遺言
プロローグはヒロイン視点です。
一話からはしばらく男主人公視点。
路地裏をただひたすらに走った。
あたりは真っ暗だ。
どちらが正しい道かわからない。
ラシールは王都で生まれ育った。たとえ暗闇の中でも、いままで迷ったことはない。
だが、追っ手から逃げようと走りつづけ、自分がどこにいるのか見失ってしまっていた。
「殺せ!」
追っ手の声が美しい満天の星空に響きわたる。
「捕らえなくてよい! 殺せ!」
ラシールは追っ手の声とは反対へと進路を変えた。
しばらく走り続けると、少し開けた場所に出た。
あたりを仰ぎ見る。
宮殿が北の方角に見えた。
東の森の近くまで来ているらしい。
そのとき、後方で呻き声がした。
男が腹を抱え、苦しそうに人家の壁に寄りかかり、そして地面に倒れた。
「お父さん!」
衣が血に染まっている――星明かりにのみ照らされた染みは腹に黒い穴があいているように見えた。
男が腹部を押さえる手を放した。
横腹がえぐれ、腸が飛び出していた。
こんな傷を追いながら、父は走り続けていたというのか――。
吐き気が込み上げてきた。唾を飲み込んでどうにかこらえる。
「おれは死ぬ」
父が平然と呟いた。そのあまりの平然さは奇妙なほどだった。
瞼の奥から熱いものが込み上げてくる。
「泣くな」
その口調は説教というより、父が娘を慰めるそれだった。
「泣くと視界がぶれて、集中力が削がれると教えただろう」
父は娘の涙が伝う頬を愛おしそうに撫でた。
彼は手の感触に集中するように目を閉じ、口角を上げた。
微笑しているようだった。
笑みなど浮かべられるような状況ではない、この瞬間に――。
「おれを殺せ」
目を閉じたまま、父は静かに言った。
「なにを言っているの!」
叫んでから、口を塞いだ。
追っ手に、ここにいることを知られてはならない。
聞かれはしなかったか――。
「お父さんを殺すなんてできない。できるはずがないでしょう」
声を潜めて言う。
足音は聞こえない。
だが、足音が聞こえないだけで追っ手が近くにいる可能性はある――。
「ラシール、おまえひとりなら逃げ切れる。狙われているのはおれだ」
獰猛な鷹のような戦士の目で父はラシールを睨めつけた。彼の手が鼻に触れると、血の生臭い匂いが鼻をついた。
「できない……」
ラシールは首を横に振った。
「おまえが黙っていれば、おれを殺したことは明るみにはならない。自害したものと思わせておけ」
「――できない……」
ラシールの拒絶を無視して父は続ける。
「臥虎の砦は頼れる。彼らを見つけて頼れ。だが警吏はだめだ。絶対にだ」
「――なにを言っているの……?」
――ガコの……なに?
父が父でないようだった。まったく知らない他人に思える。ラシールが知る口数の少ない穏和な父とはかけ離れている。
「おれを殺したことはだれにも話すな。警吏にはことさら気をつけろ。おれを殺したあとは死体を放って逃げるんだ」
「そんなこと……禁忌だわ」
人殺しだけでも極めて邪悪な行為だ。どんな理由があろうと、人を殺せば死刑という処断が待ち受けている。
まして血族殺し――それに勝る禁忌はない。
「禁忌はそれを封じようとする者によって作られた幻だ」
「どういう意味?」
父は答えず、代わりに激しく咳き込んで口から大量の血を吐き出した。
父はラシールの手を握り、自分の腰へと動かした。そこには短刀があった。
「できない……」
「できる」
父は断言するように言った。
「ラシール、生きろ。なにがあっても生き続けろ。それが父の唯一の願いだ」
ふと、屈強な戦士のような目つきが、いつもの穏やかで優しい父に戻った。
ラシールはすでに父が死を受け入れていることを悟った。
「殺せ。おれはもう長くはもたない。おまえ以外に殺されるならば、そのまえに自害する」
その刹那、父の目が陰った。
彼は体にまとわりつく死の影を振り払うように、身震いをした。
「ラシール、おれに犬死にさせるな!」
夜空に父の声が響いた。
再び足音が聞こえてくる。
――近づいてくる。
父は故意に追っ手を呼んだのだ。
ラシールは意をけっして父の短刀を握った。
「おれを殺すんだ。心臓を一気に貫け。しっかりとおれの息の根を止めるのを見届けろ。けっして失血死させるな」
ラシールは何度も首を振って頷いた。
短刀の切っ先を父の左胸へと向ける。
「愛している」
父がそう言ったのははじめてだった。
「わたしも愛してる」
ラシールの声は涙で震えた。
父は小さく頷き、目を閉じた。
プロローグの続きは第二章、ヒロイン視点に戻ります。
第二章が、血族殺しの禁忌を犯してしまったヒロインのその後です。
第二章から読んでもかまいませんが、第一章で世界観の説明をしているので、第二章に飛ぶとちょっとわかりにくいかもしれません。
ちょっと長いですが、第一章を先に読むのをおすすめします!
ブックマーク、本当にありがとうございます!嬉しいです!