4.大いなる力
ラシールが風呂から上がると、朝食が準備されていた。
妹のスレナはすでに起き出してきていて、食卓に座ってパンをかじっていた。
「お姉ちゃん」
「スレナ」
挨拶を交わし、ラシールは八歳になる妹の左隣の席に座った。
パンとスープとサラダ――美味しそうな匂いがただよっている。
「お姉ちゃん、食べないの?」
牛乳を飲むだけで、朝食に手をつけようとしないラシールに、スレナが不思議そうに質す。
昨日の昼からなにも食べていなかった。
空腹であるはずだ。だというのに、食欲がない。
あたりまえだ。
父が死に――父を殺し、強大な力を手にしたのだ。
こんな状況で食欲があるほうが異常だ。
――でも、食べないと怪しまれる……。
ラシールはパンをスープに浸し、押し込むように胃に入れた。
「お父さん、帰ってこないのかなあ。昨日、火の操り方、教えてくれることになってたのに」
スレナは家族唯一の火の使い手だった。
――お父さんは火も操れたのではないだろうか……。
過去に火の使い手を殺したことがあるならばありえる。
ラシールはさりげなく第六の感覚を意識してみたが、火のような存在は感じ取れなかった。
そもそも、ラシールの家には火の類のもの、そのものがないはずだった。
最近、スレナの成長期がはじまり、それ相応の操力が現れはじめた。
火を放っておけば、まだ一人前に火を操れないスレナが、知らぬ間に炎を起こしてしまうかもしれない。となると、火事になりかねない。
家族の中に火の使い手がいれば、火事になりそうな火の存在に気づけるのだが、家族の中には火の使い手がいない。
そのため、現在、ラシールの家の中では火は極めて慎重に取り扱われていた。
母はスレナが起き出すまえに料理を終わらせ、スレナが友達と遊びに行っている間に夕食の準備をすませた。
夜は各自、ロウソク一本以上の火は燃やさない。お手洗いにでもいくようなわずかな間でも、ロウソクから離れるときには消火した。
だが、冬は暖炉が必須である。
両親は、どうにか冬までの半年で、危なくない程度にはスレナが火を操ることができるように練習させようとしていた。
「お父さん、火を操れないでしょう。どうやってスレナに火の操り方、教えてくれていたの?」
ラシールは母から水の操り方を教えてもらっていた。父に教授されたことはあまりない。
「火でも、水でも、風でも、操力そのものの性質は同じだから、操り方はあんまり変わらないんだって」
スレナは機嫌良く言った。姉に物知り顔ができるのが嬉しいのだろう。
「どの使い手であっても、大切なのは集中力と想像力。火花のひとつひとつを感じ取って、それらに的確に命令できるのが、優れた操手である」
スレナは父の口調を真似ていた。
それが少しおもしろくて、ラシールはわずかに微笑した。
――優れた操手は生まれながらに火や水への感覚が鋭いのだ……。
父を殺して以来、ラシールの感覚が極めて研ぎ澄まされていた。
風への感覚にはまだ慣れないし、操り方などわかったものではない。
だが、扱い慣れた水に関しては、集中すれば空気に含まれる水の粒さえも感じられるような気がする。
――いまのわたしに火を操る力があるかどうか確かめたい……。
「ごちそうさま」
ラシールは二階の自分の部屋へと向かっていった。
背後で母が「もういいの」という声が聞こえてきたが、返事はしなかった。
ラシールの部屋は寝台と机と本棚、それに衣装箪笥が置かれている。机の上には大きめのゴミ箱ほどの水槽が置いてあった。
水槽の中では色とりどりの熱帯魚が泳いでいた。大陸の西側の王都では見かけない珍しい南部の魚だ。
水槽は半年ほどまえに父が置いたものだった。
スレナの成長期がはじまり、いつ何時、火事が起きるかわからない。そのときは、この水で火を消火するようにと言われた。
ラシールは机が狭くなるから嫌だと反対したが、父は断固として聞き入れてくれなかった。
だが、せめてもの――と珍しい熱帯魚を贈ってくれたのだ。
それからは、毎日水槽を眺めるのが楽しくなっていた。
ラシールは、机に座った。
燭台を机の中央に置き、マッチを手に取る。
横には水槽がある。
万が一なにかが起こっても、一瞬で炎を消火できるだろう。
ラシールはマッチを擦った。
感覚の一部がマッチの火に吸い寄せられるのを感じた。
――火も使える……!
嬉しいような当惑するような複雑な気持ちになった。
マッチの火をロウソクに移してみよう。
そう思って、マッチを持つ手をロウソクのほうへと近づけようとした。
そのとき、ロウソクに火がついた。
念じたわけでもない。少し炎に集中し、思っただけで、ロウソクに火を移すことができた。
マッチはロウソクからずいぶん離れている。
「すごい……!」
思わず声に出してしまった。
――マッチの火よ、消えろ。
音もなくマッチの炎が消えた。
風は吹いていない。息を吹きかけてもいない。
ロウソクの火だけが煌々と燃えている。
――すごい……!
こうはじめから上手く操れると嬉しくなってきた。
――炎よ、大きくなれ。
ロウソクの火がぼっと大きくなる。
だが、小さな四刻ロウソクで灯せる火には限界がある。
ほかに、どんなことができるか試してみたいと思った。
自分の力がどれくらいの炎を操れるのか知りたい。
――たとえば、なにか大きなものを燃やしたり……。
そのとき、背後でぼっと炎が燃える音がした。
振り返ると、箪笥が燃えていた。
――どうしよう……!
ラシールは慌てた。
衣装箪笥の火はどんどん大きくなっていく。
ラシールは咄嗟に机の上の水槽の水に意識を集中させた。
――この水を薄い膜にして、箪笥すべてを包み込むようにして、火を消す……。
水は意識を持った生きもののようにするすると動いた。
水の塊は箪笥まで動くと、ラシールが念じたように、薄い水の膜となり、燃えさかる炎を包み込んだ。
しゅうと音を出して、炎は消えていった。
すべての炎が消えてから、ラシールは大きな溜息をついた。
箪笥の半分が黒くなっている。
中に入れていた洋服も燃えてしまっただろうか。
――燃やそう、などとは思ってもいけない……。
ただ衣装箪笥くらい大きなものも燃やせるだろうか、と思っただけだった。
だが、その程度でも、火はラシールに忠実に動いたのだった。
「ラシール、どうかした?」
物音に気づいて、下の階から母が声をかけてきた。
「なんでもない」
――なんでもなくはないのだけれど……。
黒くなった衣装箪笥をどうしようか。
絶対にだれも自分の部屋に入れてはいけなくなった。
スレナのせいにでもしようか――そんな姉として、けしからぬ考えが浮上する。
床の上で、熱帯魚が跳ねていた。
水を失って苦しそうに痙攣している。
水槽は空になっていた。
床は水浸しになっている。
――水よ、水槽へ戻れ。
また水は二、三匹の蛇のようにするすると動き、机の上の水槽へと戻っていった。
ラシールは床でもがいている熱帯魚を一匹一匹、水槽に戻しはじめた。
水槽の水は半分ほどになっていた。残りは炎の消化で蒸発してしまったのだろう。
――蒸発したということは、空気中から水は失われていない……。
空気の中には極小の水の粒が含まれているという。目には見えないし、昨日までのラシール程度の力では感じ取ることのできないようなものだった。
――いまなら、それらを集めて、水槽の中に入れられないだろうか……。
ふとそう思い付く。
ラシールは目を閉じて感覚を研ぎ澄ませた。
水は見える。
だから、集中するときでも目を閉じない者が多いが、水蒸気は見えない。目を閉じた方が感覚が研ぎ澄まされるような気がした。
じっと意識を集中させる。
四方八方に極めて微小な水の粒がたくさん散らばっている――ような気がする。
だが、とらえどころがない――とでもいえばよいのか。空気の中に水の粒が存在するのは感じるが、上手くそれらに自分の感覚を同調できない。
――感じとれるには小さすぎるのか……。
ラシールはさらに集中したた。
小さな粒のすべてを感じるのは難しい。
ラシールはひとつの水の粒にのみ、集中してみた。
――水の粒が……飛んでる!
微小な水の粒はあたりをびゅんびゅんと飛び回っていた。
ものすごい速さだった。
他の水の粒にあたって飛ぶ方向を変えながら、壁にぶつかり反射しながら――水の粒は空気中を飛び回っている。
まるで発狂したハエのようだ。
――静止していないから、水の粒をとらえられなかったんだ……。
液体の水は基本的には動かない。川や水路の水は流れるが、一部が流れ去っても、間髪を入れずに次の水が流れてくる。
だから、ラシールは水を操るときにはいつも、水のある場所に集中していた。
しかし、飛び回っている小さな水の粒に対しては、場所に集中しても、すぐに移動してしまう。だから、とらえどころがないと感ぜられたのだろう。
ラシールは場所に焦点を当てるのをやめ、水の粒自体に集中した。
――自由に動き回るこの部屋にある水の粒すべて……。
奇妙な感覚だった。
瞼を閉じたラシールは宙に浮いているように感じた。
自分が宇宙の中心になって、そのまわりを数え切れないような星々が行き交っている。
そんな気がした。
ついにすべての水の粒とラシールの感覚が同調した。
――水よ、水槽へ入れ。
水の粒がラシールを通り越し、水槽のほうへと収束していく。
一点へ向かって、すべての水の粒が集まっていく――。
ラシールは目を開けた。
水槽は溢れんばかりの水で満たされていた。
はじめ、水槽に入っていた水の量より多い。
――すごい……!
ラシールの喉はからからに渇いていた。
興奮と震撼のためだろう。
だが、実際、部屋の中の空気は極めて乾いていた。空気中のすべての湿気を、水槽の中に集めてしまったのだろう。
それに部屋の中は焦げ臭かった。
ラシールは窓を開けた。
見慣れた王都の石畳の街並みを眺めながら、ラシールは偉大なる冒険者ラザについて思い出していた。
ヴィラス大陸の中央部には砂漠と険しい山脈が横たわっている。
東側には大陸を迂回して船でならば行くことができたが、人足でその砂漠と山脈を越えるのは無理だと言われていた。
その過酷極まりない旅をはじめてそれを達成したのが冒険者ラザだった。
彼は優れた水の操手だったという。もしかしたら、彼も、いまラシールがしたように、空気の中の水を集めて喉を潤したのかもしれない。
――ラザのような力を、わたしは手に入れたんだ……!
だが、努力で手に入れた力ではない。
偶然、手に入れた力でもない。
人を殺して――それも父を殺して、手に入れた力なのだった。
――そういえば……。
ラシールは自分がまだ、父の死で涙を流していないと気づいた。
最後に泣いたのは、父を殺す直前だ。
父を殺したあと、まだ泣いていない。
激しい頭痛の中、追っ手から逃げ、森を駆け抜け、感覚の変化に戸惑っているうちに夜が明けてしまっていた。
父の死を悲しむ余裕さえもなかった。
泣いては視界がぶれる。走れなくなる。
泣いては嗚咽が漏れる。追っ手に気づかれてしまう。
涙は押し殺した。
母や妹のいるまえで泣くわけにもいかない。泣いては訝しまれてしまう。
父が殺されたことは――明るみになってはいけない。
だが、明るみになるのも時間の問題だろう。
仕事が忙しくて家を空けがちになる父とて、二日や三日、帰宅せねば母が怪しむ。
いや、そのまえに、職場の同僚が父がいなくなったことに気づいて連絡してくるだろう。
それに、父の遺体はどうなったか。
追っ手が処分したのか、それとも父を殺したあの場所に放置されているのか――。
後者であったら、そのうち騒ぎになるだろう。
南西の花街で死体が転がっているのはともかく、東側は貴族や金持ちの屋敷が建ち並んでいる。ラシールの家も南東の官吏の家が多い地域にある。
父はたくさんの謎を残して死んでしまった。
だが、しばらく、何も他のことは考えずに、ただ父の死を悼みたい――。
――いまならひとり……。
だれにもばれずに悲しめる。
そのとき、警吏の制服を着たふたりの男が、ラシールの家のまえの通りを歩いてくるのが見えた。
警吏はいつでも街を巡回している。珍しいことではない。
ふたりの警吏は捜し物をするように、あたりをきょろきょろ見回している。
ふと、警吏のひとりとラシールは目があったような気がした。
――気のせいかしら……。
ラシールは隠れるのも逆に怪しまれると、そのまま何気ないふうを装って、窓の外の景色を楽しんでいるふりをした。
視界の端では警吏を観察する。
ふたりの警吏はラシールの家のまえで止まった。
ラシールの鼓動が速くなった。
呼び鈴が鳴らされる。
「どなたですか」
母の声が聞こえた。
家の扉が開く音がする。
警吏は家の中に入ってくる――。
ラシールの心臓は息ができなくなるほど早く脈打っていた。




