6.戦慄
――アーダン・スコッドは大王陛下を殺そうとした。
ラシールは耳を疑った。
信じられなくて唖然とした。
驚いたのではない、呆れたのだ。
父は殺されそうになっていたのは父の方だ。
その父が大王殺しをしようとしたなどとは――。
本当に馬鹿げたのことを言うものだ、とラシールは思った。
「そんな……」
母が壁に手をつく。
ずっとつまらなそうに黙って様子を見ていたスレナは、いまは困惑した顔をしていた。
「アーダン・スコッドの近頃の動向や様子など、官庁にてお聞かせ願うために、同行してもらいます」
警吏が厳かに言う。
母は目を白黒させて驚愕している。その様子は演技にはみえない。
もし本当に父が大王殺しなど計画していたら、きっと妻に伝えないはずがないだろう。
両親は恋愛結婚だと聞いていた。ラシールの目からも仲がよかった。
「大王陛下は世界一の操手です。父などが殺せるわけがないでしょう」
ラシールは嘲笑を交えて言い放った。
「そのとおりだ。アーダン・スコッドは失敗した。大王陛下は無事である」
「なぜ父が王を殺そうとしたと言い切れるのです?」
「無論、目撃者がいたからに他ならない」
「父が王を殺そうとするところを見ていたというのですか」
「そうだ」
警吏が頷く。
「それはいつのことですか」
「昨夜だ」
ラシールは話にならないと首を横に振る。
「父は官吏です。王宮には父の顔を知る人がたくさんいる。もしあなたの話が本当で、父が大王陛下を殺そうとしたところを目撃されていたならば、あなたがたは昨夜のうちに、わたしたちのところへ父の訃報を伝えに来ていたでしょう」
「それは、アーダン・スコッドが御者に偽装していたからで――」
警吏が言葉を切った。
鴉のような視線がラシールを睨めつけた。
一瞬間遅れて、母の悲痛な叫びが屋根を落とすかの勢いで部屋中に響き渡った。
ラシールは息を呑んだ。
後悔の念が押し寄せてきた。
スレナは訳がわからず母とラシールと警吏を交互に見比べている。
「――なぜアーダン・スコッドが死んだことを知っている?」
警吏が、一歩踏み出した。
ラシールは一歩退いた。
状況を理解したらしいスレナが大声で泣き出しはじめる。
「――謀反を起こした者は……すぐに殺されるものではありませんか」
声が震えた。
口の中がからからに乾いている。
「――父は本当に死んだのですか。生きてはいないのですか」
いまさら知らぬふりを装ったが、それはいっそう警吏の疑念を深めたようだった。
「アーダン・スコッドの犯行について知っていたのか」
「知らない――」
警吏が階段のほうへと歩いてくる。
ラシールは警吏のほうを向いたまま、一段、階段を上った。
「わたしはなにも知らないわ――!」
「ならば、どうしてアーダン・スコッドが死んだことを知っていた」
茶髪の警吏が凄んだ。
金髪のほうは意識を集中させているようだった。
火を探しているのだろうとラシールは思った。
いつでも戦えるように準備をしているのだ。
「答えろ!」
「知らないことは答えられない!」
本当だった。
ラシールはなにも知らない。
「アーダン・スコッドの死体は東の森のそばで発見された。おまえもそこにいたのか」
「なんのことだかわからないわ!」
嘘だ。そこに、ラシールはいた。
「昨日の夜、我々から逃亡していたのは、アーダン・スコッドとおまえではないのか!」
警吏が階段を駆け上がってきた。
ラシールも残り数段の階段を上り切る。
それから自分の部屋へと飛び込んだ。
鍵を閉める。
「開けよ!」
警吏が怒鳴り、戸を叩く。
――どうしよう……!
父が本当に謀反を企てていたかは定かではない。
警吏は、父が死んだことを隠して、ラシールたち一家を連行しようとしていた。
謀反を企てたというのも真っ赤な嘘かもしれない。
どちらにせよ――警吏がラシールたちをどこに連れて行こうと、そこは居心地のよい場所ではないはずだ。
そして、そこでラシールが強大な力を持っていることは明らかにされ、処刑台行きだ。
――捕まるわけにはいかない!
ラシールは窓の外に顔を出し、地面を見た。
飛び降りるには高すぎる。
部屋の中にある水は水槽の水だけ。
これだけの水では火を消すくらいしかできない。
――火を操って……!
ラシールは机のほうへと駆け寄り、マッチを手に取った。
――いや……。
警吏が火の使い手ならば、敵に塩を送ることになる。
火は起こせない。
そのとき、ばんと大きな音がして、扉が破り開かれた。
警吏ふたりがラシールの部屋へと入ってくる。
ラシールはとっさにマッチを持つ手を後ろに隠した。
「ラシール、なにがどうなって――」
母の叫びが奥から聞こえる。
「アーダン・スコッドの罪について知っていたな!」
母の声は警吏の大声によってかき消された。
「知らないわ!」
ラシールは叫んだ。
本当に知らないのだ。
「どうして、わたしや母を連れて行こうとするの!」
警吏は答えず、まだ焦げ臭い匂いのする部屋をぐるりと見渡した。
「どこへ連れていこうとしているの!」
「おまえがやったのか」
警吏がラシールの問いを無視して言った。彼の視線は、半分焼け焦げた箪笥へ向けられている。
「いいえ」
ラシールははっきりと答えた。
「妹よ。まだ小さいから、上手く火を操ることができなくて、間違って燃やしてしまったの」
部屋の入り口には母が立っていた。母は――そんなはずがないとわかっているだろうが、ラシールに異議を唱える気はないようだった。
「わたしは水の使い手。火は操れない」
警吏が箪笥の焼け跡に触れた。観察するようにそれを見ている。
ラシールは警吏が箪笥に興味を示している隙に、ポケットにマッチを入れた。
水への感覚に意識を集中させる。
水槽の水、水路の水――。
水路は家の反対側にある。
そこから水を操って、二階のここまで運べるだろうか。
いまのラシールの強大な力を以てすれば運べるだろう。
だが、時間がかかる。
それに、水は防御には強いが攻撃には弱い。
風のうねりを感じた。
開け放たれている窓から風が入ってきて肌に触れる。
今日は風が強い。
――風は操ったことがない……。
だが、万一のときは風が使えるかもしれない。
父が風を操るのは幾度となく見ている。
水よりは風のほうが攻撃で有利でもある。
風を使うとしたら、窓側の近くに警吏たちをおびき寄せなければならない。
「あの幼い子どもがこれを燃やせるというのか」
警吏がラシールのほうを向いた。
「ほかにだれがいるっていうの。家族の中に火の使い手は妹だけよ」
ラシールは退くふりをして、壁側へと移動した。
「おまえじゃないのか」
「わたしは水使いって言ったでしょう」
警吏は窓際へと歩いてきた。
獲物を追い詰めた虎のような顔をしている。
実際、部屋の隅に追いやられたラシールが逃げられる場所は一切なかった。
「水の使い手か。だが、火も使えるはずだ――おまえがもしアーダン・スコッドを殺していたならば」
「お父さんは風の使い手、火は使えないわ!」
ほう、と警吏の顔が動いた。気味悪くにやりと笑っている。
「アーダン・スコッドを殺したことを否定しなかったな」
「わたしは殺してない――!」
叫ぶと同時に、目の前に白い閃光が走った。
ラシールは反射的に目を閉じる。
部屋の中に突風が吹いた。
少し遅れて爆音がして、世界が砕け散るような音がした。
ラシールは床に崩れ落ちた。
頭蓋骨の中で脳みそが渦を巻いているような気がした。
父を殺すときに感じたのと同じ――天地がひっくり返ったかのようなめまいだった。
めまいがおさまって、ラシールが目を開けると、そこには空間があった。
床はあるが、窓側の壁が吹き飛び、寝台も机も焦げた衣装箪笥も消えていた。警吏の姿も消えている。
巨人が部屋を抉っていったかのようだった。
頭が真っ白だった。
考えようとしても、考えられない。
頭が割れるように痛んだ。
自分がなにをしたのか理解できなかった。
きっとなにもしていないのかもしれないと思った。
きっと竜巻でも起きて――。
――竜巻が起きたならば、床も持って行かれているはず……。
部屋が横からえぐれているということが人為的である証拠だ。
壁がなくなった場所には、吏が家に来るまえに見た街と同じ景色が広がっている。
上を見上げると空があった。屋根も吹き飛んだようだ。
ラシールは壁がなくなった場所に恐る恐る近づき、下を見下ろした。
崩壊した壁や屋根やその他のがらくたが、花壇があるはずの場所に散らばっている。
警吏の姿は見当たらない。瓦礫の下敷きになっているのか――。
「お母さん」
ふと部屋には母もいたことを思いだし、呼んでみる。
「お母さん?」
返事はない。
「お母さん!」
ラシールが最後に見たとき、母は部屋の入り口に立っていた。
部屋にはラシール以外に人の気配はない。大人ひとりが隠れられるような場所もない。
部屋の入り口に影が現れた。
「お姉ちゃん……」
幼い少女がつぶらな瞳に涙をためて、ラシールの方を見ていた。
「お母さんは――」
――どうしたというの……?
ラシールは自分がしてしまったことに気づいて慄いた。
「来ないで!」
ラシールは叫んだ。
「お姉ちゃん――」
「こっちに来ないで!」
ラシールはありったけの力で叫んだ。
妹が驚いた。口を半開きにして、固まっている。
見開かれたつぶらな瞳から、涙がこぼれ落ちた。
そして、猛獣にでも追われているように走り去っていった。
力のある警吏でさえ、ラシールの操力に対抗することができなかった。
おそらく地面に積み重なった瓦礫の下敷きになっているはずだ。
――おそらく……母も。
はじめてスレナを泣かせた。ラシールはそんなことを思っていた。
妹が泣いているときに、慰めたことしかない。妹を追っていって、大丈夫だよ、と慰めてあげたい。
だが、猛獣は自分なのだ。
ラシールが猛獣なのだった。