9.契り
日が暮れて、お互いの顔が見えなくなりはじめた頃に、ルーサの送別会はお開きになった。
夜は眠くて勉強に集中できないため、サフィアスは早く寝て、朝に勉強するようにしていたが、今夜はルーサがサフィアスの部屋に寄ると言っていたので、眠らずに待っていた。
近くの部屋からはまだ話し声が聞こえてくる。夜はまだ更けてはいなかった。
サフィアスの部屋の戸が叩かれた。
「入ってくれ」
サフィアスが声を張り上げると、ルーサが部屋に入ってきた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや――」
送別会が終わっても、最後にいま一度、ルーサと個別に話したがる生徒が、彼女の周りに群がっていた。
「シオンは?」
ルーサがシオンの寝台のほうへと顔を向ける。
「寝てる」
「そっか」
残念そうにルーサは肩を落とした。
「じゃあ、これ、元気になったらシオンに渡してもらえる?」
ルーサが手紙を差し出した。
封筒は手作りされていた。ここにいる生徒は手紙を出す相手などいないから、学舎には封筒がないのである。
サフィアスは手紙を受け取って、ゆっくりとルーサに頷いた。
「明日、いつ頃、出立する?」
「日の出まえだって」
「そんなに早くなのか」
「たぶん、ここから街まで距離があるんだと思う」
「ああ、たしかに」
王都の路地裏で這いつくばっていたサフィアスが警吏に保護されてからこの学校へ来るまで、かなり長い道のりを経た記憶がある。九年まえのことでよく覚えていないが、長い間、馬車に揺られたはずだった。
「シオン、早くよくなってね。よくなったら、手紙読んでね」
眠っているシオンにルーサはそう呼びかけた。それからサフィアスに向き直る。
「わたしね、文官の官吏登用試験を受けることにしたわ」
「そうか」
「たぶん、今のままでは受からないから、しばらく勉強してからになると思うけど」
「そうか」
もっと激励の言葉をかけてやりたいと頭を巡らせた。だが、ただ「がんばれ」と言うのは味気ない気がした。
「サフィアスは警吏の登用試験を受けるんでしょう」
「――卒業できたらな」
「絶対できるわ、すぐに」
「そうだといいが」
サフィアスは自嘲するような笑みを浮かべてしまう。
「わたし、サフィアスは本当にすごい操手だと思う」
「ありがとう」
また沈黙が流れた。
ルーサはどこか不安そうな表情でサフィアスを見つめていた。
なにを話すべきかわからない。――言いたいことはいくらでもあった。だが、この最後の瞬間に、なにを言うべきか絞り切れなかった。
――言ってしまおうか……。
心に秘めていたルーサへの気持ちを――吐き出してしまおうか。
そうサフィアスは思った。
どちらにせよ、レアによると、だれもがサフィアスの気持ちをしっているらしい。
サフィアスが覚悟を決めかねていると、ルーサが口を開いた。
「わたし、怖いわ」
ルーサは現実から目を背けるように目を閉じて、眉根を寄せていた。目を閉じていても、顰めっ面をしていても、彼女は美しかった。
――なにが怖いか……。
聞くのは野暮だとサフィアスは思った。
十年も学舎に守られてきた。食事を与えられ、寝る場所があり、困ったときには友がいた。
それが、また――ここへくるまえのように――ひとりで歩んでいかなければならなくなったのだ。
聞くところによると、卒業してから一月は、仕事と住む場所を見つけるために、王都の国営の宿舎に泊めてもらえるという。
だが、その後はただひとりだ。
自分で稼ぎ、自分で炊事をし、自分で寝る場所を確保しなければならなくなる。たったひとりで、生きなければならなくなる。
庶民でも仕事を見つけているのだ。その庶民より十分に大きな操力をここの生徒は持っている。
仕事は見つかるだろう。
生きてはいけるだろう。
それでも、十年もの間暮らした場所を離れ、薄れる記憶の中にしかない俗世へ戻っていくのは勇気がいる。いらないはずがない。
ルーサが目を開けた。
「サフィアス、警吏って人の居場所を探せるんでしょう」
「ああ、たぶん」
「じゃあ、約束して。警吏になって、わたしのこと見つけてくれるって」
どういう意味でルーサはそう言っているのか――。
サフィアスにはわからなかったが、もはやどうでもよかった。
――ああ、もちろん――。
「見つけてやる。絶対に」
サフィアスは即答した。
「レヴィスに誓う。警吏になってルーサを見つける」
ルーサが泣きそうな顔で、しかし嬉しそうに笑った。
――美しすぎる……。
サフィアスは永遠にそのルーサの顔を見つめていられるような気がした。否、見つめていたい。
何度、不合格になろうと、絶対に警吏になる。そして、絶対にルーサを見つける。
「これをサフィアスに」
ルーサに渡されたのは緻密に刺繍がされたハンカチだった。
「それまで、わたしのことをサフィアスが覚えていてくれるように」
桃色の美しい花が何本も刺繍されている。かなり時間がかかったはずだ。
「ルーサが縫ったのか」
「ええ」
「なんていう花だ?」
「月桃花よ」
サフィアスには知らない名前の花だった。
「ありがとう。大切にする」
サフィアスが微笑みかけると、ルーサは心なしか顔を赤らめているようだった。いや、サフィアスの気のせいかもしれない。蝋燭の火はそもそもが赤い。
「おれからも――」
サフィアスは粉薬の入った小瓶を差し出した。
「――これって……」
「ああ。ガイユ先生にもらった――死守花の薬だ」
サフィアスはルーサの反応をうかがった。ルーサは意外そうな表情をしている。少なくとも、嬉しそうではない。
「――いや、その……ほかに気の利いた贈り物が思い付かなかったから」
やはりもらい物を渡すなんて失敗だったかとサフィアスは後悔した。それに、もともとはガイユの持ち物だ――ルーサもガイユに心を寄せるひとりであったかもしれない――。
「飲んでなかったの」
ルーサは怒っているように見えた。
「シオンが会話もできなくなるくらいの病気になっているっていうのに?」
「――ルーサは薬草に興味があるらしかったから……これが一番の贈り物になるんじゃないかって思ったんだ。滅多にお目にかかれない薬草らしいし」
「――」
「もしルーサが喜んでくれるなら、おれは病気になろうがかまわない。ルーサの喜んだ顔を見たかったから――」
「ありがとう」
ルーサが抱きついてきた。
サフィアスは驚いたが、それは一瞬ですぐに、ルーサの細い身体に両腕を回した。
しばらくふたりは抱き合っていた。