4.火の受難
ルーサが卒業する。
その事実は重くサフィアスにのしかかってきた。
ルーサのことを意識するようになったのはいつからだろう。
おそらく去年か、二年前か――気がついたら彼女のことを目で追っていた。
学舎を卒業してサフィアスは官吏になり、ルーサが卒業するのを待ち、ふたりで一緒に暮らす――そんな夢想をしたことも一度や二度ではない。
だが、まさか自分より先にルーサが卒業するとは思ってもみなかった。
ルーサのことは好いていたが、サフィアスは自分のほうが優れた火の操手であるという自覚があった。
火は基本的には攻撃術だ。ルーサは決して悪い火の使い手ではないが、優しく気立てのよい彼女は攻撃には向いていない。使わなければ操力は伸びない。ルーサがまさにそれに当てはまっていた。
だが、教官たちはサフィアスよりもルーサが優れていると判断し、ルーサのほうが先に卒業することになった。つまり、サフィアスよりもルーサが優れた操手であるということである。
――先生たちは操力の大きさよりも知識の量をより重んじているのか……?
ルーサは記憶力がよい。彼女の知識量はサフィアスのそれをはるかに上回っていた。
だが、それ以外はすべてサフィアスは自分のほうが上だと思う。
――自分より劣った男を女が好くことはあろうか。
ないな、とサフィアスの気が沈んだ。
そのとき、サフィアスは突風に巻かれて二馬身ほど吹き飛ばされた。
地面に強く身体を打ち付けられる。
サフィアスは呻いた。
「どこ見てるのよ、サフィアス!」
風を起こした張本人――レアが仁王立ちをして叫んだ。
「ちょっと考えごとをしていて――」
「わたしとの決闘は考えごとをしていても勝てるってこと?」
「そんなこと言ってないだろう!」
返事は返ってこなかった。レアが風に意識を集中していた。
サフィアスはさっと立ち上がり、後方へと退いた。
レアは風の使い手だ。
風使いは、そのほかのふたつ――火や水の使い手よりも、はるかに様々なことを可能にできる。
遠くにいても物を動かすことができたり、湿った風を山にぶつけて雨雲を作ったり、力の強い操手ともなれば、鳥がしているように上手く風を操って空を飛ぶこともできる。
だが、風使いは風が吹かないとなにもできない。
その点、火の使い手は近くで火を燃やせば、その力をいくらでも発揮することができる。
サフィアスは訓練場の四隅で燃やされている焚火に意識を集中させた。
――焚火から火の欠片を分離して、それを飛ばす――!
今朝、読んでいた火球戦術を試してみる。
鼠くらいの大きさの火の玉がふたつ、レアのほうへと飛んでいった。
レアは逃げるために走り出そうとする――。
そのとき、そよ風が吹いた。
レアは逃げはせず、手をまえに突き出した。
レアが風を操る。
その操られた風にサフィアスの火の玉は圧され、勢いが弱まった。
さらにレアは集中しつづける。
目を閉じ、全身の肌で風をとらえている。風は見えないから、風の使い手は目を閉じて視覚という余計な感覚を封じる者が多かった。そのほうが風を操りやすいらしい。
火の玉は完全に宙で静止した。
レアはまだ目を閉じたままだ。
また、かすかに風が吹いた。
土が渦巻いて、レアの近くに風が集まっているのが見えた。――いや、レアが風を集めているのだ。
――やばい!
宙に浮いたままの火の玉が進行方向を反転させた。
――火よ、消えろ!
そうサフィアスは念じたが、消えない。それどころか、炎の勢いが増している。
レアが風をうまく操って火の玉の炎の勢いを助長しているようだ。
サフィアスはレアとは反対方向へと駆け出した。
レアが集めた突風に押されて、火の玉がサフィアスのほうへと飛んでくる。
サフィアスが走る方向を変えても、レアが風の風向を変える。
――消えろ、消えろ、消えろ!
念じ続けると少しは火の威力が衰えた。
だが、飛んでくる速さは変わらない。
人の足ではとうてい風にはかなわない。
ふたつの火の玉はサフィアスのすぐ背中に迫っていた――。
サフィアスは痛みを覚悟する――。
が、いくらたっても痛みは訪れなかった。
ふと後方を見ると、火の玉が宙で止まっていた。
サフィアスの身体に火の玉が触れる寸前に、レアが風を止めたのだ。
風の力から解放された火の玉は、しゅうと音を立ててながら大きな線香花火のようにぽとりと地面に落ちた。
サフィアスとレアの決闘を見ていた生徒たちから拍手が沸き起こった。
もちろん、レアに向けられた賞賛だ。
「女に負けたな、サフィアス!」
ロゼフという名の男子生徒が野次を飛ばした。
「永遠に卒業しないつもりか!」
ほかの生徒もそれに便乗する。
観衆の中には無論、教官がふたりいる。それにルーサの姿もあった。
サフィアスは恥ずかしくなった。
「だいじょうぶ?」
レアがサフィアスのほうへと近づいてくる。
「平気だ」
衣を整えながらサフィアスは言う。
「運がよかったな」
「そうかしら。あんな弱々しい火の玉で風使いを倒せると思うの」
「いいタイミングで風が吹いたのは事実だろう」
「負け惜しみね」
レアは得意気に笑った。
サフィアスも負け惜しみだということはわかっていた。一抹の微風をあれほど的確に操れるレアはよい風使いだ。
そんなレア相手に、今朝、本を読んで知ったばかりの戦術を使おうとしたのが悪かった。
しかもいつもの集中力を欠いていた。たったふたつしか火の玉を飛ばせなかったし、それらを同じ方向へ飛ばしては風によって簡単に操られるのはあたりまえだ。
――たくさん火の玉を作って、それをレアの四方八方から飛ばせば……。
「もう一回だ!」
「いいわよ。何度やっても同じだと思うけれど」
レアが不敵に白い歯を見せた。
訓練場の両端の決闘開始の定位置にサフィアスとレアは立った。
「いつでもどうぞ」
風はなかった。
だが、訓練場の隅に植わっている草がかすかに揺れている。風は吹いているようだ。
レアはこのほんのわずかな微風を操るつもりらしい。
火の使い手のサフィアスが目を閉じていても五感以外の感覚――第六の原始の感覚で火の存在を認識できるように、風使いは風の存在を敏感に感じ取れる。
風が止むまで待つか、と思ったが、それは自分の火を操る力に自信がない証とみなされる。教官がふたりも見ている。
――おれの操力はそんな脆弱ではない!
サフィアスは訓練場の四隅の焚火に精神を集中させた。
さっきのような恥ずかしい思いはもう二度と感じたくない。ルーサによい操手だと思ってもらいたい。――そういう羞恥や切望をも自分の力にする。
四方の焚火からそれぞれふたつずつ火の玉ができた。先ほどよりは小さいが、合計で八つもある。
――レアの身体を貫け!
火の玉へそう念じる。
空気を滑るようにして火の玉はレアのほうへと突進していった。
レアはそれを見ても怖じ気づくことはなく、目を閉じた。
風がレアを中心にして渦巻きはじめる。
風の渦によって八つすべての火の玉の飛ぶ勢いが弱まった。
火の玉はそのまま吹き飛ばされるかに見えた。
――いけ……!
サフィアスがさらに力を込めると、火の玉は風の渦を焼き切りながらレアのほうへと進み出した。
それでも、レアの全身を守る風の砦は、目には見えなくとも非常に堅固だった。
しかし、今度は運はサフィアスに味方した。
かすかに揺れていた葉が揺れなくなった。
レアの風の渦が小さくなる。
「突っ込め!」
サフィアスは念じる言葉を声に出していた。
全神経を火の玉に集中する。
風の砦を火の玉が喰い破った。
「やった!」
サフィアスは歓喜の雄叫びをあげる。
それと同時にレアから悲鳴があがった。――ちょっとやそっとの怪我から発せられる悲鳴ではない。
まるで全身を八つ裂きにされた獣があげるようなそんな叫びだ。
――やばい!
サフィアスは咄嗟に念じて火の玉を消火する。
だがすでに、火の玉と繋がっている己の感覚の一部が、レアの肌を焼き、髪を焦がし、皮膚を突き破り、心の臓を貫く――のを感じたあとだった。