5.錯乱
「怪我は――!」
サフィアスはレアに駆けよっていった。
教官ふたりもレアのほうへと走っていく。
たまに他の生徒に誤って怪我をさせてしまったときに、相手の皮膚を己が焦がしているような嫌な感触を覚えたことがあった。
だが、いま感じたそれは、その比ではない。
――おぞましい、全身の毛が逆立つような……。
そのとき、サフィアスは全身の血がうねるような感覚を覚えて、地面に膝をついた。
酷いめまいがした。
立ちくらみなどといえるものではなかった。
天地も左右も前後もわからない。
まるで合わせ鏡の中をぐるぐる回っているようだ。
「息をしていない!」
「脈がない!」
教官が叫ぶ声が遠くで聞こえる。
――死ぬのだな……。
サフィアスはそう思った。
そうは思ったものの、しばらくするとさっきのめまいが嘘のように、感覚が戻ってきた。
「ガイユを呼んでこい!」
また教官が叫んだ。
レアが地面に倒れている。
血は出ていない。
レアは目を大きく見開いて硬直していた。
微動だにしない。
サフィアスは全身の血が抜けていくように感じた。
「死んでる――」
肯定とも疑問ともとれないような呟きがだれかの口から漏れた。
「死んでる」
別の生徒が言った。これは確実に肯定だった。
――レアが死んだ……?
サフィアスの膝が震えた。
その足下の震えが全身に伝わっていく。止まらない。止められない――。
女子生徒だろうか――だれかの嗚咽が聞こえてきた。
レアの衣の胸の部分が黒く焼け焦げている。
焼け焦げて敗れた衣の隙間からレアの乳房が見える――見てはいけないものであるということを忘れ、サフィアスはそこを凝視していた。
そこに見えるはずのものがなかったからだ。
左胸は黒く焼け焦げていた。
サフィアスの火鉢の炭の色だ。
レアの赤毛も一部が黒くなっていた。
胸を焼いたのとは別の火の玉がレアの頭部を焼いたのだ。
――おれは人を殺した……。
サフィアスの頭が真っ白になった。
長いような、短いような、死んだような時が流れた。
なにも考えられない。
「おい!」
教官のひとりが叫んだ。
レアの左手の指がぴくりと動いた。
「生きてるぞ!」
見開かれていたレアの目が細められ、小さな呻き声があがった。
「レア!」
サフィアスは呪いから解かれたようにレアの近くへと歩み寄った。
「レア! しっかりしろ!」
レアの口元が動いた。
「サフィ……アス……」
レアが苦しそうに言う。
「うん……が……よかったわね」
そうはっきりと聞き取れた。
サフィアスは目頭が熱くなるのを感じた。
「――よかった!」
サフィアスはレヴィス――火の操手の始祖であると伝説が語る女神に感謝した。
レアは生きていた。
「本当に運が良かった!」
サフィアスは人殺しに、それも友殺しにならなくてすんだ。
レアの手が動いて、サフィアスの手をぎゅっと掴んだ。
しっかりとした握りだった。
これだけ力があれば大丈夫だ。
サフィアスはレアの手をしっかと握り返した。
様子をうかがっていた生徒も安堵して談笑しはじめている。
――殺したと思った……。
運がよい。なんとも運がよい。
――よすぎる……。
レアが上半身を起こした。
衣の胸の部分が破れたところを手で押さえ、それから黒く焦げた髪の毛を見て顰めっ面をする。
「サフィアス! わたしの大事な髪の毛を!」
大事にするほどきれいな髪でもないだろう――などという軽口を、普段のサフィアスならば返しただろう。
だが、今のサフィアスにはそれができなかった。
サフィアスが操っている間は、火はサフィアスの手であり足である。
その火がレアの心臓を喰い破った感覚が確かにあった。
――なのに、なぜ……これほどレアは……。
そこへガイユが現れた。
「なんだ……元気そうじゃないか」
ガイユが息を切らしながら言った。
金髪の見目麗しい姿を見るなり女子生徒がざわめいた。
いつもの光景だった。
「なんか、大丈夫みたいです」
レアもにっこり笑って言った。
「無駄なことで呼び出すな」
ガイユはそう言ってくるりと踵を返し、去っていった。
走ってくるガイユ先生はじめて見た、かっこよかった――などという女子生徒の声が聞こえてきた。
まさにいつもの光景だった。
いつもの光景すぎて、奇妙だった。