6.喪失
その日の晩、サフィアスは悪夢にうなされた。
レアを殺してしまう夢だ。
夢ではレアは倒れたまま動かない。
火の玉によって黒く焦げついた心臓がレアのはだけられた衣から見え隠れしている――。
その黒い心臓がとくり、と動く。
サフィアスは叫んだ――。
自分の叫び声で目を覚ました。
いや、叫んだのは夢の中だったか、現実でも叫んでしまったか――もはや定かではなかった。
シオンの寝息が聞こえる。
物音に敏感なシオンが目を覚ましていないということは、現実では叫んでいなかったらしいとサフィアスは結論づけた。
もう眠りに戻れそうにもないので、サフィアスは燭台に灯りを灯し、ベッドから這い出た。
普段ならば、机に座れば真っ先に教本を開く。
だが、今日はそういう気分になれなかった。
サフィアスはただ蝋燭の火をぼんやりと見つめていた。
眠りに戻れそうではないが、だからといって眠った時間が足りているわけではない。頭もぼんやりしている。
――明日、ルーサが出立する……。
サフィアスはそう思い出す。
なにかしら餞を渡したい。
そうは思うが、ここは市井ではない。店に行って贈り物を買うことはできない。
――先生に頼めば外出させてくれるだろうか。
おそらく無理だな、とサフィアスは思う。
入学してからいままで、サフィアスは一度も学舎を出たことはなかった。他の生徒が外出したという話も聞いたことはない。
シオンの寝息が静かな闇の中でやけにうるさかった。
サフィアスはシオンの様子を確認しようと彼のベッドへと近づいていった。
シオンは意識はなく、荒く呼吸をしていた。シオンの額にのせていた氷はすべて溶けきっており生温かくなっている。
昨日より悪くなっているようだった。
風邪に効く薬はないといっても、熱を下げる薬だけでも飲ましてやったほうがよいのではないか。
――というより、本当に風邪に効く薬などないのだろうか……。
サフィアスはガイユの麗しい顔を思い浮かべた。
教官も生徒も全員がガイユに信頼を置いているようだったが、サフィアスはあの男があまり気に食わなかった。
それは単なる嫉妬か、それとも彼になにか邪悪なものを感じ取っているからか――。
部屋に置いていた氷は、すでにすべて溶けていた。
サフィアスは燭台を手に取り、食堂へ行くことにした。
食堂の炊事場には大きな水槽があり、その中の水はいつでも凍っていた。
教官のひとりが非常に優れた水の使い手で、彼が大きな氷を食堂に常備しているのだ。
氷の水槽は氷そのものを使うためではなく、その水槽の上下に肉や野菜を入れて保存しておくためだ。
だが、夏に冷たい飲み物を欲しがる生徒がいたら、厨房にいる世話係の人たちが氷水のために切り出してくれる。彼らは教官ではなかったが、サフィアスたちは皆、彼らを先生と呼んでいた。
食堂で氷を切り出し、容器に入れる。
サフィアスは氷をひとかけら口に入れた。頭痛を起こさせるほど冷たかった。
ふとサフィアスはどこかで火の気配を感じた。
サフィアスが持っている蝋燭とは別で、どこかでかすかに火が燃えている。
東側の中庭のほうに火が灯っている感覚がした。
中庭まではいくらか距離がある。この距離でもサフィアスが火の存在を感じ取れるということは、それなりにそこそこ大きな炎があがっている可能性がある。
こんな真夜中に生徒が中庭で火を操る練習をしているとも思えない
――火事でも起きかけているのかもしれない。
サフィアスは火を感じるほうへと歩いていった。
中庭に出てあたりを見回すと、闇の中で一灯の火が燃えていた。
サフィアスはそちらへと歩いていった。
「だれ」
急に近くから呼びかけられ、サフィアスは驚いた。
だが、声の主がわかったので、すぐに落ち着く。
「レアか」
火の灯った燭台が地面に置かれていた。
その蝋燭から少し離れた草の上にレアは座っていた。
遠くだと思ったが、思いの外、近くに炎があった。あたりは闇に包まれているから、遠近感覚が正常ではないようだ。
「こんな時間になにをしている」
サフィアスはレアの顔に蝋燭を近づけた。
レアは地面に置かれた蝋燭の炎を見つめていた。小さな明かりではレアの表情まではわからない。
「身体はだじょうぶか」
「――」
返事がなかった。
サフィアスは胸騒ぎがした。
「レア?」
呼びかけても、レアはサフィアスのほうを向かない。
「どうした? やはり……傷が痛んでいるんじゃ――」
サフィアスは蝋燭の火に操力を込めた。
炎が僅かに大きくなる。
まだレアの表情はわからない。だが、小さな四刻蝋燭ではこれが限界だった。
「レア、痛むなら医務室に――」
いつもの溌剌とした姿とはかけ離れたレアの調子が、サフィアスを案じさせた。
「――なんともない」
長い沈黙のあと、レアが呟いた。
「身体は、なんともない」
よかった、とサフィアスは安堵する。
「本当になんともないんだな」
暗闇の中でレアが頷いたのがわかった。
「――身体はね」
いつものレアよりもはるかに低い声だった。
「身体は?」
サフィアスもレアの横の草の上に座り込んだ。
「感じないの」
レアは地面に置かれた蝋燭の炎から目を離さずに言った。
蝋燭の炎はかすかな風に揺れていた。
「風を感じない」
かさかさと音を立てて草の葉が風に揺れた。
レアが驚いたように身体を震わせ、木枯らしでも吹いたかのように己の身体を抱いた。
「風を感じないの!」
レアの悲痛な叫声が学舎を囲む森に響き渡った。
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