1.禁断の色
サフィアスが目を覚ますとあたりは闇に包まれていた。
日の出まではまだ時間がある。
サフィアスは窓際に置いてある火鉢に意識を集中させた。あたりは真っ暗でなにひとつ見えたものではないが、火鉢の中に火種があることは五感とは異なる別の感覚で感ぜられた。
火鉢に注いでいる意識を机の上の蝋燭へと移す。
ぼわっとかすかな音がして蝋燭に火が灯った。
部屋の中がぼんやりと明るくなる。はっきりとは見えなくとも、物の輪郭くらいは見えるようになった。
サフィアスはベッドから起き上がり、机のほうへと向かう。
机の上には、読みかけの本が開いたページを下にして置いてあった。
蝋燭の明かりに『火力戦法読本』という表紙の文字が浮かび上がっている。
サフィアスは机に座り、本をひっくり返すと、蝋燭の灯りを近づけて、昨夜の続きを読み始めた。
学舎はまだ静まり返っていた。
サフィアス同様、すでに起きだして自室で勉強している生徒はいるはずだった。だが、同室のシオンがたてる寝息以外に聞こえてくるものはない。
読んでいるページは火球戦術――火を操って雪だるまのように火の玉を作り、それを飛ばすことによって攻撃する戦法について書かれていた。
サフィアスは火を操ることができた。ヴィラス大陸には火の使い手が圧倒的に多い。
火を操れることは攻撃において有利だった。火種があればいつでもそれを操れるし、なくてもマッチを持ち歩けばどこでも火は起こせる。
水の使い手の攻撃術は、雨の日でなければほとんど効果がない。それか海や湖などの水辺にいるかだ。
サフィアスの部屋は西側に面していた。だから朝日の光は入らない。
だがそれでも、蝋燭の灯りがなくても本が読めるくらいに明るくなってきた。
――火よ、消えろ。
本に目を向けたまま、意識だけを蝋燭の火へと向け、サフィアスは念じた。
蝋燭で薄い朱色に照らされていた周囲が、まだ力の弱い朝日の青白い光だけの明るさになる。
明るくなってきて、生徒が起きだしてきた。廊下を通って食堂へと向かう生徒の足音や会話をする声が聞こえはじめる。
同室の友人のベッドがきしきしと音を立てた。
「シオン」
サフィアスは声をかけた。
「まだ起きないのか」
返事がない。
シオンは一度起きて、また眠りに戻ったようだった。シオンは早起きを苦手としていたが、物音には敏感だった。嵐の夜には一晩中眠れないし、早朝に起きだしたサフィアスがものを落としただけで目を覚ます――すぐに眠りに戻りはするのだが。
『火球戦術』の章を読み終わったサフィアスは、本に鉛筆を挟んで閉じた。いつもはシオンとふたりで食堂に向かうのだが、彼が起き出してこないならば、ひとりでもかまわない。
食堂に着くのが遅ければ、スープの肉が他の生徒に食べ尽くされてしまう。
部屋を出ようとしてから、やはり朝食抜きはかわいそうだと、サフィアスはシオンを起こすことにした。
今日の午前中は決闘の訓練が行われる。朝食抜きで耐えるにはきつい授業だ。
「いいかげん、起きろ」
やはり返事はない。
サフィアスは部屋の反対側にあるシオンのベッドへと歩いていった。
「おれは起こしたからな。朝飯抜きになっても知らないぞ」
サフィアスはシオンの布団を剥ぎ取った。
すると紅潮した頬で荒い息をするシオンの顔が現れた。
「だいじょうぶか」
シオンの頬に触れると明らかに熱い。
「先生を呼んでくる」
シオンは弱々しく首を振った。声は聞こえているようだが、話す気力はないようだった。
サフィアスは自室を出ると、早足で廊下を歩いていった。
食堂に行く生徒とすれ違いつつ、反対側にある教官棟へと向かう。
「サフィアス」
ぼさぼさの赤毛の女子生徒がすれ違いざまにサフィアスに声をかけた。
「レア」
サフィアスも女子生徒の名前を呼び返す。名前を呼び合うことが朝の挨拶であった。
少女はまだ寝起きの眠たそうな顔をしていた。胸元までの丈の燃えるような巻き毛にもまだ櫛を入れてはいないようだった。
サフィアスが立ち止まりもせずに通り過ぎていくと、レアの声が背後から飛んできた。
「どうしたの」
「シオンが熱を出してるんだ」
サフィアスは顔だけ後ろへ向けて答えた。
医務室は教官棟にあり、学寮と教官棟は回廊で繋がっていた。回廊まで出ると、初夏の朝のまだひんやりとした冷気が頬に心地よかった。
教官棟の中に入り、一階の医務室へ向かった。
しかし、まだ早朝――まだだれもいなかった。
どうしようか、とサフィアスは考える。
教官棟の二階より上は教官の私室であった。だが、そこに行くのは気が引けた。
学舎の教官は全員が官吏だ。サフィアスたち生徒に指導をしてくれているといっても、彼らは国政をも担う選り抜きだ。教官棟の私室は彼らの家と同義である。一生徒が気軽に入るのは憚られた。
そもそもサフィアスがこの学舎で学びはじめてから九年以上が経ったが、二、三度しか教官棟の階段を上ったことはない。そして、そのすべてが説教されるために呼び出されたときだった。
すでに起きだしている教官がいるはずだ。サフィアスはそう思って、教官棟の一階を巡り、すでに起きている人間を探すことにした。
ふと窓の外に人影があるのに気づいてサフィアスは足を止めた。
教官棟の裏庭にひとりの男が佇んでいる。
サフィアスは教官棟を出て、男のいるほうへ歩いていった。
「エルガス先生」
声が届く距離まで歩いていってサフィアスは呼びかけた。
男はサフィアスのほうを向いた。
「あの――」
サフィアスが言葉を発しかけると、男は手を小さく突き出して制した。
「これがなにかわかるか」
エルガスはサフィアスのほうへ突き出していた手を地面に向けた。
あたりの地面には人の膝の丈ほどの植物が植わっていた。変哲もない紫陽花のような葉をつけた雑草だった。
「なにかの薬草ですか」
サフィアスは屈んで植物を覗き込んだ。丈の低い雑草にしては葉が大きいが、とりわけ言及するほどでもない。
青々とした葉をたくさんつけてはいるが、花も咲いてはいない。植物の葉に鼻を近づけてみると、意識しなければ感ぜられないほどのほのかな芳香がした。
「決して存在しない花の色は何だと思う」
エルガスが謎掛けをするように問うた。
「――青かな」
赤や黄色、白の薔薇はあっても青だけはない、と聞いたことがあった。だが、すぐに否定する。
「違いますね――紫陽花や菫も青の花を咲かせます。露草とかも――」
「鳥兜もな」
エルガスが付け加えた。
「青でないならば――」
サフィアスは少し考える。
「――黒でしょうか」
サフィアスが言うとエルガスは穏やかな微笑を浮かべた。それだけだった。
サフィアスはその笑みに重厚なものを感じた。エルガスの年齢をサフィアスは知らない。まだ精気に満ちる若者のように見えはするが、見た目だけでは年ははかられない。見た目以上に年を取っているかもしれない。
火か水か風か――すべての人間がこれらのどれかを操る力を持って生まれてくる。
そして、その力が大きいほど、寿命が長いのである。
学舎に来てから九年でサフィアスの身長は倍になり、腕や腿に筋肉もつきつつあった。だが、エルガスはサフィアスが最初に彼を見た日から今まで、一切年を取っていないように見える。
寿命が長いといっても、思春期までの成長の速度は皆同じだ。そののち、力が強い者ほど、老化の速度が遅くなるのである。
特に力が強いという王族は平均して三百年を超える寿命だという。直系の王家ならば、病気や怪我で命を落とさなければ六百年は生きられるという。千年以上――という噂も聞く。
実際、先王――現王の父王は、六百年以上在位し、この大陸を治めていた。
エルガスが――いや学舎の教官の全員が、かなりの力を持っているということは、彼らがほとんど年を取らないことから明らかだった。エルガスもまだこう若々しく見えつつも、七十年かそこら生きているのかもしれない。
「それで、わたしになにか用かな」
エルガスに言及されて、サフィアスは教官棟に来た理由を思い出した。
「シオンが熱を出していて、かなり苦しそうなんです」
「わかった。ガイユを向かわせよう」
エルガスは屈んで、変哲もない雑草の葉を一枚摘み取った。
黒ユリってご存じですか。
ブルーベリーにも含まれる紫のアントシアニンが色濃く発現して黒い花を咲かせます。
本格派ハイファンタジー、毎日更新を目指します。
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