3.深淵なる謎
森で一夜を過ごしたために、体中が泥だらけだった。
――熱いお風呂に入りたい。
ラシールは浴槽へと向かった。
王都のほとんどの民家は水路と繋がっている。王都中を張り巡らせた水路に、西側を流れる小川の水を引いているのだ。
浴槽の横には。汲み出し式のポンプがあった。井戸水をくみ上げるポンプと同じような原理になっており、これを押し続ければ、水路の水を引き入れることができる。
だが、水使いにはポンプは必要ない。
ラシールは家の脇を通る水路の水へと意識を集中させた。
水を操って、給水管へと誘導する。
浴槽の上の管から、水が勢いよく噴き出した。
家族の中で水使いはラシールと母のふたりだ。
だから、風呂を沸かすのはふたりのどちらかの仕事だった。
水使いがひとりもいない家族は、浴槽を水で満たすために、ポンプを押し続けなければならない。かなりの一苦労である。
そういう家の大概は火の使い手だ。だから、浴槽の水は滅多に汲み替えず、火を焚いて高温にすることで浄化しているという。
水使いがふたりいるラシールの家では、人が入るごとに浴槽の水を排水する。風呂を沸かすのにほとんど時間はかからないからだ。
家族であったとしても、人が入ったあと、垢が浮いているかもしれない浴槽の水に浸かるのは、水使いのラシールにとっては、ちょっとばかり不潔に思われた。
だが、火の使い手の家族にとっては普通なのだろう。
浴槽に水が溜まると、次にラシールは浴槽の水に意識を集中させた。
――熱くなれ……。
ラシールは念じた。
すると、一瞬にして浴槽の水からは湯気が立ちはじめた。
――早すぎる……。
水使いは、水を操って氷を作ったり湯を沸かしたりすることができるとはいえ、ラシール程度の力では、湯船の水をすべて温かくするのに十回かそこら、息をする時間が必要だった。
だが、今日は一瞬だった。
力が相当大きくなっている。
ラシールは湯の加減を確かめるために、手を湯船につけてみる。
「熱っ――!」
ラシールは思わず悲鳴をあげた。
湯船の水は沸騰しそうなほどの熱さになっていた。
――一瞬で、これほどの水を熱くできるなんて……!
ラシールは放心した。
湯船につけた左手がひりひりと痛む。
「ラシール、どうしたの?」
浴室の外から母の声がした。
「だいじょうぶ?」
「――お風呂の水を熱くしすぎただけ」
ラシールは何気なさを装って答えた。
湯船が熱すぎるので、ラシールは浴槽に冷水を足した。
管から噴き出す水の勢いもいつもより激しい。
すぐに人が浸かるにちょうどよい温度になった。
給水管の太さ以上の水は出ないから、水が出過ぎるということはなかったが、もし管がもっと太ければ――。
ラシールはさぶんと湯船に身体を沈めた。
――お父さんはやはり相当な力を持っていた……。
父は六十四歳だった。だが、見た目は中年に差し掛かっているかという、まだ若々しい外見をしていた。
物心ついてから今まで、父が変わった様子はない。相当な力を持っていたから、年を取るのが遅かったのだろう。
父の一歳は平均的な人間の十年か――それ以上か……。
――六十四っていうのも……嘘かもしれない。
本当は百年かそこら生きていたのではないだろうか。
父は風の使い手であった。
しかし、ラシールの水を使う力が劇的に向上していることから、父は水を操る力も持ち合わせていたということだ。
それは、父が過去に水使いを殺しているということを意味している。
過去に父に殺された人間の家族か友人が恨んで、父を殺そうとしたのか。
――だが、なぜいまさら……。
父が警吏であったのはラシールが生まれるまえだ。
ということはやはり、父の強大な力を狙って、父を殺そうとしたと考えるのが妥当だろう。
――そういえば……。
母が留守にしているときに、父が風呂に入っていたことがあった。
ラシールはいつも自分と妹の風呂の支度をしていた。父が風呂に入るときは母が湯を準備する。
あのとき、父は、湯を沸かしてから母が外出した、と言っていた。
――その言葉を信じて疑わなかったけれど……。
母ではなく、父は自分で風呂の湯を沸かしていたのだろう。
あのときだけではない。
おそらく、毎晩、父は自分で湯を沸かしていたのだ。
母は父に口車を合わせていたのだ。
――どうして、いままでなにも言ってくれなかったのだろう……。
たしかに人を殺したというのは褒められたことではない。
だが、警吏である父は仕事として、任務として、人を殺しているはずである。
恥じることではない。
それに、警吏もある一定以上の人間を殺したら、退役させられると聞いたことがあった。
三人以上だったが、五人以上だったか――はっきりとは覚えていないが、殺すのが許されている人数はそれくらいだったはずだ。
つまり、父は一定数の犯罪者を殺してしまい、警吏を退役したのだろう。
――だが、数人殺しただけにしては、お父さんの力は強すぎる……。
十人か、百人か――とにかく大勢を殺し、父はその力を吸収していたはずだ。
そして、その力はいまやラシールのものなのだ。
――ということは……!
ある考えに至って、ラシールは熱い湯船に浸かっているにもかかわらず、寒気で震えた。
父の操力はとてつもなく大きかった。
つまり、寿命がとてつもなく長いということだ。
――ということは、わたしの寿命は五百年か、八百年か、それ以上か……。
つまり、母や妹や友人や――まわりの人々の寿命が尽きても、ラシールは若いままであろう。
みんな先に死んでしまう。
ラシールだけまったく老いないのだ。
一緒に生きていくことすら、できないかもしれない。
少なくとも、父を殺したことを隠し通したまま、一緒に生きていくことはできない。
ラシールが年を取らない理由が明るみになったら、処刑台行きだ。
十年か二十年はごまかせるだろう。
だが、それ以上は無理だ。
――こんな力……欲しくなかった……!
百五十年かそこらだった寿命が、一気に伸びた。
だから、夜が明けるのが一瞬のように感じられたのだ。
王族のような千年生きる人間にとっての一日と、庶民の多くの百年程度生きる人間にとっての一日では、寿命に対する一日の価値が異なる。
だから、父が死んでから、時が飛び去るように感ぜられているのだ。
父の死を純粋に悲しむことができない。
無論、父の死は悲しかった。
だが、一方で謎が多すぎる。
なぜ父が強大な力を持っていたのか。
なぜ父は殺されそうになったのか、追っ手はだれだったのか。
なぜ警吏だった父が警吏を信用するなと言い残したのか。
なぜ父がラシールに自分を殺させたのか。
なぜ父は、ラシールが苦難の人生を送ることを知りながら、ラシールに力を受け継がせようとしたのか――。
――それに……臥虎の……砦?
ふと父が言い残した不可解な言葉を思い出す。
――臥虎の砦は信頼できる……。
そう父は言っていた。
臥虎の砦とは何なのだろう。
父の最後の願いならばと、父を殺すことに同意した。
たしかに父は死にかけていた。
少しでも自分に長生きをして欲しかったのだろう――そんな思いだろうと思って、父の提案に同意した。
だが、やはり禁忌は犯すべきではなかった。
正確な言葉は忘れたが、父は血族殺しの禁忌など幻だというような、血族殺しを軽んじることを言っていた。
しかし、禁忌が禁忌と呼ばれるにはなにかしらの理由が存在する。
――そのようなものを犯してはならなかった……。
近親相姦も禁忌とされている。
もし人間が本能から近親相姦を嫌悪しているならば、わざわざ禁忌として禁止しなくてよい。
だが、そうではないから禁忌として定めなければならなかったのだ。
禁忌として制裁しないと、近親相姦を好む一部の人間が、血縁者同士でまぐあい、健康でない子が生まれてしまう。
そんな悲劇の子どもが生まれないようにするために、近親相姦は禁忌として制裁されている。
血族殺しも、なにかよくないことが起こるから、禁忌として定められているのだ。
近親相姦は罪だが死刑にはならない。だが、血族殺しは死刑だ。
なにかよくないことが起こるから、血の繋がった者を殺すのは最大の悪とされるのだ。
「ラシール、まだお風呂に入っているの?」
また母の声がした。
ほんのわずかな間、湯船に浸かっていたつもりだったが、すでに風呂の湯は冷たくなっていた。




