7.原始の感覚
「風を感じない――とは?」
レアははじめてサフィアスのほうを向いた。
「昨日まで……どんなに弱い風でも――蝋燭の炎すらも揺れないような風でも――感じてた。でも今はなにも感じない!」
レアは心底脅えたような震える声で言った。
サフィアスは慰めるようにレアの肩に手をのせた。
なんと声をかけてやるべきかサフィアスが思い付くまえに、レアが続けた。
「サフィアスは……火の使い手は、どんなふうに火を感じる?」
――そうだな……とサフィアスは考える。
「――言葉で説明するのは難しい……檸檬の匂いも蜜柑の匂いも、どちらも柑橘類の香り――としか説明できないだろう」
サフィアスは言葉を切ったが、レアはさらに彼が続けるのを待っているようだった。
「なんというか――ただ気配を感じるんだ。火がある場所だけが妙に気になるというか――」
説明になっているだろうか、とサフィアスは心配になる。
「たとえば、さっき食堂にいたんだが、中庭で火の気配を感じた。見えなくても聞こえなくても――本能というか原始の感覚というか――そのようなもので火の存在が感じられる」
レアは無言でサフィアスの話を聞いていた。
「ーーまるで火と自分の魂が、空間を超えて繋がっているように。火へ魂の感覚が引き寄せられる、って言ったらいいのかな」
生まれて間もない赤ん坊が母親を見分けるのも、火の存在を感じ取るような原始の感覚なのではないだろうか。
物心がつきはじめると、顔で母親と他人を判断する。
だが、赤ん坊は目で見なくても、頭で考えなくても、本能のようなもので、母親の存在を感じ取っているのではないか。
そんなことをサフィアスは思っていた。
「わたしもだいたい同じ――ちょっと違うけど」
「違うのか」
「風を感じる感覚そのものは、サフィアスが火を感じるのとたぶん同じだと思う。でも、感じ方――とでも言うものが違うと思う」
「感じ方?」
「風は至るところにあるからーー」
レアは少し考えてから続けた。
「騒音の中で会話をしているときを思い出してみて。すべてが聞こえているというのに、本当に聞いているのは会話している相手の声だけ。それ以外は聞こえていないのと同じ。聞こえているけど、聞こえてない。――ほら、今も、夏虫がたくさん鳴いているでしょう」
言われてはじめて、鈴のように鳴く夏虫の音に気づいた。
ずっと聞こえていたはずなのに、今の今までその存在を意識はしていなかった。
「世界には音が溢れてる。でも、そのすべてをわたしたちは聞いてはいない。それと同じで、風はいつでもあるから、意識すれば感じられるけど、意識していないときはなにも感じてない。ただ、肌で感じられるまえであっても突風が迫ってきていたり、どこかで嵐や竜巻が起こっていたりしたら――風の存在が意識される。――たぶんサフィアスが火の存在を感じるときと同じように」
そのとき強い風が吹いた。
レアの蝋燭の炎が吹き消された。
サフィアスは自分の蝋燭は消えないようにと意識を集中させた。
「感じない」
レアが呟いた。
「風を感じない。まったくーー」
泣きそうな声だった。
「わたし、どうしちゃったの――?」
サフィアスは地面に燭台を置き、レアの肩に腕を回した。
「風が来るってわからない。突然、肌に風を感じるなんて――」
寒気がしているようにレアは自分の両腕の肌をさすった。
突然、肌に風を感じるのは、サフィアスにとってはあたりまえだったが、生まれてからずっと肌で感じるまえに本能で風を感じている風使いにとって、それは奇妙に感じられることなのだろう。
「きっと疲れているんだ」
サフィアスはレアの背をさすりながら言った。
「眠っていないんだろう。寝たらよくなるさ。風邪のときには食べ物の味がわからなくなることがあるっていうじゃないか。それと同じだよ」
そんな確信はサフィアスにはなかった。だが、そうであってほしいという望みだった。
サフィアスは昼間レアに怪我をさせかけたときに感じた、肉を焦がすようないやな感覚を思い出す。
――あれがレアの不調と関係がなければよいが……。
心の中で火の使い手の始祖レヴィスに祈る。
「まだ日の出までには時間がある。少し眠ってこい。ルーサの送別会で眠くなるわけにはいかないだろう。ルーサの最後の日だ」
今日の夜はルーサと仲がよかった生徒で集まって、小さな送別会をすることになっていた。
サフィアスは自分の蝋燭の炎を火種にして、かき消えてしまっていたレアの蝋燭に火を灯した。
それを持ち上げ、レアに渡す。
レアは無言で頷いて、立ち上がった。
ふたりで学寮の階段を上りながら、サフィアスはふとレアに問う。
「おまえ、ルーサになにか贈り物をするか?」
「ええ」
さぞあたりまえのことだというようにレアは答えた。
実際それは恒例と言えた。一度学舎を卒業すれば、二度と戻ってこられない。
官吏になった者同士は再会できるだろうが、そうでなければ今生の別れになる可能性もあった。
だから、自分のことを覚えていてもらうために、出立する友へ自分の形見を贈るのである。
「ルーサになにを渡す?」
「本よ」
「本?」
サフィアスたちが読む本は、全員に配られる教本か、図書室の本である。
図書館の本は返却しなければならない。だが、レアの所持品の教本はルーサも同じ物を持っている。
「本って――何の本だ」
「本草学事典。ルーサ、植物が好きだから」
「よく持ってたな、そんな本」
レアはサフィアスより先に学舎に入学していた。その後、サフィアスがここに来てからは毎日、レアとは顔を合わせていた。
レアが寝込んだ日すら――かなり珍しいことであるから、彼女の部屋に見舞いに行っている。
六歳かそこらのレアが、学舎にはじめて来たときから本草学事典を持っていたということはありえない。
「その本、だれに貰った?」
「貰えるわけないでしょう。事典なんていう高価なもの」
「なら、盗んだのか」
サフィアスは歩みを止めた。
図書室の本は厳重に管理されている。司書官は厳格な初老の教官で、全員の顔と名前をしっかりと覚えており、だれがどの本を借りていったかをしっかりと記録する。
「盗むはずないでしょ」
レアが呆れ顔をした。
「写したのよ」
「写した?」
レアが頷いた。
「写した――って一文字一文字か?」
そうよ、と答えてレアはまた歩き出した。
本は貰えない。だが、白紙ならばいくらでも支給された。
「そんな――それは、すごいな」
友のためにそこまでするとはと、心底、サフィアスは感心した。
「ルーサが大好きなのは、サフィアスだけじゃないのよ」
レアの言葉にサフィアスは絶句した。
「――な、おまえ……なに言って――!」
ルーサへの気持ちをだれかに話したことはない。シオンにすらない。
「知らないと思ってたの」
レアが大袈裟に溜息をついてみせた。
「サフィアスがルーサにぞっこんなことなんて、みんな知ってるわよ。あれだけあからさまにルーサに好き好き光線を送ってたらね」
「……」
サフィアスは自分の顔が真っ赤になっているのを感じた。暗闇でよかったと、生まれてはじめて闇に感謝したかもしれない。
――みんな知ってる、ということはルーサも知っているのか。
そう思うと、サフィアスは叫び出したいような気がした。
「サフィアスは、ルーサになにをあげるの?」
サフィアスの気持ちに気づいているのかいないのか、レアは同じ調子で続ける。
「おれは――」
――まだ用意していないとは言えない……。
「まさか、用意していないわけ」
沈黙したサフィアスの心はいとも簡単にレアに読まれてしまった。
「――本を書写するの、どれくらい時間がかかった?」
「うーん、一月くらいかな。毎日、少しずつしかやってなかったけど」
「だよな……」
到底、明日のルーサの出立には間に合わない。
「ルーサへの贈り物を準備していなかったなんて、サフィアスの思いって、そんなものだったのね」
「――それは違う!」
思わず大声を出してしまった。
「それは違う」
声を小さくして繰り返す。
「なら、なんで用意してないのよ。わたしたちみんな、十七よ。今日か、明日にでも卒業することになるかもしれないのに」
――本心は言えない……な。
そうサフィアスは思った。
正直なところ、シオンよりもレアよりもルーサよりも――自分が一番早くに卒業するものだと思っていた。
奢りではない。客観的な評価だと思っている。
毎朝、だれよりも早くに起きだし、火の操り方やその戦術について学び、授業や訓練でもよい成績を残し続けている。
自分が一番早くに卒業するだろうから、自分は贈り物を貰う側だと思っていた。
もし、贈り物を準備してしまったら、自分が他の生徒よりも劣っていると認めたことになるような気もして、そうはできなかった。
「もし、先に卒業したとしても、残されたわたしたちがサフィアスのことを思い出せるように、なにか形見を残して卒業していくのが筋なんじゃないの」
レアの言うとおりだった。それにやはり完全にサフィアスの心を読んでいた。
レアとはずっと一緒に学び、育った。姉か妹か――いや、双子の兄姉のようなものだ。対等で、それでいて兄姉のような存在――そんな関係だ。言葉にしなくても、ちょっとした仕草でお互いの感情がわかる。
「じゃあ、ゆっくり安めよ」
サフィアスは階段のまえで言った。男子の部屋は二階で、女子の部屋は三階だった。
「サフィアスは優秀よ」
去ろうとして背を向けたサフィアスへレアが呟いた。
「わたしたちの代では一番優秀。それは疑いない。先生たちがどう評価しているのかはわからないけど、自然を操る力においては、絶対にサフィアスが一番」
「――」
「サフィアスなら、絶対、官吏になれる」
レアから褒められるのは久しぶりだった。いや、いままでにレアの口からサフィアスに対する褒め言葉を聞いたことはないかもしれない。サフィアスのほうもレアを褒めたことがないから、お互い様である。
お互い暗黙の了解のようなもので尊敬しあってはいたが、口に出しはしなかった。まさに兄姉のようにだ。
「ありがとう、レア」
レアは首を横に振った。
「わたしこそ、ありがとう」
それだけ言って、レアは階段を上っていった。
暗い校舎にレアの足音だけが響いている。
それが聞こえなくなるまで、そして、梟が鳴く声が聞こえてくるまで、サフィアスは廊下にたたずんでいた。




