシではないのか?」
小娘は、ビクッと肩を揺らして、押し黙る。
アヤツは、敢えて口を挟まぬ、本当にズルい奴だ。
「…やっと出来た子なんですよ。お義母さんも妊娠が分かった時、あんなに喜んでくれたじゃないですか。」
小娘の母親は、視線を落として、自身の腹を見つめ婆に視線を戻して、ゆっくり言葉を声に乗せる。
「…そうなんだけど、そうだんだけどね、あなたのお腹の中で赤ちゃんは日毎に成長してしまうから。」
婆の言葉は本意ではないのかもしれんな、なんの制さもない。
「私は、それを感じられる気がするのだけが、唯今の幸せなんです。」
決して、力強い声ではない、でも、そこに乗る意志はゆるぎない。
「でも、許される時間は限られていますから、後になってやっぱりって訳にはいかないじゃないですか。」
婆は、それでも無理矢理食い下がる。
「後悔するかもしれないから、そんな理由でこの子を諦めろって、仰るんですか?あの人が残してくれたものなんですよ。お義母さんはこの子に会いたいとはおもわないんですか?」
「思わないわけがない、思わないわけがないでしょう。でも、私はあなたに重荷を押し付けたあの子の母親だから、その重荷を取り除くのは、私の役目だと思うのよ。」
「この子が、重荷ってことですか?」
「違うわよ、先に逝ってしまってあなたに悼みを残したことと育児を早々に放棄したことよ。」
婆は声を荒げずに、それでもきっぱりと断言する。
「…お義母さん…」
「加奈子さん、すまんな、うちのを責めんでくれ。この話は、俺が言い出したことなんだ。ただ内容が内容だから、女同士の方が良いかと思って、うちのに、お願いした。」
「お義父さんが…」
「俺たちから提案しないと、加奈子さんからは、切り出しづらい話かと思ってな。そして、そのまま責任感とか義務感で産むことを決めてしまうのでは、と危惧した。だから、俺達から話したほうがいいと思ったんだ。すまん。」
謝意と謝意で繋がった言葉は、爺の深々と下げられた頭で結ばれる。
「そんな、謝らないでください。」
小娘の母親は、少しだけ身を乗り出そうとしたようだが、上体が少し揺れただけだ。
「少し話していいだろうか。」
小娘の母親の体調を気にかけた為の爺の言葉だろう、厳めしい面に似つかわしくない慮り方だ。小娘の母親の頷きを見て語りだす。
「加奈子さんはご存知だろうが、若い頃のあいつは本当に手がつけられなくてな。沢山の人を傷つけ、一時、刺し違えるしかないと、思い余ってそんな風に本気で考えたこともあった。」苦笑交じりに、きっと多くのものを省いた言葉で話を紡いでいく。「そんなあいつが、高校を一年で辞め、一年ほどした頃に急に働きたいなんて言い出した、当時、にわかには信じられなかった。」苦笑と自嘲を行ったり来たりするような爺の表情の変化は、懐かしむというより、その頃の感情をなぞっているところがあるのかもしれんな。「あいつが興味ありそうなことといえば、俺はバイクぐらいしか思い至らなかったから、知り合いの自動車整備工場を経営している人に雇ってもらえるようお願いした。正直、あまり期待してはいなかったがな。」少し自嘲の色合いを濃くして続ける、「そんな俺の予想と心配をよそに、あいつは真面目に働き続けた。雇ってもらえるようにお願いした人に、『問題児なんて言うから、身構えていたのに、気骨のあるいい子じゃないですか』なんて言われて、訳が分からなかった。」
伏し目がちに話していた爺が目線を上げ、小娘の母親を見据える。婆はハンカチで目頭を押さえて、声も抑えて「俯くだけだ。
「加奈子さん、あんたのおかげなんだろ?」
「…」
「俺達の子育ての何が失敗で、どう失敗したのかも分からず、どうして更生することになったのかも知らない。だから反省も何かを改めることもできなかった。ただ、あいつを変えてくれた何かに感謝したいとはずっと思っていた。」語りかけているのか独白なのか、聞いている相手に届けるという力強さを失くしながらも、爺の言葉続く。「そんな思いで過ごしていたある日、二十歳になったあいつが紹介したい人がいるってあんたを連れてきた。ああ、この子がこいつを変えてくれたんだって、俺にもそれだけは分ったんだよ。精一杯いっちょ前の面して、あいつがいずれは結婚したいとか言うんだからな。いくら鈍い俺でも分かる。そして、ずっと感謝したかった人がこの娘なんだと知ったんだ。」
独白めいた呟きは、また、熱を帯び始める。
「子供を産むことで不幸になるなどとは思わない。それでも、子供がいることで加奈子さんが手に入れるはずだった、幸せを逃してしまうのだけは、我慢出来んと思った。まして、俺達の存在がその原因になるなどもってのほかだ。俺達のことは気にせず、加奈子さんが幸せだと思うものを、選んでくれるなら、それでいい、それがいいんだ。こんな風にしか感謝は形に出来んが、そのための提案だったんだ。
お義父さん、お義母さんが反対されるなら、それも仕方ありません、それでも私はこの子と共に生きていきます。
加奈子さん、さっきお腹の子に会いたくないのってうちのに訊いたよな、会いたいに決まってい
る、会いたくないわけがなかろう?あいつ以外に子供のいない俺達にはたった一人の孫なんだ。それが、加奈子さんの選ぶ幸せだというなら、こんなに嬉しいことはない。」爺の言葉は、湿りながら、結ばれる。
あなたのお母さんは、あなたを産む前にあなたを一人で育てていくことを決めてたんだね。そしてこの頃に決めたことを十何年も守り続けているんだよ。ね、だから言ったでしょ、あなたのお母さんは強いって。
小娘にも届かない声でアヤツが呟いた。届ける必要はないってことなのだろう固く拳を握り締めつつ、自身の母親を睨みつけるような強い視線を送る小娘には。
お義父さん、お義母さんが反対されるなら、それも仕方ありません、それでも私はこの子と共に生きていきます。
突然空を見上げた小娘が「あんんた達に感謝したりしないんだからね。」叫ぶ。
電信柱の上に腰掛けて。ショーセイは電線の上に丸くなって、見下ろしている。
「しかしおんしは本当に余計なことに首を突っ込んで自分の役割を台無しにするな。そもそも時間を溯る能力だって死んだ者の心残りを解消するためのもので、生きている者の蟠りを解消するためのものではなかろう。」
「きっと違うよ、小生、元々そういう理由で存在している能力だとしても、どう使用するかは、持ち主次第なんじゃないかな。本来の使い方と違っていても、いいんだと思うよ。」
どう使われようとも、小生に迷惑がかからんのであれば、一々口を挟んだりせん。大人しく与えられた任務だけこなしておれっ。」「いい迷惑だっ。」
「どうしても、見過ごせないんだよね。」
「今回の手助けはいつにもまして、力の入れようだな。」
「そうだったかな。」アヤツは、思い当たることはないといった風にあらぬ方向に視線を向ける。
「小生を謀かろうとすることに意味はなかろう。」
「…だね」
苦みが口端を押し上げる。
「今まで相互に縁のある者の思いしか見せてこなかったのに、今回は態々小娘の知る由もない者の思いまで見せていたからな。」
「そうだねぇ、確かにいつもとは違ってたかもしれないけど、力を入れるっていうのとはちょっと違うんだよね。」
「どう違うというのだ?」
「あの娘のためっていうより、あの娘の命を投げ出そうとしていた理由が今までで一番好きじゃなかったってだけなんだよね。」
「憤りだとでも言うのか?」
「遠くはないかな。」
小生は四足を地に着けたまま器用に肩を竦めて見せる。呆れたって言葉を声にするのも億劫だとでも言うように。
「どこに行こうと母さんには関係ないでしょ。休みの日まで態々文句を言いに出てこないでよ。」
「あれで本当にあれで小娘は反省しておるのか?」
「多分ね。」
「とてもそう思えんがな、本当に大丈夫なのか?」「ショーセイあの娘のことが心配なの?」「フンッ、阿呆がっ違うわっ。態々時間を遡ったりしたことが無駄になるんじゃないか、と危惧したにすぎん。」「はいはい、そういうことにしておくよ。」
鞄には、遣り掛けだった楽譜と黒い財布が入れられているのも、そしてさっき、インスタントコーヒーをブラックで一気に呷ったのも、知っている。だから、
「大丈夫なんじゃない。」心から信じてそう言える。
「しかも、停学中とやらなのにに、こんな時間から出かけるのか。態々学校に行く時の格好をして、」「制服は学生の正装だからね。」「セイソウ?あれか、キンコンカンの時に着る服のことか?」「キンコンカン?冠婚葬祭ね。アヤツは、小生の発言を柔らかく訂正して鼻息荒く歩きだす、小娘に視線を落とす。
ね」
「そうだね、ピアノ教室はまだやってないだろうけど、でもショッピングモールのお店は開いてるだろうからね。」
「そうか、なら盗みの罪の意識を取り除きに行くつもりということか、あの小娘はもう自ら命を絶つことはしなくなりそうということか?
そうなりそうだね。
なら、また役立たずと言われるではないか
そうなるかな
なんで、そこで満足そうなのかが分からん